第1話 森番のエルフと、きのこのバターしょうゆご飯
リネアは、朝から何も食べていなかった。
食べる時間がなかったわけではない。
町で買える昼食に、食べられる物が見つからなかったのだ。
大通りには、焼いた腸詰めを売る屋台が並んでいた。隣の店からは、骨つき肉を煮込む匂いが流れてくる。その向かいでは、肉の脂をぬった平たいパンが焼かれていた。
どれも腹の減る匂いだった。
けれど、エルフの身体は獣の肉を受けつけない。ほんの少しなら舌がしびれる程度だが、一皿食べれば熱が出て、ひどいときには一晩中吐く。
魚、卵、乳は食べられる。森で採れる豆やきのこも好物だ。ただ、この町では、野菜の煮込みにも肉の汁を使う店が多かった。
「木の実を残しておけばよかったな……」
リネアは肩に掛けた筒を押さえた。
筒の中には、森の道を描き直した地図が入っている。春の大雨で橋が一本流され、古い道が使えなくなった。今日は、その報告を町の役所へ届けに来たのだ。
森番になって二年。町へ一人で出る仕事にも慣れたつもりだった。
それでも食堂へ入り、肉を使っていない料理があるかと尋ねるのは苦手だった。
忙しい昼どきに鍋の中身を聞くと、面倒そうな顔をされることがある。「肉をよければ食べられるだろう」と言われたことも、一度ではない。肉を取り除いても、汁に溶けた脂まではなくならないのだが、それを説明するとさらに話が長くなった。
役所への報告を終えたら、森まで二時間歩かなければならない。
空腹のまま帰るしかないか。
そう考えて細い道へ曲がったとき、小さな看板が目に入った。
『ひだまり食堂』
新しい文字の下に、少し曲がった字で書き足してある。
『食べられないものを、先に教えてください』
リネアは立ち止まった。
店の窓は開いていた。中には誰もいない。客の声も、食器の音もしなかった。
代わりに、温かい米と、焼けたきのこの匂いが流れてきた。
肉の匂いはしない。
念のため、リネアは鼻を近づけた。森番の仕事では、傷んだ木や獣の残した匂いを見分ける。料理屋の前で役立てる技術ではないと思っていたが、今日はありがたかった。
香りの中には、乳から作る油の甘さがあった。その奥に、初めて嗅ぐ、少し焦げたような香りが混じっている。
腹が鳴った。
誰も聞いていないことを確認してから、リネアは扉を開けた。
軒下の鐘が、からん、と鳴る。
「いらっしゃいませ」
厨房から、黒い髪の男が顔を出した。
若い。人間だ。白い服の上へ前掛けをつけている。腰に剣はなく、手には濡れた布巾を持っていた。
「一人です。まだ、食べられますか」
「もちろんです。今日、最初のお客さんです」
男は笑ったまま、手の布巾を握り直した。
「今のは忘れてください。客が一人も来ていなかったと、自分で教えてしまいました」
「もう聞きました」
「ですよね」
「正直なのは嫌いではありません」
リネアは入口に近い席へ座った。何かあればすぐ出られる席だ。
卓の上には、紙が一枚置いてあった。
『食べられないもの、苦手なものがあれば、注文の前に教えてください』
看板より丁寧な文章だった。
「店主」
「ユウトです」
「では、ユウト。私は獣の肉を食べられません。肉を取り除くだけでも駄目です。肉を煮た汁と、肉を焼いた脂も口にできません」
いつもの説明を、リネアはまとめて告げた。
ユウトは面倒そうな顔をしなかった。
「魚はどうですか」
「食べられます」
ユウトは注文の紙へ短く書き留めた。
「卵と乳は」
「どちらも大丈夫です。ただし、北の森には乳を避ける家もあります。私は平気です」
「好き嫌いはありますか」
そこまで聞かれたのは初めてだった。
リネアは少し考えた。
「生の苦い葉は、あまり好きではありません」
「分かりました。肉も肉の汁も使わず、温かい物を作ります」
ユウトは卓の紙へ、緑の葉を一枚描いた。その横へ、肉なし、と書く。
「これは?」
「厨房で間違えないための印です。今日から使います」
「今日から」
「あなたが最初のお客さんなので」
また正直に言った。
リネアは口元をゆるめた。
「では、役に立つ最初の客になりましょう」
ユウトが厨房へ戻る。
広くはないが、よく片づいた厨房だった。二つあるまな板のうち、ユウトは棚から出したばかりの方を水で洗った。包丁も洗い直し、乾いた布で水気をふく。
鉄の鍋から、白い湯気が上がっていた。
「それは米ですか」
「はい。俺の故郷でよく食べていた穀物です」
米ならリネアも知っていた。しかし森で手に入る物は細く、煮ると粥になる。鍋の中の米は粒が短く、つやがあり、一粒ずつがふっくらとしていた。
「ずいぶん白いですね」
「固い外側をきれいに取ってあるんです。白くて、やわらかく炊けます」
ユウトは必要なことだけ答え、次の支度へ移った。
町で買った茶色いきのこを厚めに切る。丸い傘へ包丁が入るたび、白い断面が現れた。
きのこを焼く鍋は、ほかの料理に使っていない物だった。
そこへ黄色い乳の油――バターを落とす。
固かったバターが熱でゆるみ、鍋の底へ広がった。泡が細かくなると、甘い香りが強くなる。ユウトはきのこを重ならないように並べた。
じゅっ、と音がした。
きのこの表面が油を吸い、少しずつ色づいていく。すぐに動かさず、片面へ焼き色がついてから返す。丸かった傘がしんなりして、縁に透明な汁が浮かんだ。
「最後に、これを少し」
ユウトは黒に近い茶色の液体を、鍋の縁から回し入れた。
香りが立ち上がる。
塩気のある匂いなのに、獣の脂とは違う。焼いた豆を思わせる、深くて丸い香りだった。
「何です、それは」
「しょうゆです。豆と小麦を塩に漬けて、長く置いて作る調味料です」
「豆から、この香りが?」
「時間をかけると、味が変わるんです」
説明を聞いている間にも、鍋の音が変わった。さらりとしていた液体がきのこへからみ、照りが出る。
ユウトは火を止め、炊いた米へきのこを混ぜた。白い粒に、薄い茶色がまだらに広がる。
それだけでは終わらなかった。
かぼちゃに似た橙色の野菜と、細い緑の豆を切る。小麦粉を冷たい水でさっと溶き、野菜へ薄くまとわせた。
油の鍋も、今朝入れたばかりの新しい物だった。
「肉を揚げた油ではありません」
ユウトはリネアが尋ねる前に言った。
「助かります」
衣をつけた野菜が油へ入る。
ぱちぱちと軽い音が続き、白かった衣が固まった。厚い皮にはならず、野菜の色が透けて見える。ユウトは泡が小さくなったところで引き上げ、網の上で油を切った。
やがて、丸い皿と小さな籠が運ばれてきた。
「きのこのバターしょうゆご飯と、野菜の天ぷらです」
料理名のあとで、ユウトは短く付け足した。
「天ぷらは、薄い衣をつけて揚げた料理です。こちらの塩を少しつけて食べてください」
リネアはまず、皿へ顔を寄せた。
念のためだ。
肉の匂いはしない。きのこと、乳の油と、しょうゆの香りだけが、温かい湯気に乗っていた。
木の匙ですくうと、米は粥のように崩れず、粒のまままとまった。きのこを一切れ乗せ、口へ運ぶ。
バターの甘い香りと、少し焦げたしょうゆの香ばしさが口いっぱいに広がった。
厚く切ったきのこは、ぷりっとしている。噛むと熱い汁が出て、ふっくらした米にしみた。肉は入っていないのに味はしっかりしていて、塩辛すぎない。
「おいしい」
考えるより先に、言葉が出た。
リネアは二匙目をすくった。
今度は、きのこを二切れ乗せた。
「どうですか」
「おいしいです。ですから、もう少し静かに食べさせてください」
ユウトは素直に口を閉じ、厨房へ半歩下がった。
リネアは三匙目を食べた。今度は米だけだったが、きのこの汁が混ざっている。噛むほど、かすかな甘味が出た。
ようやく匙を置き、天ぷらへ手を伸ばす。
緑の豆を一本、塩へ触れる程度につけてかじった。
さくっ、と衣が割れた。
中の豆は熱く、歯を押し返すほどみずみずしい。焼くよりも青い香りが残っていた。油で揚げた料理なのに重くなく、塩をつけると野菜の甘さがはっきりした。
「これも、サクサクしておいしいです」
「感想は食べ終わってからでは」
ユウトが言うと、リネアは豆の天ぷらを持ったまま彼を見た。
「店主が客の言葉をそのまま返すのは、よくないと思います」
「すみません」
謝りながらも、ユウトはうれしそうだった。
橙色の野菜は、もっと甘かった。端の衣がぱりぱりとして、中はほくりと崩れる。
リネアの家では、秋になると家族で木の実と根菜を焼いた。焼けた物から布の上へ並べ、いちばん形のよい物を祖母が末の弟へ渡す。
この料理は、それとはまるで違う。
それでも、熱い野菜を皆で待った時間を思い出した。
「弟が喜びそうです」
リネアは橙色の天ぷらを見ながら言った。
「甘い物が好きなんですか」
リネアは天ぷらの端を指先でつまんだ。薄い衣が、小さく鳴った。
「いいえ。弟は、こういうサクサクした物が大好きなんです。わざと大きな音を立てて、祖母に叱られるまで食べます」
「叱られるところまで含めて、楽しんでいませんか」
「その可能性はあります」
リネアは真面目にうなずき、もう一口かじった。
「それなら、もっと衣の多い端を選びそうですね」
「よく分かりますね」
「俺も子どものころ、同じことをしました」
リネアは笑った。
笑うと、腹にまだ空きがあることへ気づいた。
ご飯は半分ほど残っている。「おいしい」と口にしてからは、肉が入っていないか確かめるためではなく、温かいうちにもっと食べたくて匙を動かした。
きのこの味が濃いところを食べたあとは、塩だけをつけた緑の豆をかじる。青い香りと軽い塩気で口の中が変わると、またバターしょうゆのご飯が欲しくなった。
ご飯。天ぷら。水を一口。
同じ皿と籠なのに、順番を変えるたびに味が少し違った。
最初は熱かった橙色の野菜も、今は落ち着いている。冷めると甘さがよく分かり、衣の端だけがまだぱりっと鳴った。リネアは小さな衣の欠片まで指で集め、最後のご飯と一緒に食べた。
朝から空っぽだった腹が、温かい物でゆっくり満たされていく。森へ帰るために無理に詰め込んでいる感じはなかった。肩から力が抜け、椅子の背へ少しだけ体を預けられるようになった。
きのこを一つ残し、米を先に食べる。
最後に、しょうゆをよく吸った一切れを口へ入れた。
皿が空になる。
リネアはすぐには立ち上がらなかった。
水をゆっくり飲み、口に残ったしょうゆの香りが薄れていくのを待つ。腹の中は温かく、朝から続いていた空腹の痛みは消えていた。森まで二時間歩くことを考えても、先ほどのような重さはない。
空になった皿へもう一度目を落とす。
「おいしかったです。きのこもご飯も、最後まで飽きませんでした」
「ありがとうございます」
ユウトは今度こそ、食べ終えるまで待ってから答えた。
「ユウト」
「はい」
「同じ物を、もう一つ作れますか」
ユウトは空の皿と、リネアの顔を交互に見た。
「おかわりですか」
「いいえ。森の詰め所にいる同僚にも食べさせたいんです。あの人も仕事に夢中になると、よく昼食を忘れるので」
ユウトは持ち帰り用の包み紙を取り出した。
「リネアさんも、今日はずいぶんお腹が減っていたのでは?」
「朝から何も食べていませんでした。なぜ分かったんですか」
「食べる速さを見れば分かります」
リネアは空になった皿を見た。
「では、同僚を叱るときは、自分のことを棚に上げます」
「先にご自分の分も昼食を用意してください」
「店主は客を叱るのですか」
「心配しているんです」
真面目に答えられてしまい、リネアは少しだけ目をそらした。
「天ぷらは時間がたつと、今よりやわらかくなります」
「それも伝えます。ご飯は?」
「こちらは少し冷めても大丈夫です。ただ、今日中に食べてください」
「では、それでお願いします」
ユウトは新しい注文票を取り、また緑の葉を描いた。
リネアはそれを見て、ふと尋ねた。
「その葉の印は、ほかの客にも使うのですか」
「肉を使わない料理の印にしようと思います。でも、魚や卵が駄目な人もいますよね」
「森の南では、卵を食べない一族がいます。エルフでも、住む場所や家によって違います」
リネアは紙の卵へ指を置いた。
「エルフなら全員同じ、ではないんですね」
「人間も全員同じ物を食べるわけではないでしょう」
「その通りです」
ユウトは葉の横へ、小さな卵と魚の絵を描き足した。使っている物には丸、使っていない物には斜めの線を入れる。
「字が読めない人にも、これなら分かるでしょうか」
リネアは注文票を自分の方へ寄せた。
「魚の絵は、もう少し尾を長くしてください。このままだと木の葉に見えます」
「難しいですね」
「森の地図よりは簡単です」
持ち帰りの料理ができるまで、二人は紙の上へ印を増やした。
肉。魚。卵。乳。
すべてを一度に完成させる必要はない。客に聞きながら、必要な物を足せばいい。
包みを受け取ると、リネアは代金を卓へ並べた。銅貨が四枚。町で普通の昼食を食べるのと同じくらいの額だった。
「高すぎませんか」
「この量なら妥当です。少なくとも、私は払えます」
リネアは肩から地図の筒を掛け直した。
「次に来るときは、弟も連れてきます。店の前で天ぷらを食べさせるのはやめてください。音を立てるので」
「店の中ならいいんですか」
「私が叱れますから」
扉の鐘が鳴り、リネアは昼の道へ戻っていった。
店の外の風は、入ったときより少し涼しく感じた。満たされた腹へ手を当て、地図の筒と持ち帰りの包みを持ち直す。
来たときより歩幅が広い。片手の包みはまだ温かく、歩くたびに、しょうゆの香りが紙の隙間からわずかに届いた。
町の門を出るころには、足取りも一定になっていた。朝は長く感じた森までの道が、今は同僚へ料理を渡すための帰り道になっている。
ユウトは扉の前で、その背中が角を曲がるまで見送った。
「最初の客は、どうだった」
いつの間にか、マルタが裏口から入ってきていた。
「同僚の分まで買ってくれました。次は弟さんも連れてくるそうです」
「一人来て、二人分売れて、次の客まで決まった。上出来じゃないか」
ユウトは卓の銅貨を手に取った。
厨房の白い戸棚を開け、引き出しへ一枚ずつ入れる。故郷の食材を買える額が、棚の内側に増えていった。
この金で、次の米が買える。
次の客に出す料理を作れる。
ユウトは残りの三枚をしまい、一枚だけで米を買った。
白い袋が棚の中へ現れる。
その横には、リネアと一緒に考えたばかりの注文票を置いた。
緑の葉と、少し尾の長い魚が描かれている。
ひだまり食堂には、その日、初めて二人分の売り上げと、一枚の新しい印が残った。
二時間後、リネアは森の詰め所へ戻った。
戸を開けると、机に地図を広げていた同僚が顔を上げた。昼食を取った様子はない。
「町の報告は終わったのか」
「終わりました。それから、昼食も買ってきました」
リネアは包みを机へ置いた。もう熱々ではないが、紙を開くと、きのことしょうゆの香りが小さな部屋へ広がった。
「私の分か?」
「はい。仕事に夢中になると、すぐ昼食を忘れる人の分です」
「それを君に言われるのか」
「今日は、私はもう食べました」
リネアは胸を張った。
同僚は何か言い返そうとしたが、料理の匂いに負けて包みをのぞき込んだ。
リネアは自分の椅子へ腰を下ろす。二時間歩いた足には心地よい疲れがあり、腹にはまだご飯の温かさが残っていた。
「食べながら聞いてください。町に、新しい食堂ができたんです」
森の詰め所の遅い昼に、リネアは今度は地図より先に、ひだまり食堂の話を始めた。




