表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦わずに大陸を落とした男――気づけば公爵令嬢と参謀と商人に囲まれている  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/100

6:初成功(小さい)――だが遅い



 水の音が、ようやくこの村に戻ってきた。


 かつては当たり前だったはずのそれが、今では奇跡のように思える。土の裂け目を縫うように引かれた細い水路を、透明な流れがゆっくりと進む。仮設の貯水槽には、わずかながらも水がたまり、配給の列の先頭では、ひしゃくが規則正しく上下していた。


 ――動き始めている。


 止まっていたものが、再び。


 それは確かに“成功”だった。


 だが。


 その成功は、あまりにも小さく、そして――遅かった。


 村の外れに並べられた布の列は、昨日よりも長くなっている。


 その一つひとつの下に、もう動かない命がある。


 風が吹くたびに布が揺れ、まるでそこにいた人々がまだ息をしているかのように錯覚させた。


 その前に、エルガード・カウフマンは立っている。


 何も言わず、ただ見ている。


 彼の背後では、流れが戻りつつあった。水は循環し、土は保たれ、風が運搬を補助し、光と闇が食料の劣化を遅らせる。六属性の魔法を組み合わせた補給構造の仮接続は、確かに機能していた。


 だが、それは“これから”を変えるだけだ。


 “すでに失われたもの”は、戻らない。


「……五人」


 低く、冷静な声が響く。


 エルディア・ヴァレンティナが、布の列を数えていた。侯爵家令嬢にして軍参謀、情報統制担当。その目は感情を乗せず、ただ結果を拾う。


「昨日からの合計。改善前に死んだ数」


 彼女は淡々と告げる。


「改善後は、ゼロ。――今のところは」


 事実だ。


 水が回り始めてから、倒れる者はいない。列は安定し、混乱も起きていない。規律は維持され、最低限の秩序は保たれている。


 小さな成功。


 だが。


「……遅い」


 エルガードが、初めて口にした。


 その言葉は、誰に向けたものでもない。


 自分自身に向けたものだ。


「当然」


 エルディアは即答する。


「構造改善は時間がかかる。即効性はない」


「分かっている」


「分かっていて、遅れた」


 短い沈黙。


 その事実は変わらない。


 エルガードが動き出したのは、すでに複数の命が失われた後だ。


 もっと早く気づけたかもしれない。


 もっと早く選べたかもしれない。


 だが、それはもう“可能性”でしかない。


 結果は、ここにある。


 布の下に。


「……意味はある」


 エルディアが続ける。


「これ以上は死なない。確率は下がる」


「ゼロにはならない」


「ならない」


 それもまた、事実だった。


 完全な救済はない。


 あるのは、損失の最小化だけだ。


 その時、足音が近づく。


 重く、だが迷いのない足取り。


 レオニア・アルディウスが、配給の指揮を終えて戻ってきた。深紅のマントには砂が付着し、鎧の一部には乾いた血が残っている。戦場ではないはずの場所で、彼女は戦っていた。


 剣ではなく、秩序で。


「列は安定した」


 短く報告する。


「押し合いはない。配給も滞っていない」


「崩壊は止まった」


 エルディアが補足する。


「一時的に」


 レオニアは頷いた。


 その視線が、布の列へと向く。


 ほんの一瞬だけ。


 だが、確かに。


「……守れたのは、これからの者だけだな」


 その言葉は、重かった。


 誇りの塊である彼女が、認めている。


 守れなかった命があることを。


 そしてそれが、自分の選択の結果であることを。


「守るのが義務だ」


 レオニアは静かに言う。


「だが、全ては守れない。――それが現実か」


 問いではない。


 確認だ。


 その答えを、エルディアは持っている。


「そうだ」


 即答。


「だから選ぶ。選ぶから守れる」


 単純で、残酷な論理。


 だが、それが成立しなければ、誰も守れない。


 その時、軽やかな拍手が一つ、空気に響いた。


「見事です」


 マリナ・ルクレツィアが微笑みながら歩み寄る。上位貴族としての優雅さを崩さず、その目は完全に状況を値踏みしていた。


「流れは戻った。崩壊は止まった。――十分な成果です」


「十分ではない」


 エルガードが低く言う。


「五人死んだ」


「そうですね」


 マリナはあっさりと頷く。


「ですが、十人死ぬところを五人で止めたとも言えます」


「……数字の話ではない」


「いえ、数字の話です」


 彼女は一歩近づく。


「価値は常に比較で決まる。ゼロか百かではない」


 その言葉に、レオニアの眉がわずかに動く。


「……それを受け入れろと?」


「受け入れるしかない」


 マリナは微笑む。


「でなければ、次も同じことが起きる」


 沈黙。


 風が布を揺らす。


 その音が、妙に大きく聞こえる。


「……次はない」


 エルガードが言う。


 その声は、これまでよりもわずかに低く、重かった。


「次は、もっと早く動く」


 決意ではない。


 約束でもない。


 ただの、事実の更新。


「それでいい」


 エルディアが頷く。


「学習した。次に活かす。それが最適だ」


「……人は、そんなに簡単に割り切れない」


 レオニアが静かに言う。


 その視線は、まだ布の列に向いている。


「割り切る必要はない」


 エルディアは答える。


「だが、止まる理由にはならない」


 正しい。


 だが、冷たい。


 その間に立つのが、エルガードだった。


 彼はもう、布の列を見ていない。


 代わりに、村全体を見ている。


 水の流れ、土の状態、人の動き、配給の速度。


 すべてを“構造”として捉えている。


 ――次は、もっと早く。


 ――もっと多くを救う。


 そのために、何をするか。


「……補給は維持できる」


 彼は言った。


「だが、根は残っている」


「悪徳騎士」


 レオニアが即座に反応する。


「供給を断った連中だ」


「ええ」


 マリナが頷く。


「流れを作った者。ここを“枯らした”原因」


「ならば、そこを叩く」


 レオニアの目が鋭くなる。


 戦場の顔だ。


「今度は、戦う」


「戦うだけでは足りない」


 エルディアが制する。


「同時に流れを奪う。供給を断ち、内部を崩す」


「構造で潰す」


 エルガードが短くまとめる。


 それが、この三人と一人の結論だった。


 小さな成功。


 だが、それは“始まり”に過ぎない。


 風が吹く。


 今度の風は、ほんのわずかに湿っている。


 完全な救済ではない。


 だが、確実に前へ進んでいる。


 エルガードは、もう一度だけ布の列を見た。


 そして視線を戻す。


 後ろは見ない。


 だが、忘れない。


 その上で、前に進む。


 それが――選んだ責任だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ