第4話 紙職人と、ふわふわ卵のあんかけ丼
ヨラの両手は、朝からずっと水の中にあった。
大きな水槽には、煮て柔らかくした草の繊維が浮いている。ヨラは木の枠を水へ沈め、白い繊維をできるだけ均等にすくった。枠を傾けると水が網目から落ち、薄い層だけが残る。
それを布へ移し、次の一枚をすく。
朝から何十回も繰り返した仕事だった。
紙職人の作業場は、リンドの町を流れる小川のそばにある。きれいな水を多く使うためだ。水車の回る音と、木の杖で繊維をたたく音が、一日中途切れない。
春になったとはいえ、川の水はまだ冷たかった。
ヨラが枠を作業台へ置くと、指がまっすぐのままなかなか曲がらなかった。
「親方。昼の鐘、とっくに鳴りましたよ」
乾燥棚から、見習いの青年が顔を出した。
「聞こえてたよ」
「では、なぜ食べに行かないんです」
「あと一枚で、十枚そろうからだ」
「その台詞、さっきも聞きました」
ヨラは水槽を見た。
まだ水面には、一枚分どころか、三枚は作れそうな繊維が残っていた。
「紙は十枚ずつ数えると、区切りがいいんだよ」
「では、十二枚目で止めてください」
見習いは、乾いた手拭いをヨラへ投げた。
ヨラは受け取ろうとして、両手が思うように開かないことに気づいた。手拭いは胸に当たり、そのまま床へ落ちた。
「見ての通り、手がまだ仕事をしたがっている」
「休みたがっているように見えます」
まったく、口の減らない見習いだった。
ヨラは手拭いを拾い、指の間まで念入りに水気を取った。指先はふやけ、細かいしわだらけになっている。
いつもなら、焼きパンを買って工房へ戻る。けれど、今日の指で硬いパンを割れば、紙をすくより時間がかかりそうだった。
ヨラは上着を羽織り、工房を出た。
川沿いの風が、濡れた袖口へ入ってくる。空腹はとうに通り越して、腹の中が細く縮んでいるように痛かった。
通りへ出ると、見慣れない黒板が目に入った。
『肉と野菜のカレーライス 銅貨二枚』
その下には、ぎざぎざの丸い絵が貼ってある。
『ひだまり食堂』
うわさは、紙工房まで届いていた。
新しくできた店で、白い穀物を出す。大工のマルタが、辛い料理を食べて若い職人へすすめた。森から来たエルフには、肉の入っていない料理を別の鍋で作ったらしい。
まだ、それ以上の話は聞いていなかった。
店の前まで来ると、炊いた穀物と、少し甘い卵の匂いがした。
ヨラは硬いパンと自分の指を順番に思い浮かべ、食堂の戸を開けた。
軒下の鐘が、からんと鳴る。
「いらっしゃいませ」
厨房から、白い前掛けの青年が出てきた。
ユウトと名乗った店主は、ヨラの顔より先に手元を見た。
「お怪我ですか」
「ただふやけているだけだ。朝から紙をすいていた」
「紙って、水の中で作るんですか」
「そこからかい」
ヨラは空いている手前の席へ座った。
椅子の背へ上着を掛けるのに、留め具が指に引っかかった。普段なら一度で外せるのに、今日は二度やり直した。
ユウトは水を置き、薄い紙を一枚出した。
「食べられない物はありますか」
「ない。肉も魚も卵も乳も食べる」
「文化や家の決まりで避けている物は」
「ないね」
「苦手な味はありますか。辛い、すっぱい、甘いなど」
「辛すぎなければ何でもいい。それより、さじ一本で食べられる物はあるかい。ナイフとフォークの二本を使うと、昼休みが終わる」
「そんなに時間がかかりますか」
ヨラは、すぐには曲がらない人さし指を見せた。
「いつもならかからない。今日はさじにするという話だ」
「分かりました。温かくて、さじ一本で食べられるものを作ります」
「熱々すぎない方がありがたい。熱い皿を指で押さえる仕事は増やしたくない」
「皿は台へ置いて食べてください」
「それなら普段からそうしているよ」
ユウトは少し笑い、紙へ『人間』『食べられない物なし』『辛さ控えめ』『さじ一本』と書いた。
その紙の隣には、緑の葉や魚の絵がある注文票が数枚並んでいる。
「その紙は、毎回使い捨てるのかい」
「いえ。次に来てもらったとき、前と同じか確認して使います」
「じゃあ、水をこぼすと困る紙だ」
ヨラの目には、紙の繊維が見えた。表面はなめらかだが、薄い。厨房の湿気を吸い続ければ、端から波打つだろう。
「水はこぼさないようにします」
「紙職人の前では、その答えは不正解だよ」
ヨラが言うと、ユウトは注文票と水の杯を見比べた。
「水に強い紙があるんですか」
「作れる。ただし、今日のあたしの食事が先だ」
「すみません。料理します」
ユウトは注文票を厨房側の台へ置いた。
ヨラからは、作っている手元がよく見えた。
その日の朝に炊いた白い米を、ユウトが蓋付きの鍋から器へよそう。粒は短く、ふっくらしていた。
小鍋では、魚の乾物から取っただしが温められていた。
「魚は大丈夫と聞きましたが、魚のだしも大丈夫ですか」
「大丈夫だ。聞き方が細かいね」
「前に、肉の汁も食べられないと教わったので」
「教わったら次に使う。いい仕事のしかただ」
ユウトは小鍋のだしへ、細く切った玉ねぎと、オレンジ色の根菜を入れた。野菜が柔らかくなったところで、しょうゆと塩を少し加える。
しょうゆの香りが湯気に乗った。
ヨラは知らない匂いを一度吸い、もう一度確かめた。少し焦げた豆のような香りだが、煙たくはない。魚のだしと合わさると、空腹にはっきり分かる温かい匂いになった。
ユウトは白い粉を水で溶き、小鍋へ少しずつ入れた。
木べらで混ぜるたび、さらさらだった汁がゆっくり重くなる。野菜を持ち上げると、透き通った汁が細く続いた。
「のりみたいにするのかい」
「のりほどは硬くしません。ご飯と卵をまとめて、冷めにくくするんです」
「紙にも、似たような仕事がある。繊維だけではばらけるから、つなぐ汁を少し入れる」
「料理と紙が、そこで繋がるんですか」
「あんたが先に紙の話を聞いたからだよ」
次に、ユウトは卵を二個割った。
黄色い黄身と透き通った白身を、木の棒で素早く混ぜる。そこへ塩と、だしをひとさじ加えた。
平たい鍋へ油を薄く広げ、卵を一度に流す。
じゅっ、と軽い音がした。
縁から固まり始めた卵を、ユウトが木べらで大きく混ぜる。小さくばらばらにせず、柔らかいひだを重ねるように中央へ寄せた。
表面がまだ少し濡れているうちに、火から外す。
「中まで焼けていないように見えるが」
「余熱で固まります。焼きすぎると硬くなるので」
ユウトは白いご飯の上へ、ふわりとした卵を滑らせた。
その上から、野菜の入ったとろみのある汁をかける。黄色い卵の間に、透明な茶色が広がった。
湯気が上がる丼の下へは、口を広くした木の台が置かれた。丼へ直接触れなくても、両手で台の端を持てる。
「ふわふわ卵のあんかけ丼です。汁にとろみをつけたので、中はまだ熱いです。最初は小さくすくってください」
「熱々すぎないようにと言っただろう」
「熱々のまま出すよりは冷ましました」
「これでかい」
「とろみは、思ったより熱さを保ちます」
「今、料理人が学んだね」
「はい」
素直に認めたので、ヨラは怒るのをやめた。
木のさじを右手で持つ。ぎこちないが、柄は太く、ふやけた指でも握ることができた。
卵とご飯と、あんを一緒に小さくすくう。
ふう、ふうと二度吹いてから、口へ入れた。
最初に、だしとしょうゆの温かい味が舌へ広がった。
あんはとろりとしているが、糊のように重くはない。ふんわりした卵の間へ入り、米の粒をまとめてくれる。
卵は、上の方が柔らかく、ご飯に接した下の方は少しだけしっかり固まっていた。一口の中にやわらかい部分と、ほろりと分かれる部分がある。
ヨラは飲み込み、すぐ二口目をすくった。
「おいしい。卵は柔らかいし、汁は温かくて、米と一緒にすくいやすい」
ユウトがほっとした顔になった。
「熱さは大丈夫ですか」
「最初は少し熱い。でも、パンを指で割るよりずっといい」
「比べる相手が料理ではないんですが」
「今日の昼には、それが一番大事なんだよ」
ヨラは三口目を食べた。
今度は、オレンジ色の根菜を一枚乗せる。薄く切られた根菜は、さじの端で簡単に切れるほど柔らかかった。かむと、だしの塩気の後から野菜の甘さが出てくる。
次は玉ねぎを多めにすくった。
透き通るまで煮えた玉ねぎは、歯を強く使わなくてもとけた。しょうゆの香りと野菜の甘さが混ざる。
熱さが落ち着くと、最初より大きな一口をすくえるようになった。
さじ一本なら、食べる間、左手は卓の上で休ませておける。右手も、ナイフを押さえて力を入れる必要がない。
ヨラは、それが料理の味と同じくらいありがたかった。
丼の半分を食べたころには、空腹の痛みが消えていた。
代わりに、腹の中から温かさが広がっていく。川の水につけ続けた手まで、すぐに温まるわけではない。けれど、肩に入っていた力が抜け、指もゆっくり曲がるようになってきた。
ヨラはさじを置き、左手を一度開いてみた。
「その料理は、指も柔らかくするのかい」
「そこまでの力はないと思います」
「では、食べるために休んだからだね」
「そっちです」
おかしくなって、ヨラは笑った。
笑うと、自分がかなり急いで食べていたことに気づいた。
残りはゆっくり食べることにした。
卵だけをすくうと、だしの味と柔らかさを強く感じる。ご飯を多くすると、かむたびに米の甘さが出る。あんが薄くなった端の部分は、しょうゆの香りがよく分かった。
最初は湯気で見えにくかった卵の黄色が、今ははっきり見える。冷めてもあんは固まらず、最後までご飯と卵にからんだ。
ヨラは、根菜の一枚と、一番ふわりしている卵を少しだけ残した。
その下からご飯をすくい、三つを一緒にさじへ乗せる。
最後の一口は、最初ほど熱くなかった。
その分、卵の甘さとしょうゆの香りを、急がずに味わえた。根菜をかむと、残っていただしがじわりと出た。
飲み込むと、さじを持っていた右手も卓の上へ置いた。
丼の底には、茶色いあんが薄く一筋残っている。ヨラはさじの背で集め、それも口へ入れた。
「ごちそうさま。やわらかくて、最後まで温かくて、おいしかったよ」
「ありがとうございます」
「熱さは、最初の一口だけ気をつければいい。中ごろからは、ちょうどよかった」
ユウトは、注文票の『熱々すぎない』の横に『最初はよく吹いて食べる』と書き足した。
「そこまで残すのかい」
「次に同じものを出すときのためです」
「では、紙ももっと長持ちするものにした方がいい」
ヨラは水をゆっくり飲んだ。
口に残っていたしょうゆの香りが薄くなる。腹はしっかり満たされていたが、硬いパンを急いで詰め込んだときのような重さはない。
椅子の背へ少し体を預け、両手を開いてみる。来たときより指は動いた。右手の小指はまだ動きが鈍いが、上着の留め具くらいなら一度で外せそうだった。
「銅貨はいくらだい」
「二枚です」
ヨラは腰の小袋を開けた。ひもを結び直すのに少し時間がかかったが、指先で銅貨をつまみ、二枚を卓へ置いた。
「それと、注文票に使える紙の見本を作ってみる」
「お願いします。値段を聞いてから注文します」
「今の言い方なら、マルタに値段を書けと言われたね」
「なぜ分かったんですか」
「あの大工は、仕事を無料で頼む口調を嫌う」
「たしかに、最初に値段を聞けと教われました」
「いいことを教わったね」
ヨラは立ち上がり、上着を取った。
留め具は、本当に一度で外せた。
腕を通し、前を閉じる。それだけの動作だったが、工房を出たときより少し楽だった。
「また来るよ。次は、手がふやける前にね」
「そうしてください」
「紙職人に、水へ触る前に来いと言うのかい」
「では、指が曲がるうちに」
「それなら正解だ」
ヨラが戸を開けると、軒下の鐘が鳴った。
外の風はまだ川の冷たさを含んでいたが、店へ入る前ほどは寒く感じなかった。腹の中に、温かいあんと卵の熱がまだ残っている。
川沿いの道を歩きながら、ヨラは右手を何度か開いたり閉じたりした。
まだ完全には戻っていない。工房へ戻れば、また水に手を入れる。けれど、さっきまでのように指の動きがすべて止まっている感じはなかった。
急いで工房へ戻る必要もなかった。
何しろ、見習いが「十二枚目で止めろ」と言っている。あの青年は、こういうときだけは親方の命令より自分の判断を優先する。
ヨラは川の流れを見ながら、来たときより少しゆっくり歩いた。
紙工房へ戻ると、見習いは乾燥棚の前でパンを食べていた。
水槽には蓋がされ、作業台には乾いた手拭いが新しく一枚出してあった。
「十二枚で止めたかい」
「十一枚で止めました」
「数え間違えたのかい」
「いいえ。親方が戻って十二枚目を作ると、また止まらなくなると思ったので」
ヨラは言い返そうとした。
しかし、腹は満たされ、両手はようやく動き始めたばかりだった。
「正しい判断だ」
見習いが目を丸くした。
ヨラは自分の作業台へは戻らず、材料棚の方へ行った。手に取ったのは、紙の表面を強くするために使う、油を含んだ種の小袋だった。
「今から何を作るんです」
「水に強い、小さな紙を一枚」
「休憩は終わりですか」
「まだだ。まずは試す量だけ準備する」
ヨラは椅子へ座り、指をひらいた。
卵のやわらかさと、しょうゆの香りと、温かいあんがまだ口の奥に残っていた。
十二枚目の紙より先に、ひだまり食堂の注文票の見本を作る。
その順番なら、今日は悪くないと思えた。




