9:初めて選ぶ(誰を優先するか)――切り捨て発生
水は流れ、列は保たれている。
それでも、医療所の中では、時間が止まらない。
布で仕切られた簡易の空間に、十数人の患者が横たわっていた。呼吸の浅い者、熱にうなされる者、意識が途切れかけている者。誰もが“限界に近い”という一点で共通している。
だが――全員を救うことはできない。
それが、今の前提だった。
中央に立つエルガード・カウフマンは、静かに目を閉じる。
頭の中で、条件が並ぶ。
残り時間。魔力の出力。回復効率。身体の損耗度。水分量。脈拍。――すべてが、数字のように整理されていく。
そして。
“順番”が浮かぶ。
それは、冷酷なほど明確だった。
「……三人」
彼は目を開ける。
「この中で、確実に回復まで持っていけるのは三人」
沈黙。
その言葉の意味は、誰もが理解している。
残りは――
救えない。
「対象を指定しろ」
即座に声が返る。
エルディア・ヴァレンティナ。侯爵家令嬢、軍参謀、情報統制担当。彼女はすでに記録を手にしていた。患者ごとの状態、回復可能性、必要魔力量。
「優先順位は組めている」
彼女の声に、迷いはない。
「だが、最終判断はお前だ」
視線が交わる。
逃げ場はない。
エルガードは、ゆっくりと息を吐く。
これが――初めての“選択”だ。
遅れてではない。
流されてでもない。
自分の意思で、誰を救い、誰を切り捨てるかを決める。
その重さが、胸にのしかかる。
だが。
止まらない。
止まれば、全員が死ぬ。
「……この三人だ」
彼は、指を差した。
一人は青年。体力がまだ残っている。回復すれば労働力になる。
一人は女性。脱水が主で、内臓へのダメージが軽い。
一人は少年。衰弱はしているが、回復の伸びが見込める。
合理的な選択。
だが――
「……それでいいのか」
低く、重い声。
振り向くと、深紅のマントが揺れていた。
レオニア・アルディウス。公爵令嬢、若き前線指揮官、魔剣適合者。
彼女の視線は、エルガードの指先ではなく――外れた者たちに向けられていた。
特に、一人の少女に。
細い腕。浅い呼吸。ほとんど動かないまぶた。
「その子は外すのか」
静かな問い。
だが、その奥には、強い圧がある。
エルガードは答えない。
すでに、答えは出している。
「回復確率が低い」
代わりに、エルディアが言う。
「投入コストに対して、回収できる可能性が低い」
「……人を、資源として扱うのか」
レオニアの声がわずかに揺れる。
「ここではそうだ」
エルディアは一歩も引かない。
「戦場と同じ。限られた資源で、最大の成果を出す」
「違う」
レオニアは首を振る。
「ここは戦場ではない」
「なら、何だ」
短い問い。
「飢えと病で人が死ぬ場所だ。――戦場と何が違う」
沈黙。
レオニアは言葉を失う。
理屈では、勝てない。
だが、それでも。
「……守るのが義務だ」
彼女は言う。
「目の前の命を、見捨てることはできない」
「見捨てているのは、すでに決まっている」
エルディアが淡々と返す。
「選んだ時点で、他は切り捨てている」
その言葉が、空気を切り裂く。
エルガードの胸に、重く落ちる。
だが――
彼は、目を逸らさない。
「……選ぶ」
低く、しかしはっきりと。
「この三人を優先する」
決断。
明確な、意志。
「……そうか」
レオニアは、わずかに目を閉じる。
一瞬だけ。
そして開く。
その目に、怒りはない。
あるのは、理解と――受容。
「ならば、その責任は背負え」
短い言葉。
「背負う」
エルガードは答える。
逃げない。
選んだのは、自分だ。
その結果も、すべて引き受ける。
その時、柔らかな声が差し込む。
「いいですね」
マリナ・ルクレツィアが、静かに笑う。
「ようやく“選べるようになった”」
彼女はゆっくりと歩み寄り、外された少女を一瞥する。
「そして、“切り捨てられるようになった”」
その言葉に、わずかな棘がある。
だが、それは事実だ。
エルガードは、少女を見た。
ほんの一瞬だけ。
そして視線を戻す。
手を伸ばす先は、選んだ三人。
光が灯る。
回復が始まる。
魔力が流れ、身体が反応する。
確実に、命が戻っていく。
その一方で。
少女の呼吸が、ゆっくりと弱くなっていく。
誰も手を伸ばさない。
誰も、止めない。
それが――選択の結果だった。
やがて。
小さな音がした。
息が、止まる音。
静寂。
エルガードの手は、止まらない。
光は、消えない。
選んだ命を、確実に繋ぐ。
それが、今の彼にできること。
それが、選んだ責任。
レオニアは、その光景を見ていた。
魔剣に手をかけることもなく、ただ立っている。
そして、静かに言った。
「……それが、お前の答えか」
「……ああ」
「ならば、覚えておけ」
彼女の声は、低く、強い。
「その選択で救われた命と、失われた命。――両方を忘れるな」
「忘れない」
即答だった。
それは誓いではない。
事実の確認だ。
マリナが、くすりと笑う。
「いいですね」
彼女は言う。
「ようやく“物語が動き出した”」
風が吹く。
医療所の布が揺れる。
外では、列が進む。
生きる者と、死ぬ者。
その境界は、今この瞬間に決められた。
エルガードは、光を維持しながら思う。
これは、始まりだ。
選び続けるしかない。
それが――この世界で生きるということだからだ。




