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戦わずに大陸を落とした男――気づけば公爵令嬢と参謀と商人に囲まれている  作者: 慈架太子


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7:現実提示「間に合ってない」



 水は流れている。

 土は崩れていない。

 配給の列は乱れていない。


 それでも――村は、まだ救われていなかった。


 乾いた風が、仮設の天幕を揺らす。ひしゃくの音が規則正しく響き、最低限の秩序は保たれている。昨日までの混乱と比べれば、明らかな改善だった。


 だが、その“改善”は、あまりにも遅い。


 村の奥、簡易の医療所と呼ばれている布囲いの中から、低い呻き声が断続的に漏れていた。運び込まれた者たちの多くは、水が回り始めた後に“助かった”者ではない。すでに限界を越え、回復の段階にすら届かない者たちだ。


 その前に、エルガード・カウフマンは立っている。


 彼の手の中には、淡い光が揺れていた。光属性の魔法。衰弱した体に微細な回復を与え、延命するための処置だ。だが――


 光は弱い。


 強めれば、体が耐えられない。弱めれば、意味がない。


 均衡は、紙一重だった。


「……止まる」


 エルガードが低く呟く。


 目の前の青年の呼吸が、浅く、途切れがちになる。魔力の流れを調整するが、反応は鈍い。


 ――遅い。


 その事実が、彼の思考を締め付ける。


 背後で、靴音が止まる。


「間に合ってない」


 冷静な声が落ちた。


 エルディア・ヴァレンティナ。侯爵家令嬢、軍参謀、情報統制担当。彼女は医療所の中を一瞥し、状況を即座に把握した。


「改善は始まっている。だが、回復には届いていない」


 事実の提示。


 容赦はない。


「……分かっている」


 エルガードは手を離さずに答える。


「分かっていても、変わらない」


 エルディアは一歩近づく。


「供給は戻った。だが“遅延分”は埋まらない。これが現実」


 その言葉の直後。


 青年の呼吸が、止まった。


 光が消える。


 静寂。


 エルガードの手が、わずかに震える。


 もう一人。


 改善後にも、死者は出た。


「……六人目」


 エルディアが数える。


「改善開始後、一人目」


 区切りが変わる。


 だが、それは慰めにはならない。


 外から、重い足音が響く。


 布を払いのけるようにして入ってきたのは、深紅のマントの女。


 レオニア・アルディウス。公爵令嬢、若き前線指揮官、魔剣適合者。彼女の表情は、昨日よりも硬い。


「……まだ、出ているのか」


 視線が遺体に落ちる。


 その目には、怒りではなく、明確な焦燥があった。


「供給は回っているはずだ」


「回っている」


 エルディアが即答する。


「だが、“間に合っていない”」


 同じ言葉を、もう一度。


「……どういう意味だ」


「遅延だ」


 エルディアは指を立てる。


「水が回るまでに時間がかかった。食料が行き渡るまでにさらに時間がかかる。――その間に、限界を超えた者は戻らない」


 単純な因果。


 だが、避けられない。


「……ならば、どうする」


 レオニアの声は低い。


「守るのが義務だ。間に合っていないなら、間に合わせる」


「無理だ」


 エルディアは即座に否定する。


「時間は巻き戻らない」


「ならば――」


 レオニアが一歩踏み出す。


 その瞬間。


「やめた方がいいですよ」


 柔らかな声が割り込む。


 マリナ・ルクレツィアが、ゆっくりと医療所の中へ入ってきた。上位貴族としての優雅さはそのままに、視線だけが鋭く状況を切り取る。


「無理に回復させようとすると、逆に死にます」


「……何だと」


 レオニアが振り向く。


「衰弱した体に急激な回復をかけると、循環が追いつかない。壊れます」


 マリナは淡々と説明する。


「投資と同じです。急激な資金流入は市場を壊す」


 例えは軽いが、内容は正確だった。


 エルガードは、わずかに目を細める。


 すでに理解している。


 だから、光を抑えている。


「……つまり」


 レオニアが絞り出す。


「救えるはずの者も、救えないのか」


「そうです」


 マリナは頷く。


「“間に合わなかった分”は、もう回収できない」


 静寂。


 その言葉は、重かった。


 救えない命がある。


 それも、“今この瞬間”に。


 エルガードは、ゆっくりと立ち上がる。


 手の中の光は消えている。


「……まだ、ある」


 彼は言った。


「間に合う範囲が」


「ある」


 エルディアが頷く。


「だから、そこに集中する」


「選ぶのか」


 レオニアの問い。


 その声には、昨日とは違う響きがあった。


 拒絶ではない。


 確認だ。


「選ぶ」


 エルガードは答える。


「間に合う者を優先する」


 それは、切り捨てを意味する。


 だが――


 それを理解した上での選択だった。


「……そうか」


 レオニアは目を閉じる。


 一瞬だけ。


 そして開く。


 そこには、迷いはなかった。


「ならば、私は秩序を維持する」


 彼女は言う。


「列を崩さない。混乱を起こさせない。――救える者を確実に通す」


「適切」


 エルディアが短く評価する。


「私は情報を集める」


 彼女は続ける。


「どこが限界か、誰が回復可能か、全部把握する」


「私は――」


 マリナが微笑む。


「流れをさらに加速させます。物資、人材、全部動かす」


 三人の役割が、自然に分かれる。


 エルガードは、その中心に立つ。


「……やる」


 短く、しかし確かに。


 今度は、遅れない。


 遅れを取り戻すことはできない。


 だが、これ以上遅れないことはできる。


 風が吹く。


 医療所の外で、列が動く。


 配給が進む。


 生きる者と、そうでない者。


 その境界が、より明確になっていく。


 残酷だ。


 だが、それが現実だった。


「……間に合ってない」


 エルディアが、もう一度言う。


 だがその言葉は、否定ではない。


 前提だ。


 その上で、どうするか。


 それを、彼らは選び始めていた。

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