第2話 大工のドワーフと、熱々のカレーライス
ひだまり食堂を開けて三日目の昼、マルタは店の前で鼻を鳴らした。
焦がした肉の匂いではない。煮込んだ野菜の甘い匂いに、鼻の奥が少し熱くなるような香りが混じっている。
「ずいぶん遠くまで匂う料理だね」
開いた窓から厨房をのぞくと、鍋をかき混ぜていたユウトが顔を上げた。
「マルタさん。ちょうどよかったです」
「あたしを匂いで呼びつけたのかい」
「そこまで遠くへ届くとは思っていませんでした」
「隣の靴屋の前まで届いてたよ。店より先に料理が町へ出ていってる」
ユウトは慌てて窓を半分閉めた。
「閉めたら、今度は店の中がこの匂いだらけになりますね」
「作ってから気づいたのかい」
「はい」
相変わらず、妙なところで正直だった。
マルタは朝から、町のパン屋で壊れた裏口を直していた。太い板を削り、ゆがんだ金具を打ち直し、ようやく扉がまっすぐ閉まるようになったところだ。
腕も肩も重い。腹はもっと重くなる物を求めていた。
「それは昼飯になるのかい」
「そのつもりです。試してもらえませんか」
マルタは店へ入り、いつものように入口から二番目の卓へ向かった。そこは椅子の脚を自分で直した席だった。ぐらつかないことを知っている。
「先に言っておくけど、ただなら食べないよ」
「店を直してもらったお礼です」
ユウトが困った顔をすると、マルタは腰の銭袋を軽くたたいた。
「それとこれとは別だ。貸した金を返す店から、ただ飯を食べ続けたら、いつまでたっても金が戻ってこないだろう」
「では、きちんと代金をいただきます」
「そうしな」
卓には、最初の客と作った注文票が置かれていた。
肉、魚、卵、乳。四つの絵の横に、使うなら丸、使わないなら斜めの線を入れるようになっている。魚は、前より少し尾が長くなっていた。
ユウトが紙を持ってくる。
「食べられない物はありますか」
「身体に合わない物はないね。肉も魚も卵も乳も食べる」
「ドワーフの決まりで避ける物は?」
マルタは顎をかいた。
「仕事の前と途中には酒を飲まない。刃物と重い材木を扱うからね。地下の町でも、そこはうるさかったよ」
ユウトは注文票の端へ、酒と書いた。
「酒は料理に使わない方がいいですか」
「香りづけ程度なら構わない。酔うほど入っていたら、それは料理じゃなくて酒だ」
「好き嫌いはありますか」
「豆を砂糖で甘く煮た物だけはやめておくれ。あれは豆が道を間違えてる」
マルタは、本当に嫌そうに眉を寄せた。
「分かりました。甘い豆は使いません」
ユウトは注文票の四つの絵へ丸をつけ、その下へ『酒は少しなら可。甘い豆は苦手』と書いた。
「今日の料理は、カレーライスです」
「また知らない名前が出たね」
「肉と野菜を香辛料で煮込んで、とろみをつけた物を米へかけます。少し辛くて、味は濃いです」
「最初からそう言えば分かる」
マルタは厨房の鍋を見た。
「その辛さは、どのくらいだい」
「俺には普通です」
「あんたの普通は、まだ信用できないね」
ユウトは否定できず、先に水の入った杯を置いた。
鍋の中では、町の肉屋から買った豚肉に似た獣の肉と、玉ねぎ、にんじん、丸い芋が煮えていた。
肉は先に表面を焼いてある。角切りの肉を鍋へ入れると、熱い底に触れた面から茶色くなった。そこで一度取り出し、同じ鍋で薄く切った玉ねぎを炒めたという。
「玉ねぎは、ずいぶん小さくなったね」
「弱い火でゆっくり炒めました。水分が抜けると、甘くなるんです」
今は形がほとんど残っていない。煮汁へ溶け、肉と野菜の間を埋めていた。
ユウトが小さな袋を見せる。
「この黄色い粉が、カレー粉です。何種類もの香辛料を混ぜてあります」
前の晩、客から受け取った銅貨を白い戸棚へ入れ、故郷から買った物だった。大きな缶を買う余裕はなく、数回分だけ入った小袋を選んだ。
「これだけを鍋へ入れるのかい」
「そのままだと粉っぽくなるので、先にバターと小麦粉へ混ぜます」
別の小鍋でバターを溶かし、小麦粉を加える。ユウトが木べらで混ぜると、白かった粉が黄色いまとまりになった。
そこへカレー粉を入れた瞬間、香りが一段強くなった。
「なるほど。これが外まで逃げた犯人か」
「犯人扱いしないでください」
「戸締まりが甘かったのは店主だね」
ユウトは何も言い返せず、小鍋へ煮汁を少しずつ加えた。固かったまとまりがゆるみ、なめらかな茶色い汁へ変わっていく。それを大鍋へ戻して混ぜると、さらさらだった煮汁にとろみがついた。
木べらで底をなぞった跡が、ゆっくり閉じる。
「地下の共同鍋に少し似てるね」
「共同鍋?」
「坑道の入口に、大きな鍋を置いておくんだ。芋や豆や肉を朝から煮て、仕事を終えた者から食べる。水みたいな汁だと器からこぼれるから、パンですくえるくらい濃くするのさ」
マルタが生まれた地下の町では、昼も夜も交代で鉱石を掘っていた。食事の時刻は家族でそろわない。代わりに同じ鍋を囲み、先に戻った者が火を見て、次の者のために水や具を足した。
マルタは大工になり、地上の町へ移った。明るい場所で家を建てる仕事が気に入り、そのまま三十年住んでいる。
地下へ戻りたいとは思わない。
それでも、仕事のあとに食べる熱くて濃い煮込みは、今でも好きだった。
ユウトは白い米を皿の半分へ盛り、空いた半分へカレーをかけた。茶色いカレーが米の端へゆっくり広がる。にんじんの赤、芋の薄い黄色、表面を焼いた肉が見えた。
「熱いので、気をつけてください」
「さっきから鍋を見てたんだ。分かってるよ」
マルタは木の匙で、米とカレーを一緒にすくった。
ひと口食べる。
「熱っ」
すぐに杯を取り、水を飲んだ。
ユウトは黙っていた。
「何か言いたそうだね」
「気をつけてくださいと、言いました」
「聞いたから分かってる。分かっていても熱い物は熱いんだ」
「はい」
今度は少し冷ましてから、もう一匙食べた。
最初に玉ねぎの甘さが来た。そのあとで、舌の上へ香辛料の辛さが広がる。ただ辛いだけではない。土の匂いに似た香りや、少し苦い香りが重なり、飲み込んだあとまで温かさが残った。
肉はやわらかく、匙の端でも切れた。芋はほくほくしていて、濃いカレーを受け止めている。白い米は粒がやわらかく、噛むとほのかな甘味が出た。
「辛いね。でも、うまい。米と一緒に食べると、ちょうどいい」
マルタはそう言って、三匙目をすくった。
今度はカレーを多めにした。
「普通の辛さで大丈夫でしたか」
「水をもう一杯もらえればね」
「やはり辛かったんですね」
「辛いのと、嫌いなのは別だ。これは辛くてうまい」
ユウトは安心したように、水を足した。
マルタは次の一匙で、にんじんを選んだ。長く煮たにんじんは匙で押すだけで割れ、玉ねぎの甘さとは違う、はっきりした甘味があった。そのすぐあとにカレーの辛さが追いつき、甘味だけを口へ残さない。
丸い芋は、外側へカレーがしみているが、中心は白くほくほくしていた。芋だけなら見慣れた味だ。そこへ香辛料の香りが重なると、地下の共同鍋とは似ているのに、同じ料理ではなくなる。
マルタは米だけを少し食べた。次は肉とカレーだけ。その次は、米、芋、カレーを一緒にすくう。
「混ぜ方で、味が変わるね」
「最初から全部混ぜる人もいます」
「あたしは、食べる場所ごとに変えたい。こっちは白いまま残しておくよ」
皿の端にある米を少し残し、濃いカレーのあとで食べる。白い米のやわらかな甘さが、舌に残った辛さを落ち着かせた。
食べ始めたときは、早く腹を満たしたくて匙を大きく動かしていた。半分を過ぎるころには速度が落ち、具を一つずつ選ぶ余裕ができた。肩の重さは消えないが、空腹に急かされる感じはもうない。
食べ進めるうちに、マルタの額へ薄く汗がにじんだ。前掛けの端で拭き、また匙を動かす。
最後には、肉を一つと、白い米を一匙分だけ残した。
まず米で口の中の辛さをやわらげる。それから肉へカレーをたっぷりからめ、最後の一口にした。やわらかな肉を噛むと、煮汁と香辛料の味が広がる。飲み込んだあとも、喉の奥に温かさが残った。
皿の端に残ったカレーも、匙できれいに集める。
食べ始めたころには湯気を立てていたカレーも、もう舌を慌てさせない温度になっている。辛さだけが少し丸くなり、煮込んだ玉ねぎと肉の味を前より強く感じた。
マルタは匙の背で皿をなぞった。茶色い筋が一本でき、すぐ両側のカレーが流れ込む。それも集めて口へ運ぶ。
「冷めかけても、味が薄くならないね」
「香辛料は残りますから。熱々とは違う味になります」
「なら、最後まで急いで食べなくていい。仕事の昼には大事なことだよ」
午前の仕事で急かされ続けた腹が、ようやく落ち着いていた。
「パンがあれば、これも取れるんだがね」
「次は小さなパンもつけましょうか」
「米へかけた料理にパンまでつけるのかい」
マルタは皿の端に残ったカレーを、もう一度匙で集めた。
「残ったカレーを取るためです」
「それなら、パンもつけな」
食べ終えたマルタは、椅子へ深く座り直した。重かった腕と肩が、少しだけ軽くなった気がする。
水を飲み干し、長く息を吐く。腹はきちんと満ちているが、動けないほど重くはない。指先にはまだ香辛料の熱が残り、午前中に冷えた手まで温まっていた。
「満腹だ。熱くて辛かったが、最後までうまかったよ」
空になった皿へ目を戻し、マルタは満足そうに顎を引いた。
「これなら、午後も材木を運べる。店に出しな」
「本当ですか」
「ただし、辛い料理だと先に書くんだよ。それから値段もね」
ユウトは壁の小さな黒板を見た。料理名だけを書き、値段を書くのを忘れていた。
「値段がなければ、客は入りにくいですか」
「あたしなら入らない。食べたあとで銅貨十枚と言われたら、椅子を一脚持って帰るしかないだろう」
「それは困ります」
「なら、先に書きな」
二人で材料にかかった金を数え、一皿を銅貨二枚に決めた。
マルタは代金を卓へ置く。ユウトが一枚返そうとすると、その手を指で押し戻した。
「試食でも、昼飯一人分は一人分だ」
「ありがとうございます」
「礼より、次も同じ味にしな。今日だけうまい店じゃ困る」
マルタは店を出る前に、黒板へ大きな字で書いた。
『肉と野菜のカレーライス 銅貨二枚』
その横へ、小さく付け足す。
『少し辛い。水は無料』
「水まで書くんですか」
「あんたが普通の辛さだと言い張るからだよ」
マルタが扉を開けると、店の前で二人の職人が立ち止まっていた。
「さっきから、いい匂いがするんだが」
一人が黒板を見て言った。
マルタはユウトを振り返る。
「ほら。料理が連れてきた客だ。今度は窓を閉めるんじゃないよ」
二人の職人が店へ入るのを見届けると、マルタは腰の道具袋を締め直した。
外の風が、汗のにじんだ額を冷ましていく。口の中にはまだ香辛料の香りが残っていた。来たときには空腹で重かった足が、今は地面をしっかり踏んでいる。
午後の仕事は、材木置き場から長い梁を二本運び、朝直したパン屋の裏口へ補強を入れることだった。
マルタは通りを歩きながら、店の前で足を止めた二人を思い出した。匂いで二人来るなら、次は黒板を読んで来る者もいるだろう。毎日同じ味を出せるなら、その次もある。
「まずは借金一枚分、返ってきたね」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、自然に笑った。
パン屋へ戻ると、若い職人が長い板を抱えて待っていた。
「親方、昼は何を食べたんです?」
「カレーライスだ」
「カレーライスって、どんな料理です」
「肉と野菜を辛く煮て、白い米へかけた料理だよ。説明するより食べた方が早い」
マルタは板の反対側を持ち上げた。腕へ重さはかかったが、腹の底には昼食の熱が残っている。
「仕事が終わったら、場所を教えてください」
「窓から匂いが逃げてる店だ。近くへ行けば分かるよ」
二人は息を合わせ、板を作業台へ運んだ。
マルタは道具袋から金槌を出し、柄を握り直した。空腹だった朝は一度打つたび腕の疲れが気になったが、今は狙った場所へ力を落とせる。
釘がまっすぐ木へ沈む。
若い職人が「いい音ですね」と言うと、マルタは昼に聞いた鍋の音を思い出した。
「仕事が終われば、もっと腹の鳴る音を聞かせてやるよ」
午後の金槌の音は、朝より軽く町へ響いた。
ひだまり食堂にはその日、値段の書かれた最初の献立と、空になったカレー鍋が残った。




