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第十二話

 村には、まともな内科医はいない。城には主治医がいたが、父が亡くなったのと同じ時期に老衰で亡くなっている。


 以後、風邪や咳というものは民間療法に頼っている。しかし、セシルの兄は大学で正式に医学を学んでおり、薬の処方も出来る。


「お兄様、この子を診てあげて」


 兄は力なく首を振った。


「しかし、僕は医師ではない」


 解剖が怖くて医学部を中退した兄は自分のことを恥じていた。


「解剖が必須科目なのに僕は嘔吐してしまった。そこから、もう医師になる事は諦めてしまったのだ。それでも、授業には参加したんだよ」


「そうよ。お兄様は医師と同じ知識があるわ」


 外科は無理でも内科の診断だけなら、兄も本物の医師よりも詳しいぐらいだ。


 困っている人を助けたいという気持ちから、王都にいる間、施薬院(薬品を処方する慈善事業の施設)でボランティアとして無給で貧民に尽くしてきたのである。


 兄のような人を『やぶ医者』と呼ぶ者もいれば、『経験医』と呼ぶ者もいる。


 この世界では免許のある医師に診てもらえるのは金持ちだけ。医師免許がなくても、兄のように医学を学んだ人が貧民を診ること自体、とても珍しいものである。


 ハリーはこれまで妹にも言えなかったトラウマを吐き出していく。


「貴族だという事は伏せて尽くしてきた。患者達から先生と呼ばれていっぱしの医師になったつもりでいた。しかし、突然、パンデミックが起きたのだよ」


 原因不明の病気で嘔吐や下痢や高熱にうなされる患者が次々とやってきた。


 その人達に瀉血をしたり、嘔吐剤やら痛みを和らげるアヘンチンキやら処するが、それでも、次々と人が死んでいく。あの時、一つの区全体が病んでいた。


 騒動の後から分かった事だが、それは伝染病ではなくて、小麦に粗悪なゴミやカビが混じっていた事から起きた病気だったのだ。


 最も患者が多く発生していた時期に、ある一人の妊婦が死んだ。すると、誰かが妄言を吐いた。


『この男は大学病院に遺体を供給している。オレ達を救う気などない。そもそも、こいつは無免許の医師だ』


 それを聞いた妊婦の夫は我を忘れて怒りに駆られて兄を窓から放り出した。


「あの時の男の濁った眼が忘れられない。地面に叩き落とされたて呻く僕を見下ろし、あの男は無力な僕を罵った」


 そいつは兄を殺して自分も死のうとしていた。しかし、幸い、通りにいた人が兄を守ってくれたので殺されずに済んだという。


 そのことをセシルに打ち明けた兄は目を真っ赤にしている。


「どんなに、わたしが誠意を持って頑張っても相手は分かってくれないのだよ。やるだけ無駄なのだ」


「そんなことない。お兄様が王都にいた頃、色々と薬草を送ってくれたから村人は助かったのよ。シャルロットも、お兄様の喘息の薬で楽になったのよ。ねぇ、そうでしょう?」


 セシルがそう言うと、シャルロットはたおやかな顔で頷いた。


「そうですわ。私の妹もハリー様の薬のおかげで発作を起こしておりません」


 シャルロットの声には熱がこもっていた。


「文句を言う人の裏には、あなたに感謝している人が山ほどいますわ。ここの村人達はハリー様のことを心から尊敬しています。あなたは、村の畑で毒蛇に噛まれて行き倒れになってといる旅人のことも見捨てずに屋敷で看病していましたわ」


 そう、あれは、三年前のこと。


 たまたま、兄が王都から戻っており、村に滞在していたのである。


 旅人を噛んだのは村によくいる蛇である。傷口から毒を吸い出す特別な器具を兄は持っていた。毒によって血管が収縮するのを防ぐ薬を処方してやった。


 あの時の兄の沈着冷静な態度をセシルも鮮明に覚えている。


「あの時に救った旅人から、ハリー様に対する感謝の手紙が届いているじゃありませんか」


 その旅人は貧しい絵描きだった。


 今では、その旅人は王族の肖像画を描くほどに出世している。


「ハリー様によって一人の命と偉大なる芸術が守られたのですよ。あなたはとても素晴らしいわ」


 人たらしのシャルロットは兄の手を握っている。


「アルビオンの王都の街の一角で起こった腹痛騒動のことにしても、他の医師も分からなかったそうですね。医師は神様ではないのです。時には無力な事もあります。だけど、人々が苦しんでいる時、どれだけ寄り添ったか。それが大切なのだと思います。あなたは、いつも弱い人の味方をしています。そんな人は滅多にいない。とても素晴らしいと思いますわ」


 すると、兄は治療する気持ちを取り戻し始めたのである。


 確かに医師免許は持っていない。外科的な処置も出来ない。


 しかし、栄養失調による高熱などに対処する術は分かっている。


 シャルロットは、ほとんど寝ずに少女の看病をしていた。


 セシルは、そんなシャルロットが悪い人間のようには見えないのだ。


 食品加工の工房で仕事を終えて帰ってくると、少女は、おずおずとした様子でセシルに挨拶に来た。


「あら、治ったのね」


 ボロボロの衣服は捨て去り、シャルロットが用意した可愛らしい服に着替えている。骸骨のように痩せこけているけれど、声はしっかりしていた。


「セシルお嬢様、助けてくれて、ありがとうございます」


「あなた、名前は?」


「セーラと言います。歳は十二歳です」


 右腕には例の焼き印が刻まれていた。


 セーラは孤児だ。雇い主の女将に虐められてろくな物も食べさせてもらえなくてやつれていた。川の水を汲もうとして途中で倒れてしまい、川辺でシャルロットに救われたのだ。

 

 セーラは真剣な目をしている。


「この三日間、ここに置いていただいて本当に感謝しています。元気になったので、どうか働かせてください。洗濯でも掃除でも何でもします」


 働いてお礼をすると言い張るのだが、もう動いて大丈夫なのだろうかと思っていると兄は頷いた。


「そうだね。重労働でないなら働いてもいいと思うよ」


 という訳なので、セシルはセーラにお願いする。


「あのね、畑の雑草を引いてくれない? 屋敷の裏手にある畑よ」


「はい。かしこまりました」


 粗末な木靴を履いているセーラは、いそいそと畑に向かっている。


(いい子なんだよなぁ)


 しかし、気になることがあった。


 セーラの背中には、ベルトか鞭のようなもので叩かれた傷跡が残っていたのである。


 雇い主にぶたれたのだろうか。


 シャルロットは改めてこう言った。


「勝手に連れてきてすみません。ですが、リユンに残していたら死んでしまうと思ったのです。雇い主がこの子の医者代を払う訳がありませんから」


「だけど、キャッサバを家族に送るだけでも罪になるのに、この子をあの国から運んでくるなんて、あなた、怖くないの? 警備隊に見つかったら、その場で射殺されるのよ」


「ですが、お嬢様もクロードを連れてきたではありませんか」


「まぁね、あの時は、クロードが連れていけって、しつこく脅迫してきたからね」


「お嬢様は優しいのですわ」


「それを言うなら、あなたもそうでしょう?」


「いいえ。私は、セーラと自分の妹が重なって見えたから連れてきたのです。あの国で異端者として生きる苦労は計り知れません」


「……」


 シャルロットの声は暗く沈んでいる。セシルも、あの街でチラリと市民の暮らしを見ただけなのだが、みんな、互いに監視しているような空気があった。


 さぞかし、息苦しかったに違いない。


 セーラの華奢な身体を見つめながらシャルロットが言った。


「セーラは元々は田舎にいたようです。だから、年齢のわりに背が小さいのです。田舎の子達は、いつも飢えています」


 二年前、ライ麦にカビが生えてしまい、実った穂を腐らせるという病気が局地的に発生した。


 セーラの村の人達は飢饉に遭い、ほとんどの人が死に、孤児となったセーラは浮浪者として村を彷徨い歩いた。草など、食べられそうなものは何でも食べた。


 たまたま、村長の畑にはジャガイモが飢えられていたので掘り起こして生のまま齧っているところを、街から飢饉の様子を見に来た憲兵に見られてしまい、異端者として摘発されてしまったという。


 豚の餌という建前で村長が植えていたものだったが、実は、村人達は前々からジャガイモを口にしていたのだ。


「異端のものを口にした村人への祟りだと、司教や司祭は信徒に言ったそうなんです。そうやって恐怖心を煽り、お布施を要求する。それが、いつものやり口なんです」


 そんな事を言えるのは、ここがアルビオンだからだ。


 シャルロットは、ここではセシル達と同じように、聖書には書かれていない異端の食べ物を美味しく食べている。


「お嬢様、セーラのことなのですが、どうなさいますか?」


 村で育てますかというニュアンスで聞いているようである。


「そうね。今、一人暮らしをしているスーザンというおばあさんがいるでしょう。あの人が、住み込みのメイドを欲しがっているから、セーラを紹介しようと思うの」


 スーザンは元気だった頃、子爵家の家政婦をしていた人である。


 年金生活だが、スーザンの親がちょっとした遺産を残してくれたので、他の年寄りよりは少し余裕がある。ただし、足が不自由になったので家事をこなすメイドが欲しいと言っていた。


「それはいいですわ。セーラも喜びますわ」


 という事で、セーラは小間使いとして第二の人生を歩むことになった。

 

 セーラを救った事で兄は自信を回復しようとしていた。しばらく読んでいなかった医学書を読むようになっている。


 ちなみに、屋敷にある書籍は使用人なら誰でも自由に読める。


 小鳥がチチチッと鳴く。穏やかな午後。


 シャルロットが本棚を見上げて手を伸ばしているところに、フッと兄が入ってきた。


「どの本を読むの? 僕がとってあげる」


「ありがとうございます」


 本を受け取ったシャルロットの指先と兄の指先が少し触れた瞬間、シャルロットの瞳が切なく揺れた。シャルロットの内側が熱を帯び始めた。その熱に引き込まれるように兄もシャルロットの鼻先に顔を寄せている。


「ハリー様が救った小鳥のことを覚えていますか?」


「ああ、覚えているよ」


「あの鳥はパートナーを見つけて森に素を作り、雛を育て上げました。あなたがいたから、新たな命が誕生したのです」


「君は小鳥を見分けられるのかい?」


「ええ、あの小鳥は名を呼べば肩に乗りますもの。あなたへの恩を、あの小鳥は一生、忘れないと思いますわ。あなたは、あの小鳥に人生を与えたのです」


 シャルロットの瞳は潤んでいる。ハリーは吸い込まれたかのように眼を瞠っている。


 まるで磁石のように互いを求めあい、そのまま静かに唇を重ねている。熱い息吹が溢れていたのだ。


 そのまま、二人はソファに雪崩れ込む。


 こうして、本当の愛というものを知った兄とシャルロットの不倫関係が始まった。


 その翌週。


 兄の妻のジェーンが、たくさんの土産を携えて長い旅から戻ってきたのだが、シャルロットと兄が微笑む様子を窓から見下ろすと唇を噛んだ。


(あの女狐……)


 シャルロットは夫の内なる変化を感じ取っていたのだ。


     ☆


 妻の勘というものは男が思う以上に鋭い。


 ジェーンは苛立ちを募らせた。


(おかしいわ。あの人、以前と別人のようだわ)


 誰にも言っていないが、兄と妻のジェーンの夜の営みは一度もない。鬱病のせいだから仕方ないと医師からも言われてきたけれど、今の夫は恋する男の輝きを放っている。 


(澄ました顔をしているけれど、この女が夫を誘惑したのね。そうよ。間違いないわ)


 自分の夫がいる書斎にシャルロットが入ったきり、なかなか出で来ないものだから、ジェーンのヒステリーは加速していく。


 我慢できなくなってジェーンが書斎に踏み込むと、シャルロットが口述筆記をしていたのだ。


「ジェーン、どうしたんだい?」


「な、なんでもありませんわ」


 浮気を疑っているとは言えない。妻としての意地がある。


「用がないなら、出て行ってくれるかい? 君の為に本を執筆しているのだよ」


 その時、シャルロットは何の感情もないような表情で机に向かっていたのである。


 ジェーンは、その後も、嫉妬に悩まされた。そして、耐えられなくなったジェーンはセシルに訴えた。


「シャルロットという女、解雇してちょうだい。秘書なら、あたしがいい娘を雇ってあげるわ」


「何を言うんですか。なぜ、シャルロットを解雇するのですか?」


 シャルロットほど頭の切れる女性はそういない。


「あたしは子爵夫人なのよ。家の差配は、妻であるあたしの仕事でしょう? どうして、妹のあなたが仕切るのよ」


「……」


 セシルは少し間を置いてから鋭く言い切った。


「シャルロットは、あたしが雇ったんです。お給料を払っているのはあたしです。ですから、解雇いたしません」


「あなた、生意気よ」


「あなたこそ非常識ですよ。いつも、試作品のお菓子を勝手に食べていますよね。衛生管理上、問題があるので、勝手に入るのはやめて下さい。そんなんだから太るんですよ。あたしの仕事の邪魔しないで欲しいわ」


「な、なんですって」


 太っているとストレートに言われたジェーンは、その夜、夫にすがった。


「セシルが、あたしを侮辱したわ。太ってるって言うのよ。太ってないわよね?」


「そうだね。ふくよかなのは間違いないね。君の祖母は痛風で困っておいでだ。君も節制した方が良いね」


 そんな事を言われたジェーンはカッとなる。


「あなた達、ほんと失礼ね」


 旅から戻ったばかりだというのに、ジェーンは実家に帰ると言い出した。 


(何よ。みんな、あたしを馬鹿にして。絶対に許さないわ)


 荷物をまとめていても夫は止めようともしない。子爵夫人になれば人生はもっと華やぐかと思っていたけれど、それは大きな間違いだと気付いた。


(田舎で暮らすのはまっぴらよ。ああ、イライラする)


 それだけなら良かったのだが、王都に戻ったジェーンは憂さ晴らしに買い物や賭け事に手を出すようになるのだ。


 ある時、友人に誘われて怪しげなサロンへと出向いた。そこで、こんなことを聞いた。


『わたしどもに紹介料を渡してくれるのなら、ガーフィールド公爵家の宴にお連れすることも出来ますよ』


 王の妾のモス夫人が、ガーフィールド公爵の屋敷で賭博にのめり込んでいるというが、本当だった。そこにモス夫人がいた。


 毎夜、ここに来れば、社交界の華やかな人達と顔見知りになれる。自分も社交界の一員として王宮に招かれるかもしれない。そんな一縷の望みに賭けて遊び続けていくうちに負けが込み、多額の借金を抱えてしまうのだ。


 ジェーンに対して賭けのガーフィールド公爵が言った。


「私の息子とセシルと婚姻の仲立ちをしてくれるのなら、借金はなかった事にしてもいいのだよ。実は、前々から、うちの息子がセシル嬢と結婚したいと言っていたのだよ」


 ジェーンは思った。


(これは好機よ)


 何かとでしゃばる小娘がいなくなればいい。あの娘を追い出せたら清々する。


 しかも、セシルがガーフィールド公爵の息子と結婚すれば、自分は公爵家と姻戚関係になり、社交界でも有利になる。


 希望の虹がかかったような気がした。


 公爵と親戚になれば、王妃様にも会えるかもしれない。


(そうよ。やっと、わたしも運が回ってきたんだわ)


 あの子がいなくなれば、工房の利益も自分のものにできる。


 色々と利点に気付いたジェーンは丸い頬を緩めて喜んでいた。前のめりになりながら承諾していく。


「かしこまりましたわ。義妹とあなたの御子息の縁組を成功させてみせますわ」



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