8:再衝突 ――人間性 vs 現実
水は回っている。配給は途切れない。列は崩れない。
それでも、医療所の布の内側では、命が落ち続けていた。
回復の光は弱く、風は穏やかに循環し、土は湿りを保つ。条件は整っているはずだった。だが、“間に合っていない”という事実は、変わらない。昨日までの飢えと渇きが、身体の奥深くまで侵食している。補給は回復に転じる前に、衰弱に追いつけない。
その現実の中心で、エルガード・カウフマンは立っている。
手の中の光は、一定の強さを保っていた。回復の限界線。その境界を越えれば、体は壊れる。越えなければ、回復は足りない。彼はその“狭い道”の上を、ひたすら歩いている。
目の前の少女は、まだ息がある。だが浅い。胸の上下は弱く、脈は途切れがちだ。
――助かるか。
計算はできる。確率も出せる。だが、それは“可能性”でしかない。
「……次に回せ」
背後からの声。
エルディア・ヴァレンティナ。侯爵家令嬢にして軍参謀、情報統制担当。彼女はすでにリストを持っていた。回復可能者、限界到達者、優先順位。
「この個体は低い。次に行け」
冷静な指示。
だが。
「まだ息がある」
エルガードは手を離さない。
「ある。だが回復確率は低い。時間効率が悪い」
「効率の問題じゃない」
「効率の問題だ」
即答だった。
「ここは“戦場”と同じだ。資源は有限。時間も有限。選ばなければ全体が死ぬ」
正しい。
だが――
「それでも、目の前は目の前だ」
エルガードの声は低い。
昨日とは違う。選ぶ覚悟はできている。だが、その“選び方”がまだ定まっていない。
その瞬間。
「……まだ、そんなことを言っているのか」
重い声が、空気を切り裂いた。
レオニア・アルディウスが、医療所に入ってくる。深紅のマントには砂と血が付着し、魔剣は鞘の中で低く唸っている。
彼女は状況を一瞥し、すぐに理解した。
「回復の優先順位が、守られていない」
視線が、エルガードに向く。
「なぜ止めない」
「まだ間に合う可能性がある」
「“可能性”か」
レオニアの眉がわずかに寄る。
「お前は昨日、何を見た」
その言葉に、空気が固まる。
エルガードは答えない。
だが、記憶は消えない。
布の列。動かない体。遅れた選択。
「……守るのが義務だ」
レオニアは言う。
「だが、“守るために選ぶ”のが指揮官だ」
昨日と同じ言葉。
だが、その意味は変わっている。
「その子を救うか、三人を救うか。――選べ」
直線的な問い。
逃げ場はない。
エルガードの手の中で、光が揺れる。
少女の呼吸が、さらに浅くなる。
時間はない。
「……」
沈黙。
その間にも、他の患者の容態が悪化していく。
「間に合ってない」
エルディアが、もう一度言う。
「その個体に拘る間に、他が落ちる」
数字が積み上がる。
現実が、押し寄せる。
「……選べ」
レオニアの声。
命令ではない。
だが、逃げを許さない。
その時、軽やかな笑いが響いた。
「面白いですね」
マリナ・ルクレツィアが、入口にもたれかかっている。
「昨日と同じ構図。少しだけ条件が違う」
「……何が違う」
レオニアが問う。
「彼が“選べるようになった”ことです」
マリナは微笑む。
「昨日は選ばなかった。今日は選べる。――だから迷っている」
視線がエルガードに刺さる。
「人間性と現実。どちらも理解しているから、どちらも捨てられない」
その言葉は、正確だった。
「……だから、決める」
エルガードが、ようやく口を開く。
光が、わずかに強まる。
だが、それは少女に向けられたものではない。
彼は、手を離した。
光が消える。
少女の呼吸が、止まる。
静寂。
「……次だ」
エルガードは言う。
その声は、わずかに低く、重い。
「回復可能者を優先する」
決断。
遅れてではない。
今、この瞬間の選択。
「……そうだ」
レオニアが頷く。
その目に、迷いはない。
「それが、守るということだ」
エルディアはすぐに次の患者を指示する。
「こちら。回復確率高。時間効率良」
流れが変わる。
回復の速度が上がる。
救える命が、確実に増える。
だが――
床に横たわる少女は、動かない。
エルガードは一瞬だけ視線を落とす。
そして、上げる。
後ろは見ない。
だが、忘れない。
「……いい選択です」
マリナが静かに言う。
「利益最大化。損失最小化」
「……違う」
エルガードは短く返す。
「ただ、選んだだけだ」
「同じですよ」
マリナは微笑む。
「名前が違うだけで」
風が吹く。
医療所の布が揺れる。
外では、列が進む。
水が配られ、食料が渡される。
生きる者と、そうでない者。
その境界は、より明確になっていく。
人間性は、残っている。
だが、現実はそれを許さない。
その狭間で、選び続けるしかない。
それが、この場所のルールだった。
エルガードは、次の患者に手を伸ばす。
光が再び灯る。
今度は、迷わない。
迷う余地は、もう残っていなかった。




