52:エルガード葛藤
夜は深い。だが、この国に「静かな夜」はもう存在しない。動いている区域と止まりかけている区域、救われる者と落ちていく者が同時に存在し、どちらの音も消えないからだ。エルガード・カウフマンは城壁の上に立ち、その全てを見ていた。彼の視界には、灯りが密集する場所と、闇に沈む場所がはっきりと分かれて映っている。違いは単純だ。流通が生きているか、死んでいるか。それだけで、人は生きも死にもする。単純で、残酷で、逃げ場がない。
「……簡単すぎるだろ」誰に向けるでもなく呟く。魔力を巡らせる。無意識に、体内の流れを整えていた。魔力操作、魔力循環、魔力吸収。その全てが噛み合い、彼の中で魔力は尽きることなく回り続ける。実質的な無限。力だけなら、この国のどこにでも届く。火で焼き、水で流し、風で押し、土で塞ぎ、光で癒やし、闇で飲み込む。できないことは、ほとんどない。だが??。
「……全部は救えない」分かっている。何度も確認した。数字で、報告で、現場の声で。だが、分かっていることと、納得することは別だ。視線を落とす。城壁の下、食料配給所に並ぶ列が見える。今日、そこに並べた者は助かる。並べなかった者は、落ちる。選別は既に始まっている。自分が命じたからだ。
足音が近づく。レオニア・アルディウスだった。若き前線指揮官は、戦場では迷わない。だが今は違う。「こんなところにいたか」「寝られる顔してるか?」エルガードは振り返らない。「……してないな」レオニアは隣に立つ。「顔に出てる」「だろうな」短い会話。だが十分だ。
「選んだんだろ」レオニアが言う。「ああ」「じゃあ、やれ」「分かってる」だが声は重い。レオニアは横目で見る。「分かってる顔じゃない」「……分かってるから、だろ」エルガードは吐き捨てる。「分かってるから、気持ち悪いんだ」沈黙が落ちる。
「全部救えないのは分かる」「ああ」「でもな」レオニアは少しだけ声を落とす。「選んだ瞬間から、お前は“切った側”だ」「分かってる」エルガードは即答する。「分かってるけど、慣れたくない」その一言は、本音だった。レオニアは少しだけ目を細める。「慣れたら終わりか」「終わりだな」エルガードは迷わず答える。「人じゃなくなる」
別の足音。規則的で、無駄がない。エルディア・ヴァレンティナだった。侯爵家令嬢にして軍参謀、その目は常に全体を見ている。「ここにいたか」二人の横に立つ。「報告は見た」「どうだ」レオニアが問う。「想定内だ」エルディアは即答する。「落ちる数も、助かる数も、ほぼ誤差の範囲内」「誤差、ね」レオニアが苦笑する。「人の命を誤差で片付けるか」「現場ではそうだろう」エルディアは一歩も引かない。「違うか?」レオニアは黙る。否定できない。
エルディアはエルガードを見る。「迷っているな」「ああ」「いい傾向だ」あっさりと言う。「は?」レオニアが眉をひそめる。「迷わない奴は危険だ」エルディアは続ける。「だが、迷い続けるだけの奴は役に立たない」視線が鋭くなる。「だから、決めろ」「……決めてる」エルガードは低く言う。「なら、実行しろ」一言で切る。
その時、柔らかな声が割り込んだ。「重い空気ですね」マリナ・ルクレツィアだった。商業国家の大商会と繋がる女。笑っているが、目は笑っていない。「報告です」手に持った書類を差し出す。「市場は動いています。こちらの操作は成功。ただし、裏で結託している商会が二つ。供給を絞り、暴騰を狙っています」「予想通りだ」エルディアが受け取る。「潰すか?」レオニアが問う。「いいえ」マリナが首を振る。「利用します」
エルガードが視線を向ける。「どうやって」「彼らに一部の流通を握らせる」マリナは淡々と説明する。「その上で、別ルートをこちらで確保する。依存させ、最後に切る」「……えげつないな」レオニアが呟く。「効率的です」マリナは微笑む。「利益になります」エルガードは目を細める。「人が落ちる」「ええ」マリナは否定しない。「ですが、全体は持つ」
エルガードは黙る。頭の中で、地図と数字が組み上がる。どこを繋ぎ、どこを切るか。魔法で補える部分と、補えない部分。水で運び、風で押し、土で道を作る。だが、それでも足りない。人手と時間が足りない。だから??選ぶしかない。
「……ここを切る」エルガードは低く言う。三人の視線が集まる。「その代わり、ここを繋ぐ。供給は落ちるが、全体は維持できる」エルディアが頷く。「妥当だ」マリナが目を細める。「損失は最小化されます」レオニアは歯を食いしばる。「そこは……人が多い」「分かってる」エルガードは答える。「だから先に動かす。避難を優先する。時間を稼ぐ」レオニアは黙る。否定できない。
「それでいいのか」レオニアの問いが落ちる。昨日と同じ問い。だが、今は違う。エルガードは目を閉じる。浮かぶのは、顔だ。名前も知らない人間たちの顔。救われる顔と、落ちる顔。どちらも同じ重さで浮かぶ。「……分からない」正直に言う。「でも」目を開く。「やる」言葉は短い。だが、揺れはない。
エルディアが静かに言う。「それでいい」「よくはないだろ」レオニアが吐き捨てる。「よくはない」エルディアはあっさり認める。「だが、必要だ」その言葉が重く落ちる。マリナが微笑む。「利益になりますしね」レオニアが睨む。「お前はそればっかりだな」「軸がぶれないだけです」マリナは肩をすくめる。
エルガードは空を見上げる。夜は明け始めている。薄い光が、街の輪郭を浮かび上がらせる。動く場所と、止まる場所。その差は、もう隠せない。「……これが俺の選択か」誰にともなく呟く。「違う」エルディアが言う。「これが、お前の役割だ」レオニアが続ける。「そして責任だ」マリナが笑う。「そして利益です」
三つの言葉が重なる。役割、責任、利益。どれも正しい。どれも欠ければ、国は回らない。だが、そのどれにも「救い」はない。エルガードは拳を握る。魔力が巡る。無限に近い力が、体の中で唸る。だが、その力で救えるのは、一部だけだ。「……気持ち悪いな」本音が漏れる。「正常だ」エルディアが即答する。「その感覚を捨てるな」レオニアが言う。「捨てたら終わりだ」マリナは微笑む。「でも、止まらないでくださいね」
エルガードは頷く。「止まらない」それだけは決めている。迷っても、止まらない。問い続けても、手は動かす。「それでいいのか」自分に問い続けながら、それでも選び続ける。「……やる」小さく言う。その声は、誰にも聞かせるためのものではない。だが、三人には届いていた。
夜が明ける。新しい一日が始まる。救われる者と、落ちる者。その線を引くのは、エルガードだ。彼は歩き出す。迷いを抱えたまま。だが、止まらないまま。その背中を、三つの視線が見送る。秩序と、人間性と、利益。その全てを背負って、彼は進む。答えは出ない。だが、選択は続く。それが、この国の現実だった。




