5話 二人きりの部屋、恋人の練習など
玄関の鍵を開け、俺は緊張で強張った声を絞り出した。
「どうぞ」
「おじゃましまーす……」
雪もどこか緊張しているのか、いつもより小さめの声で靴を脱ぐ。階段を上がり、俺は自分の部屋のドアノブに手をかけた。
「ココ、俺の部屋。あんま片付いてないけど」
「ふーん、ここが聡太の部屋……ふぁ!!?」
ドアを開けた瞬間、雪が素っ頓狂な声を上げてその場に凍りついた。
壁一面に貼られた末音ミコの特大ポスター。ベッドの枕元を占領するデフォルメぬいぐるみ。そして棚に整然と並べられたフィギュアの数々。
そこには一軍陽キャの欠片もない、お手本のようなオタクの部屋が広がっていた。
「だ、大体予想はしてたけど……思っていた以上というか、凄まじいわね……」
「これが本当の俺だよ……とりあえずお菓子と飲み物持ってくるから、適当に待ってて」
「あ、うん。ありがと」
◇
キッチンでお盆にお茶とお菓子を載せ、急いで自室に戻ってきたとき、俺は心臓が止まるかと思った。
そこには本棚の前にしゃがみ込み、漫画の背表紙を眺めていた雪の姿。
「お待たせ――って、ちょっと待て! その本棚は!」
「ふぁっ!? か、勝手に見たりしてごめん! 変なところ触っちゃった!!?」
彼女は弾かれたように飛び退いた。
「その辺のライトノベルの奥には……雪様にとって非常にお見苦しい、男子高校生の煩悩の塊が隠れてたりするから……」
「な、なるほど……なんかごめん!」
雪は顔を真っ赤にして、気まずそうに視線を泳がせた。
「いや、いいんだ。学校の奴らには知られるわけにいかないけど、雪ならもう、今更いいやって感じだしな」
「何、それ」
雪は一瞬きょとんとした後、クスッと小さく笑った。その顔は、どこか少し嬉しそうに見えたり、見えなかったり。
「そんなことより! 浅川さんが貸してくれた限定CD、早く聴こうぜ」
「うん」
俺は学習机の奥からラジカセを引っ張り出し、借りてきたディスクをセットした。再生ボタンをポチッと押す。
イントロが流れた瞬間、俺は思わず床に正座して背筋を伸ばした。爽快感の中に切なさの漂う、繊細な電子音が部屋に響き渡る。
「ああっ、ミコ様……最高です……」
「……」
恍惚の表情を浮かべているであろう俺を、絵に描いたようなジト目で凝視してくる雪。だがそんなの関係ない、ミコ様の曲の前では。
やがて、きれいにフェードアウトして再生が止まる。
「やっぱ神アレンジだったわ……! 冬っぽい雰囲気のシンセの使い方が天才すぎる!」
「うーん……今までボーカロイドってちょっと敬遠してたけど、意外と歌声可愛いかも。メロディーも綺麗」
「えっ!? ボカロの良さを分かってくれる!?」
「あー……まあ、ちょっとね」
雪の意外な高評価に、俺のオタク魂が限界突破した。
「頼む、雪! ぜひヘッドホンでもう一回聴いてくれ! 音の広がりとか立体感とか全然違うから!」
「え、ちょっと……」
俺は半ば無理やり、雪の頭に愛用の大型ヘッドホンをガポッと被せた。音量を少し調節して、再び再生ボタンを押す。
ヘッドホンから漏れる微かな音に合わせて、雪の肩が小さく、意外とノリノリに揺れ始めた。じっくりと音の世界に没頭しているようだ。
曲が終わり、雪がヘッドホンを外す。
「どうだった!?」
「……うん。ちゃんと集中して聴くと、音楽としての完成度がすごく高い感じがする。ベースの動きとか、コーラスのさりげない重ね方とか、好きかも」
「ゆ、雪ぃぃぃ……!!」
俺は猛烈に感動し、思わず雪の両手をガッと勢いよく掴んだ。
「!!?」
「そこに気付くとは……! 雪、お前ミコラーの才能めちゃくちゃあるよ! 逸材だよ!」
「ちょ、ちょっと離して! オタクの悪いトコ出てるから!」
顔を真っ赤にした雪に、手を振りほどかれる。
「あ、ごめんごめん。つい熱くなっちゃって」
「まったく、これだからオタクは……」
手首をさすりながら、雪はぷいと横を向いた。その様子を見ていたら、ふと昼休みにずっと引っかかっていた疑問が口をついて出た。
「そういえばさ。今日の昼、玉子焼きを『あ〜ん』ってしてくれたけど……あれって何か深い意味が……?」
「!!?」
雪の顔が、今度は耳の先まで一瞬で沸騰したように真っ赤に染まった。眼鏡の奥の瞳を限界まで見開いて、わたわたと両手を振る。
「あ、あれは! 聡太が浅川さんと私の知らない話で盛り上がってたのが癪だっただけ! 別にそれ以外の深い意味なんて絶対に無いから!」
「だ、だよな! 変なこと聞いてすまん!」
俺も慌てて頭をかく。冷徹な脅迫者の雪が、ここまで必死に弁明してくる姿は珍しかった。
「えっと……じゃあさ。もうちょっとカップルっぽく見えるような練習でもしとく?」
「練習って??」
怪訝そうな視線を向ける雪に、俺はお盆から摘み上げたスナック菓子を差し出した。
「ほら、あ〜ん」
「!!??」
今度は雪が完全にフリーズした。
まさか自分がやり返されるとは思っていなかったのだろう。視線を激しく彷徨わせ、胸元で手を小さく泳がせながら、蚊の鳴くような声を出した。
「あ、あ〜……ん」
おずおずと開けられた小さな口に、スナック菓子を放り込む。
指先を引く瞬間、ほんの一瞬だけ、雪の柔らかい唇が俺の指に触れた。
(うっ……か、可愛い……っ!)
想像を遥かに超えていたその破壊力に、俺の胸がドクンと大きく跳ね上がる。指先に触れた雪の唇の温度が、まるで焼き付いたかのように離れない。
息が詰まるような沈黙が、部屋の中に満ちた。お互いに顔を見られず、無言のまま床の一点を見つめる。
「ご、ごめん。ちょっと調子に乗ったかも……」
気まずさに耐えかねて謝る俺に、雪は俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……もっと」
「えっっ??」
「一回じゃ練習にならないでしょ。ほら……早く」
雪は顔を真っ赤にしたまま、再び小さな口を「あ〜ん」と開けて待っていた。
おいなんだよ、このカワイイ生き物は。
今にも破裂しそうな心臓の鼓動をなるべく気にしないようにしつつ、俺は雪の口へと再度スナック菓子を放り込んだ。
ぎこちない”練習”は、それから何度か続いた。
あ~んの練習をしたり、されたりを繰り返し、やがて菓子が空になる頃。雪は小さく息を吐いて立ち上がった。
「そろそろ帰る」
「そ、そうだな。もうすぐ母さんも帰ってくるし……あ、近くまで送るよ」
「い、いらない! 変な気回さないでいいわよ、近所だし!」
雪は慌ててカバンを抱え、逃げるように部屋を出て階段を駆け下りていく。俺もその後を追った。
玄関先で靴を履き、ドアを開けたところで、雪は一度だけ振り返った。意図的に張り付けたかのような無表情で、ぽつりと言う。
「……今日、楽しかった」
「え?」
「また学校で。それじゃ」
それだけ言い残すと、バタンとドアが閉まった。
◇
自室のベッドに倒れ込み、俺は天井にかざした自分の右手の指先を見つめていた。
さっき触れた、雪の唇の柔らかい感触が鮮明によみがえる。
(いや、ドキドキしすぎだろ俺……! 騙されるな、相手はあの折尾雪だぞ……!)
恥ずかしさと混乱が限界を迎え、俺は枕に顔をうずめて足をバタバタと暴れさせた。偽装彼女のはずなのに、頭の中が完全に雪のことで支配されている。
そのとき、机の上のスマホがブブッと震えた。浅川花からのLIMEだった。
『聡太氏! 例のブツ、お聞きになりましたか?』
いつもの俺なら「神アレンジ最高だった!」と光の速さで長文を返していただろう。だが今は、どうしても文字を打つ手が動かない。
画面を閉じ、スマホをベッドに放り出す。
今はまだ、浅川さんとミコの話で盛り上がるよりも――雪と過ごした時間と、指先に残る熱の余韻に、もう少しだけ浸っていたかった。




