プロローグ 空っぽの食堂
ユウトは、磨き終えたばかりの木の卓をもう一度ふいた。
汚れていたわけではない。
落ち着かなかったのだ。
卓は六つ。椅子は二十四脚。どれも古いが、脚のぐらつきは直してある。壁には、かつて酒樽を置いていたらしい丸い跡が残っていた。窓の外を通る人々は、ときどき足をゆるめ、新しい看板を見上げていく。
朝の光は、通りに面した二つの窓から斜めに差し込んでいた。磨いた床の上に、四角い明るい場所ができている。店の奥は少し暗いが、壁際の棚へ白い皿を並べると、以前よりずっと広く見えた。
厨房との間には、料理を置くための低い台がある。ユウトはそこへ、湯気の上がる皿を並べるつもりだった。客の顔も、料理を受け取ったときの反応も、厨房から見える高さに直してある。
直したのはマルタだ。
ユウトが何度も立ったりしゃがんだりして高さを確かめるので、最後には「次に測り直したら、あんたの膝を台へ打ちつけるよ」と言われた。
それでも、ちょうどよい高さになった。
看板には、大きな字でこう書いてあった。
『ひだまり食堂』
その下には、町の人に教わった文字で、もう一行。
『食べられないものを、先に教えてください』
入口のそばで、マルタが腕を組んでいた。
「その卓をふくのは、もう三度目だよ。四度ふけば、客が増えるのかい」
「増えるなら、床もふきます」
「床は昨日、あたしが磨いた。余計なことをするんじゃないよ」
ユウトは布巾を置いた。
「看板は出しましたけど、本当に客が来るでしょうか」
マルタは、この食堂の壊れた床と椅子を直してくれた大工だ。背はユウトの肩ほどまでしかないが、丸太のように太い腕をしている。地下の町から移り住んできたドワーフで、リンドの町では三十年も仕事をしていた。
三週間のあいだに、マルタは床板を五枚張り替え、椅子を九脚直し、外れかけていた厨房の扉をつけ直した。ユウトも釘を渡し、木くずを掃き、言われた長さに板を押さえた。
大工仕事は、ほとんど役に立てなかった。
一度だけ釘を打たせてもらったが、まっすぐ入ったのは三本目だった。一本目は曲がり、二本目は指を打った。
「料理人の手を、開店前に腫らすんじゃないよ」
そう言って、マルタは金槌を取り上げた。
代わりにユウトが任されたのは、休憩の食事だった。町のパン、かたいチーズ、根菜のスープ。同じ材料でも、パンを薄く切って焼き、チーズをのせ、スープの香草を変えると、マルタは毎回きれいに食べた。
昼の光が床の中央へ落ちるのを見て、店の名前を決めたのもマルタだった。
「地下育ちのあたしでも、ここへ来ると昼だと分かる。ひだまりでいいんじゃないか」
「食堂の名前として、軽すぎませんか」
「借金のある店が、重たい名前を背負ってどうするんだい」
その一言で、『ひだまり食堂』になった。
「来てもらわないと困ります。借りたお金を返せませんから」
「そういうところだけは正直だね」
マルタは鼻を鳴らした。
この町へ来たばかりのユウトには、金も、家も、身元を証明する物もなかった。あったのは、料理を作って働いていた記憶と、着ていた白い調理着だけだ。
三週間前。仕事場の食品庫を開けたはずのユウトは、見たこともない森の中へ出た。
戻ろうとしても、扉は消えていた。
森の道で途方に暮れていたところを、荷車で通りかかったマルタに拾われた。町へ連れてきてもらい、空き家になっていた古い食堂を借りた。言葉が通じた理由も、ここへ来た理由も、まだ分からない。
森で最初にユウトの腹を満たしたのも、マルタだった。
荷台へ乗せてもらったあと、黒いパンを半分と、布に包んだチーズを渡された。パンは驚くほどかたく、ひと口目は噛み切れなかった。マルタが笑いながら水筒の水へ浸すよう教えてくれた。
水を吸ったパンは少しやわらかくなった。酸味のある生地へ、塩気の強いチーズがよく合った。空腹だったユウトは、残す余裕もなく食べ切った。
何の肉かも分からない物を出されなかったことを、あとになってありがたいと思った。
「知らない土地で、知らない物を食べるのは怖いだろう」
マルタはそう言った。
だからユウトも、客が知らない料理を怖がることを忘れないつもりだった。
ただ、料理なら作れた。
そして、この食堂の奥には、ひとつだけ妙な物があった。
ユウトは厨房へ入り、壁際の白い戸棚を開いた。
外から見ると、古い食器棚と変わらない。ところが下の小さな引き出しへ、この国の硬貨を入れると、ユウトがいた世界の食材を買うことができた。
難しい仕組みは分からない。
銅貨一枚を入れて、頭の中で米を思い浮かべる。すると棚の内側に、買える量が文字で浮かんだ。選ぶと、白い袋に入った米が棚の中へ現れる。
しょうゆも、砂糖も、油も、同じように買えた。
けれど、硬貨は戻ってこない。食材を売って金に換えることもできなかった。料理を作り、客から代金をもらわなければ、次の食材は買えない。
初めて棚を見つけたのは、食堂の掃除を始めた日の夕方だった。
戸棚の奥から、聞き慣れた機械音がした。試しにマルタから借りた銅貨を一枚入れると、棚の内側に文字が浮かんだ。
米。小麦粉。しょうゆ。砂糖。塩。油。
故郷で見慣れた名前だった。
ユウトは迷った末に、いちばん小さな米の袋を選んだ。袋が現れたときは、元の世界へ通じる手がかりを見つけたのだと思った。
しかし、棚の奥に道はなかった。手を入れても冷たい板へ触れるだけで、呼びかけても返事はない。
届くのは食材だけだった。
銅貨一枚で買える量も、品物によって違った。米は数食分。しょうゆは小さな瓶。香辛料はさらに少ない。値段の高い物を思い浮かべると、硬貨が足りないと文字が出た。
「便利だけど、腹いっぱい食わせてくれる魔法じゃないね」
マルタの言葉どおりだった。
米を炊く水も、火も、鍋も必要だ。届いた物を洗い、切り、調理するのはユウトの仕事だった。
「相変わらず、不思議な棚だ」
マルタが中をのぞき込む。
「便利ですけど、何でも出るわけじゃありません。肉や野菜は、この町で買った方が安いです」
「それでいい。町の農家や肉屋を敵に回す店なんぞ、長続きしないからね」
ユウトはうなずいた。
棚から買うのは、米やしょうゆなど、この町にはない物を中心にするつもりだった。野菜、肉、卵、乳は町で買う。知らない食材の扱い方は、この町の人から教えてもらう。
故郷の料理を、そのまま押しつけるつもりはない。
この町には、人間だけでなく、エルフも、ドワーフも、獣の耳を持つ者も、大きな角を持つ者も暮らしている。食べられる物も、食べ方も、同じではなかった。
だから看板へ、二行目を書き足した。
ただし、書き足した字は少し曲がった。
ユウトはこの世界の言葉を話せたが、文字を書く手はまだ慣れていない。見本を隣へ置き、一文字ずつ写した。最後まで書き終えたところで、最初の文字が少し大きいことに気づいた。
「読めればいい」
マルタはそう言った。
「料理も同じだよ。見栄えが少しくらい違っても、何が入っているか分かって、腹を壊さず、うまければ客は怒らない」
「最後のところが一番難しいんですが」
「だから、開ける前に味を見てやる」
マルタは厨房の鍋を指さした。
鍋には、開店用に炊いた白い米が入っていた。ユウトは朝早くから水加減を量り、火を強くして沸かし、吹きこぼれる前に弱めた。火を止めてからも蓋を取らず、しばらく蒸らしてある。
蓋を開けると、白い湯気がまとまって上がった。
「ずいぶん白いね」
「外側をきれいに取った米です。まず、そのまま食べてみてください」
ユウトは小さな器へ米をよそい、塩をほんの少し振った。
マルタが木の匙ですくう。湯気を吹き、口へ入れた。
粒はやわらかいが、粥のようには崩れていない。噛むと、最初にはなかった甘さが少しずつ出た。塩は強くない。白い米の甘味を分かりやすくする程度だった。
「おとなしい味だね」
マルタはもう一匙食べた。
「嫌いですか」
「急かすんじゃないよ。今、二口目を食べてるだろう」
「すみません」
「でも、これだけじゃ大工の昼飯には足りない。噛めば甘くてうまいが、腹がもっと濃い味を欲しがる」
「では、こちらも試してください」
ユウトは残りの米を、水で濡らした手へ取った。塩をつけ、崩れないように三角へまとめる。
火にかけた平たい鍋へ薄く油を塗り、握った米を並べた。すぐには動かさない。底に焼き色がついてから返すと、表面が薄いきつね色になっていた。
「米を焼くのかい」
「はい。最後に、しょうゆを塗ります」
小さな刷毛でしょうゆを薄く塗る。
じゅっ、と短い音がした。
豆と小麦から作ったしょうゆが熱い鍋へ落ち、香ばしい匂いが広がった。マルタが鼻を動かす。
「さっきより、腹へ来る匂いになったね」
もう一度返し、反対側にもしょうゆを塗る。表面が乾いて、ところどころ濃い茶色になった。
ユウトは焼きおにぎりを皿へ置いた。熱いので、乾いた布を小さく折って添える。
「外側を持って、かじってください。中は熱いです」
「分かってるよ」
マルタはそう言ったが、すぐには口へ入れなかった。先ほど湯気を吹いた経験を生かし、今度は表と裏を確かめてから端をかじる。
かりっ、と薄く焼けた米が鳴った。
中はふっくらしたままで、外側だけが香ばしい。焦げたしょうゆの塩気が先に来て、そのあとから米の甘さが広がった。
「こっちは、はっきりうまいね。外はかりっとして、中はやわらかい」
マルタは二口目を大きくかじった。
熱さが少し落ち着くと、しょうゆの香りより米の甘味を強く感じる。端のよく焼けたところと、中央のやわらかいところを交互に食べ、最後にいちばん茶色く焼けた角を残した。
「そこを最後にするんですか」
「いちばん味が濃そうだからね」
マルタは狙いどおりの角を食べ、指についた米粒も口へ入れた。
皿には、焦げたしょうゆの小さな跡だけが残った。
「もう一つあるかい」
「開店用なので、一つだけです」
「客が来なかったら、あたしの分だね」
「来てもらわないと困ります」
さきほど自分が言った言葉を返され、マルタは笑った。
食後に水を飲むと、口に残っていたしょうゆの塩気が薄れ、米の甘い余韻だけが残った。マルタは背もたれへ体を預け、腹のあたりを軽くたたく。
「これなら、知らない料理でも二口目へ進める。看板の字が多少曲がっていても、店は始められるよ」
ユウトは、空になった皿を見た。
食べてもらい、うまいと言ってもらった。
それだけで、胸の奥につかえていた物が少し小さくなった。
マルタは椅子から立ち上がり、入口脇に立てかけてあった看板を持ち上げた。食べる前より足取りが軽い。外へ出ると、通りから見やすい角度を確かめ、看板の脚を石で固定した。
店内へ戻ってきたときには、手に小さな木札を持っていた。
「何ですか、それは」
「焼いた米を、あとであたしが食べるという印だよ」
「客が来なかった場合だけです」
「分かってる。だから客を呼ぶんだろう」
「さて」
マルタが入口の留め金へ手をかけた。
「開けるのかい」
「はい」
ユウトは白い前掛けの結び目を確かめた。
鍋には炊きたての米がある。町で買った野菜も、卵も、きのこもある。客が来なければ、今夜は全部、自分とマルタの夕食になる。
それでも、料理を待つ時間は嫌いではなかった。
厨房には、先ほど焼いた米としょうゆの香りがまだ残っている。洗った試食用の皿は水切り台に伏せられ、マルタが置いた小さな木札は鍋のそばにあった。
誰にも食べてもらえないかもしれないという不安は、消えていない。それでも、空になった皿を一枚見たあとは、朝よりましだった。
一人が食べて、おいしいと言った。
次は、店の外から来た誰かへ作る番だった。
ユウトは入口から厨房までの道を確かめる。客が座り、注文を聞き、鍋の前へ戻る。その動きを頭の中で一度だけ繰り返し、今度こそ布巾へ手を伸ばさなかった。
マルタが扉を開ける。
昼前の風が入り、軒下の小さな鐘が鳴った。
マルタは扉を押さえたまま、通りを見た。
「さあ、最初の皿を空にしてもらいな」
「はい」
ひだまり食堂の最初の日が始まった。




