2話 ボイちゃんの中の人
機材を抱えた僕は研究室のドアを肩で開け、足を挟んでそっと閉めた。
「教授、これどこに置きますか? 空いてる場所ないですよ」
「統一郎くん、場所をあけてから取りに行きなさいよ」
置き場所を探す僕に、周防教授は悪びれずに資料を積み上げて空間を作る。おじいちゃんというにはまだ若いが、次の学会まで切りに行く暇などないと宣言して括っている髪には、白いものが混じっていた。博士後期課程ともなると、うちの教授は気軽に「急なお願い」をしてくる。僕はいま学会発表の準備でデータ解析などを行なっていた。バイオ系はとりわけ扱うデータが多い、と思う。
「僕、バイト辞めてきました」
「それは私への苦情かね。統一郎くん」
「受験生は待ってくれませんからね」
これまでは週に2回、家庭教師に行っていたが、さすがに暇がない。研究補助としてバイト代が出ないか、もしくは教授経由で割のいい仕事を紹介してもらえないかと教授を伺い見る。先輩からの有難い教えは「粘れ」だ。
「そうだなぁ、君、モテ声だから声の仕事する? ちょうど誰かいないか聞かれてたんだよね。時間拘束されないからおすすめ」
モテ声と言われて眉を顰める。あまり自分の声は好きではない。ガヤガヤしたところでは特に聞き返される籠もった声だ。教授の声が聞こえていたのか、同期の陽介がバカ笑いをしてシャーレを落とした。愚か者め。教授が引き出しから探し出した紙を渡してくれる。
「AI風ボイスサービス、ですか」
紙面には声優・推し活ブームをヒントに、人間の声を使って実証データを集めていること、最終的にはボイス役の声を合成してAIボイスにすること、こうしたサービスにありがちなトラブルをAI化することで防ぐことが書いてあった。
「統一郎くんは社会に出る前にコミュニケーション学んでおいた方がいいよ」
半分からかうような調子で紙を指先でトンと叩かれる。理系の男子学生なんて似たり寄ったりではないか。教授の余計なおせっかいを聞き流し、実験の待ち時間にできるのはいいなと考える。話した内容はボイス用のスマホを通して記録されるようだが、個人的な話はしないし、特に問題はないだろう。
「色々勉強になると思うよ。この世界もコネと人脈が重要だからね」
「わかりました」
教授の強い念押しに軽くため息をついて、僕はこのバイトを引き受けることを了承した。
ある日、ボイス役での会話を終えると、陽介が難癖をつけてきた。
「統一郎は『うん』とか『はい』ばっかりだな」
「うるさいな。話を聞くバイトだからこれでいいんだよ」
苦し紛れに返事をする。本当はよくない、とは思う。だけど愚痴とか恋愛相談とか何と答えればいいのか。嬉しそうにずっと話しかけてくる子もいるけれど。リピーターが少ないのは自覚している。
「確かにそれだと有効なデータが取れないねぇ。統一郎くん、応答問答集がついてきてただろう?」
実験には厳しい教授からも指摘される。忘れてた。リュックを漁ると紙の束が出てきた。すかさず陽介が横から手を出して持っていって読み上げる。
「頑張ってるね、なるほど、知らなかった、そうなんだ、すごいね。へぇー、これなら統一郎でも使えるだろ。そうだ、今度、オンナをおとす口説きのテクニック集を持ってきてやるよ」
それは方向性が違うだろう。陽介から問答集を奪い返す。
だけど問答集を人前で使うのは抵抗があったので、ボイスサービスのバイトをするのは、自然と人の少ない夜の、データ待ちのタイミングになっていった。
夜の早い時間は気軽に使う層が多いようだ。最近、よく繋がるハルカさんもその1人で、重くない話が多く、僕も問答集以外の返事もできるようになってきた。
「ハルカさん、こんばんは」
「ボイちゃん、ただいま。今日は推しのガチャを回してきたの!」
「そうなんだ。いいの出た?」
この人は僕のことを「ボイちゃん」と呼ぶ。統一郎の統から『SUBERU』と登録しているのに何故なのか。誰が出ても同じように話しかけるようにしているのだろうか。
「んー、欲しいの出るまで4回も回しちゃったよ。明日はお昼抜きかな」
「無理しないでね」
自分も昼抜きはよくやるけど大丈夫かなと少し心配になる。
「大丈夫だよー。これで〇〇キロ台を切れるかもっ」
「体重は個人情報だからっ。口には出さないで」
「ボイちゃん、焦りすぎー。個人情報はOFFの設定にしてあるから大丈夫だって」
なんでピー音が鳴らないんだ。女性の体重を聞かされてしまった。ハルカさんは何も気にしていない。正解がわからない。女性の体重と年齢はタブーじゃなかったのか?
「それでも。こちらには聞こえているので」
「ボイちゃんはボイちゃんだからいーんだよ」
よくわからない理屈を捏ねられる。飲んでいるのか、陽気な会話が続いていた。僕は夜のデータ待ちの時間が段々と楽しみになってきていた。
問答集を使うようになってから、教授みたいに声を褒めてくれる人や、もっと話したいと言ってくれる人が増えてきている。正直、プレミアムの契約はバイトとしてとても割りがいいが、僕は1時間も話せる自信がなくて断り続けていた。
だけど、この人なら1時間連続のプレミアムプランでも問題なく喋れるかもしれない。
そう思っていたら、ハルカさんからプレミアムプランの登録申請が届いた。口が緩みそうになるのを、下を向き頬を噛んで堪える。僕は少し緊張しながら申請許可をクリックした。
それからは家に帰ってからの23〜0時がハルカさんとの時間となった。
「こんなの、お金もらっていいのかな」
一時間が過ぎるのが早い。相変わらず、「いまお風呂入っている」とか言って僕を慌てさせてるけど。教授は安易に泊まり込みをしなくなった僕を見て満足げに頷いている。最近は学生の泊まり込みは苦情が入るそうだ。
小雨の降る日、珍しくハルカさんの声が落ち込んでいた。途切れがちの話に耳を澄ませる。僕はただ、頷いていた。
「——ボイちゃんが人だったらよかったのに」
え? 不意に呟かれた言葉に戸惑いながらも、勝手に口が動く。
「……本当に人のがいい?」
「うん。ボイちゃんじゃなきゃいやだ。体温を感じたい」
いつものハルカさんとは違う、生身の言葉にドキリとする。ああ、「ボイちゃん」は僕だけのことを指していたんだな。他の誰でもなく。
「本当に人のがいいと思うなら——僕の取扱説明書をよく読んでからまたアクセスして」
通話を切ってぼんやりとスマホを眺める。
そうか、あの気安さは僕を人だと思っていなかったからか。
「ちゃんと説明書、読んで契約してくれよ……」
椅子にもたれて天を仰ぐ。変なことを言ってしまった。僕が人だと分かったらもうハルカさんから連絡が来ることはないだろう。先ほどの熱のある言葉を思い出して寂しさを感じる。僕は長いこと動けなかった。
それから僕は学会準備に集中し、泊まり込みも再開させた。様子のおかしい僕を教授は眉を顰めながらも黙って受け入れてくれた。何かしていないと落ち着かなかった。ハルカさんからは1週間連絡がないが、プレミアムプランは解約されていない。
「はぁ〜」
23時。知らず、ため息が出る。ボイス用のスマホを手の中で転がしながら、結局気になるのなら泊まり込みも無意味だなと自嘲する。気晴らしにコーヒーでも飲もうかと立ち上がったところで、スマホの画面が光って鳴動した。ハルカさんだ。一瞬、躊躇ってから座り直し、応答する。
「あの、こんばんは」
緊張していつもの応答ができなかった。AIの振りをしていたと詰られるだろうか。
「えと、ハルカです。説明書、読みました。すみません、人だと知らずに大変なご迷惑をっ」
勢いよく謝られた。肩の力が抜けてふっと笑ってしまう。
「いえ、こちらこそ誤解に気づかず申し訳ありません」
答えながら今の自分たちは、ボイちゃんとハルカさんではない関係だなと冷静に考える。大人の、人間同士だ。
「それで、あの、1週間考えたのですが、やっぱりボイちゃんに会いたくて。でも、そんなのダメですよね、すみません……」
後半の声は、か細く小さくなっていく。そんなのダメに決まってる。だけどボイちゃん、つまり僕に会いたいと伝えてくる声に、連絡のなかった1週間と、その前の最後の会話を思い出し、スマホを握る手に力が入る。そして、僕は——。
「あー、規約違反だよなぁ」
通話を終えた僕は頭を抱える。ボイス役と利用者の直接的な接触は御法度だ。教授に謝罪してバイトを辞める手続きをしないと。顔を上げると陽介が持ってきた「オンナをおとす口説きのテクニック集」が視界に入ってきた。
「マジかー」
じわじわと顔が赤くなっていくのを、感じた。




