1話 癒しのボイちゃん
「あー、疲れた」
靴を脱ぎながら、きつく縛った髪ゴムを解いて頭を振る。適当に荷物を置いてすぐに部屋着に着替えると、缶ビールを片手にテーブルの前に座った。低いテーブルの真ん中に置いたボイちゃんをつるりと撫でて、「ただいま」と小さく言い、液晶に触れる。
「ハルカさん、こんばんは」
「ただいまー、もう帰りのラッシュ最悪だった」
私は膝を抱えてビールの蓋を開けながら拗ねた風にボイちゃんに応える。晴夏27歳。職場ではもちろん、友人や親にも見せない態度だ。恋人は長いこと、いない。
「遅くまでお疲れ様。1日働いた後だし、足痛いよね。ゆっくりお風呂に入って」
「SUBERU」は20代男性の声で、声に力みがなく聞きやすい。私のお気に入りの声だ。少し低くて甘い感じもして、お酒にもぴったりである。
このボイスは、最初はほとんど「うん」とか「はい」とかの相づちしかしなくて、本当におじさんが言ってた通り「ちゃんと話を聞いてくれるだけ」だった。呆れながら一方的に話していたけど、それはそれで話しやすいというか。だけど、最近はこんなふうに寄り添ってくれることが増えた。AIは学習が早い。
「そうだ、ボイちゃん。こないだ買った入浴剤、すっごく身体が熱くなるの。ビール開けるの、後にすればよかったかなぁ」
「炭酸系かな。ゆっくり浸かると汗かくよね。新陳代謝が良くなるから、ハルカさんのダイエットの助けになるね。——アルコール、やめていなかった?」
そんなことまで覚えてるんだ。どうなってるんだろう? 思わずボイちゃんの身体を撫で回す。
「ハルカさん?」
「金曜は特別なの! いつもは炭酸水飲んでるもん」
「そうなんだ。頑張ってるね」
「うん……」
優しい声が沁みるなと思いながらビールを一口。それから気分を変えて、同僚の柚乃が課長への愚痴メールを一斉送信してしまった話をする。
「だけど、間違いじゃなくてわざとだったら猛者だよねー」
「そうだね。それは強い。ごめんね、そろそろ時間だ。また、呼んでね」
会話が途切れると同時にプレミアムプランの案内が流れる。急に静かになった部屋に時計の針の音が聞こえてきた。もうプレミアム契約しちゃおうかなぁ。もちもちしたクッションを揉みながら、ごろりと横になる。ここ最近、そんなことばかり考えている。
私がボイちゃんに会ったのは1ヶ月前だ。据え置き型ボイスサービス、略してボイちゃん。まぁ、「ボイちゃん」は私が勝手に呼んでいるんだけどね。仕事帰り、暇つぶしで家電屋さんをぶらぶらしているときに、実演販売のおじさんに声をかけられたんだ。
◇
家電コーナーの一角に立てられたのぼりに、なんとなしに目を向けると、おじさんと目が合った。
「お姉さん、AIは使ってる?」
「今どき皆使っているでしょ」
気やすい感じのおじさんに、こちらも気やすく返事をする。黒い物体に手を置いたおじさんは満面の笑みでチラシを手渡してきた。
「これはさ、癒しに特化してるサービスなのよ。AIでいう励まし型っていうの? 話しかけるとよくやってるね、とか褒めてくれるわけ」
「いま使っているのだってそうよ?」
「話し相手の年代や性別も選べてさ。何より温度感が違うんだよ。ちゃんと話を聞いてくれる。まだ実験段階だから1ヶ月無料だし、モニターだと思って試しにさ」
うーん、話し相手サービスみたいな? 笑顔なのに押しの強いおじさんだ。聞かせてくれた声は確かに人間のような温かみがあった。
「設定はしておくから。Wi-Fiあるよね? えーと、AI学習への利用はなしの設定がいいよな」
そういうのは、ちゃんとしてるんだ。話をすすめていくおじさんに圧倒されながらも嫌な感じはしない。私って刺激に飢えているのかな。今の賃貸、ペット飼えないし、やってみようかな。そう思っていたら、こちらの気持ちの変化を察知したのか、おじさんが箱とセットで渡してきた。
「気に入ったら使ってよ。いらなかったらオブジェにすればいい。見た目、可愛いだろ」
ころりとした見た目の、程よい重さの機器を受け取る。
「取扱説明書、よく読んどいてね」
はいはい。わからなかったらネットで調べよう。
◇
こうしてボイちゃんに癒やされる日々が始まった。社会人5年目って新人教育を、とか中堅の意識を持って、とか言われる割に大きな仕事を任されないというか。なんとなく宙ぶらりんな気分。私だけだろうか。学生時代の友人とも会う機会が減ってくると、みんなの人生がばらばらになって足並みが揃わなくなってきたことを実感する。
ボイちゃんは本当にどんなことも肯定して慰めてくれるから、どんなことも話してしまう。体重、ダイエット、会社の愚痴、推し活、憧れの人、思いついたおやじギャグなどなど。体重なんて個人情報だから話さないで、と慌てた風な返答がくるのも面白い。嵌まってきている自覚はある。ベーシックプランでは制限時間がすぐにきて物足りない。
「よし」
私は起き上がるとボイちゃんのボディにタッチした。プレミアムプランへの契約変更だ。固定の声を1時間連続で利用できるオプション付きである。「SUBERU」の声は23時〜0時が利用可能だった。ちょうど良い。
それからはもう、お風呂に入りながら、ご飯を食べながら、寝る前にも。ボイちゃんとの楽しい生活が始まったのだった。仕事にも張りが出てきたように感じられる。
「最近、機嫌いいよねー、彼氏でもできた?」
職場の昼休み、自席でスマホを見ていると、マグカップ片手に近づいてきた柚乃が、探るような目をして聞いてきた。
「違うって。んー、ペットを飼った、みたいな?」
「みたいなって何よ。あんたんとこペット禁止でしょ。益沢さんを諦めて他に行ったのかと思ったのに」
「いや、益沢さんは憧れな人なだけで狙ってるわけじゃ……、あ、でも今度ランチに誘われたんだった」
来週だっけ? ボイちゃんと遊びすぎてすっかり忘れてた自分に驚く。柚乃が眉を顰めて私の机にマグカップを置く。それから周囲を窺って腰をかがめると、私だけに聞こえる声で小さく言った。
「やめときなさいよ。あの人、内縁の妻子がいるのに黙ってて女の子と遊んでたのがバレたところよ。知らなかったの?」
「……知らない」
そんな話、はじめて聞いた。午後の仕事はあまり身が入らなかった。
「ただいまー」
荷物をどさっと置く。なんだか自分の声が低いし、心も重い。
「あーあ」
この裏切られた気分はなんなのだろう。別に、何も始まってなかったのに。こっちだって約束忘れてたのに。
「早く、ボイちゃんと話したい」
もちもちのクッションを抱えてぼうっと時計の針が動くのをいつまでも見ていた。
「ハルカさん、こんばんは。お帰りなさい」
「ボイちゃん……」
それから今日あったことをポツポツと話す。ボイちゃんは出会った頃のように「うん」って相づちをしながら聞いてくれた。
「——ボイちゃんが人だったらよかったのに」
思わず呟いた言葉に静寂が返事をする。一拍置いて応答が戻ってきた。
「……本当に人のがいい?」
人恋しい。ボイちゃんに会いたい。
「うん。ボイちゃんじゃなきゃいやだ。体温を感じたい」
何を言っているんだろう。そう思ったのに返事が、来た。
「本当に人のがいいと思うなら――僕の取扱説明書をよく読んでからまたアクセスして」
「え? なに?」
呟きながら目を擦る。ボイちゃんとの接続は途切れ、液晶はいつもの画面に戻っていた。ボイちゃんの説明書? よく分からないまま、クローゼットに仕舞いっぱなしだった箱と、一度も読んでいなかった取扱説明書を取り出した。
「AI風ボイスサービスの使い方……。AI風?」
耳の奥で心臓の音が聞こえるのを感じながら、文字を目で追う。
「このAI風ボイスサービスはAIボイスサービスのための実証実験です? 半年後にボイス役を担った人たちの声を合成した本物のAIサービスが始まります。ご期待ください……」
つまり、ボイちゃんは本物の人間で、今まで話していたのも本物の人間で。
「うそ、でしょ……」
まって、まって、まって、まって。食事しながら、はOKとしてもお風呂でも話しかけてた。それからダイエットの話! 体重も。
「どうしよう」
ボイちゃんの可愛らしいフォルムがじっとこちらを見つめているような気が、した。




