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当初の不安が全て取り去られたというわけではないが、突然始まった新たな生活は以外にも楽しげだった。アネッサは相変わらず自由奔放で勝手に揃えたお菓子器材で色々とお菓子を作ったり、店の手伝いや家事もしてくれる。毅自身は何か変わったかと言えば、買い物の際付いてくるアネッサについて知り合いの主婦達に質問攻めされたりすること以外は特に大きく変わることは無かった。
そして、毅以上に変わったのは祖父であった。毎日が本当に楽しそうに過ごしているように見える。ご飯粒を飛ばしたり、たまに死ぬほど元気になったりする所は変わらない。友人の家に将棋やオセロをやりに行くのも変わらない。しかし、どこか楽しげなのだ。悪い事ではない、ただ少し怖くもある。蝋燭の火の例えに習うような、なんだかそういう不安だ。そして、そういう不安とは時にその不安通りに動いてしまうものなのかもしれない。
「アネッサ!二階の窓開けてくれー!」
「はいはーい」
店の戸を開けながら、毅は奥にいるアネッサに頼んだ。そう、変わる事がない事を不自然と言うなればそうだ。あのアネッサの魔法は今も確かにあって、たまにそれに頼むことはあるがそれだけだ。突飛な事も、事件も起こらない。
「・・・・・・、あれ」
毅は戸が上手く開けられない事に気付いた。このところの湿気や熱気で建てつけが悪くなったのだろうか、手のひらで叩くも木枠とガラスが喧しく鳴るばかりで上手くいかない。毅は二階の窓を開けるアネッサに叫んだ。
「アネッサー!ちょっと来てくれー!」
「なんでしょう?」
ポンと直ぐ隣りに姿を現すアネッサ。こういうことにも慣れた。心の準備は必要だが、アネッサの行動パターンを探ればなんとなく読めるようになった。早速毅はアネッサに頼む。
「これ、なんかしまり悪いんだけど。なんとかできなかな?」
待ってましたと言わんばかりに、アネッサは手を合わせて腕を歓喜に準備運動し始めた。腕を動かすたびに腕ができたての飴のように伸びていく。
「ふっふっふ、このアネッサにできない事などございませんよ」
「わかったから、そのぐにゃぐにゃになった腕戻してくれ」
冷やかに毅はつっこんだ。大袈裟な煙を出しながら、腕は元に戻った。
「やれやれ、初めましては赤子のように可愛かったのに、今となっては思春期の男子みたいですね」
「思春期の男子だ!いいから、建てつけ!」
「はいはい、では、・・・・・・家、家」
アネッサは学者の様なべろんべろんの黒い服と角帽子を被って、顎に生やした白髭を撫でながら分厚い紙の束を捲っていった。
「家を建てる。家の外観。違う、・・・・・・あった!家の建てつけを直す」
「対価は?」
「ズバリ、シフォンケーキを一つ!」
麗人の姿に戻ったアネッサは、目をぎらぎらさせつつ人差し指を立てて毅に詰め寄った。思わず顔が引きつる。
「わ、わかったよ」
「わーい」
子供のように喜びを露にするアネッサ。
「わーい、わーい、わーい、わーい」
そして万歳をして喜ぶアネッサは分裂していった。アネッサの身体から子供のアネッサが次々と出てきて一緒に歓喜している。何人いるのか数えにくくなってきたところでやっと毅は突っ込んだ。
「やかましい!」
「楽しみです。シフォンケーキ」
ポンと子供が消えると、アネッサは嬉しさの表情を浮かべた。毅は息を延ばして尋ねる。
「好きだねお前。シフォンケーキぐらい自分で作れるんじゃねーの?」
「私が作ったのとはちょっと違うんですよ。毅が作ったシフォンケーキの方が私好みなのです」
「そーですか。・・・・・・じゃあそれは後払いってことでおやつに作ってやるよ」
「わかりました。では、取りあえず直してしまいましょう」
「おう、頼む」
するとアネッサは作業着姿に安全第一のヘルメットを被り、手に四角を作って店、というか家の外観をその枠に収めた。
「そーですねー、お客さんこれ随分古いよー、ガッタガタだよー?」
「まぁ、たぶん父さんが産まれた時からあるからな」
「測量班!傾斜は!?」
「右、ちょっとです」
いつの間にいたのだろうか、横でパソコンをでたらめに叩くアネッサと同じ顔の白衣が言った。しかも全くもって参考にならない。
「そうか!じゃあこんなもんかな?」
アネッサがパチンと指を鳴らすと、家がガタンと揺れた。毅は店の戸を滑らしてみる。
「・・・・・・。うん、いいかも」
「おっけい!任務完了!」
二度クラップしてみせると、白衣は地面に空いた穴にパソコンごと落ちていった。毅は無事開けられた戸と軒下の風鈴越しに空を見上げながら、今日の天気の良さを身に感じると店内に入っていった。
「今日も晴れるらしいから、善治さんとこからワゴン借りてセール出すんだ。さっきじーちゃんが頼みに行ったんだけど、帰りが遅いってことはまた油売ってんだろーな。アネッサ手伝ってくれよ」
蓄音器をかけ、また陽気なラグタイムをかけた後。箒を持って店内を掃除しながら毅は言った。手をはたいてしばらく家を眺めていたアネッサは、毅に一つ提案をしてみた。
「店の外観も変える事できますよ?その方がお客さんもくんじゃないですか?」
そんなことをいうアネッサに、毅はどこか割り切った表情をアネッサに向けた後、また掃除を続けた。
「いいんだよ、ここは。なかにある蓄音器と同じさ、時間が経過するにつれ人のように意思を持ったり、感情を出したりする。様な気がする。アネッサも言ってたじゃないか、歴史のあるものは価値のあるものだって」
「そう、ですね。確かに言いました」
「それに俺の一存じゃどーにもできないよ。じーちゃんもたぶん今のままでいいって言うと思うけどさ」
「・・・・・・わかりました。ここはこれでいい。そう言う事ですね」
「そう言う事」
二人はそれから祖父が帰るまで部屋の掃除をした。一回のリビング、和室の居間。二階の毅の部屋と物置になってる部屋。アネッサは終始エプロンに頭と口元に三角巾を結び付けて掃除をした。
階段や短い廊下は手狭であるが、それがいい。毅はこの家が気に入っていた。いつだったか、同じクラスの奴の家に上がったことがある。洋式の建物に洋式の内装。玄関にはよくわからない絵が額縁に飾ってあって陶器の花瓶に花が生けてあった。これを見た時、毅は寒気がした。木の感覚、空気、天井に吊るされた照明。別世界だった。本当に同じ人が住んでいるのかと疑った。
そこには毅が感じてきた素材が何一つとしてなかった。
「なんか、落ち着きますね。この家」
「え、・・・・・・」
居間の畳を箒で掃きながらのアネッサの言葉に、毅は思わず声が詰まってしまった。部屋を覗くと、アネッサは外の物干し竿をぼーっと見つめていた。
「どうしました?」
「いや、お前がそんなこと言うなんて、・・・・・・」
「私にも人としての感覚は持ち合わせているのですよ?」
こちらを向き、不貞腐れながらアネッサは言った。別に機械人間や、それに類する者として見ていたわけではなかったが、アネッサの“人間らしい言葉”に驚いたのは事実だ。そういえば、アネッサは普段仮面が張りついたような顔をしているくせに、たまにとても人間染みた表情をする事がある。見る度に心臓が跳ねるのだが、その理由はわからなかった。
毅は尋ねてみた。
「なぁ、改めてこういう事を聞いていいのかわかんないんだけど、いい?」
アネッサはいつもの表情で応えた。
「はい、どうぞ」
「アネッサって何者なの?」
と、聞いてはいけない気がする。毅の脳は何かをとらえてそう訴えた。毅の視線はアネッサの瞳を通り過ぎて外の物干し竿に刺さっている。外では蝉が発声練習を始め、今にも騒ぎそうだ。風の涼やかさといったら、丁度今のアネッサのようにしんとしていて、毅の顔に当たってやや湿気を含んだひんやりとした感触を残していった。
固唾を呑んだ。
「じ、じーちゃん。遅くね?」
額に感じるのは冷や汗だろうか、振り絞った二の句の不自然さに自身が戸惑っているのがわかる。
「そーですね。まだ涼しい時間ですけど、そのうち一気に暑くなりますし。今の内に連絡とってみてはどうでしょう?」
なんとか、アネッサは普通に返してくれた。妙な間があったことにもつっこみはない。毅は安堵のごまかしに戯けて答えた。
「そーだな!よし、携帯だ!」
心の中で精一杯の反省をしながら、毅は二階の自室にある携帯で祖父に連絡を試みた。何者かを聞いて自分はどうするつもりだったのだろう。どうせ、きっと理解なんてできないくせに、・・・・・・。
数コール後、珍しく電話は直ぐにつながったが、次に聞こえた声は祖父ではなかった。
「毅くんか!?大変だ!翠さんが、・・・・・・!!」
電話越しの声の切羽の詰まりように、毅は刹那、放心した。祖父の翠舟郎の名を翠さんと呼ぶのは友人の善治さんだけだとわかると、毅は大砲でも打ちだしたかのように色んなものにぶつかりながら階段を駆けおり、踏み外した勢いで土下座し、頭を畳に押しつけながらアネッサに嘆願した。
「頼む!お前の欲しいものならなんでもやる!だから俺を直ぐにじーちゃんのところへ飛ばしてくれ!頼むっ!!」




