22話 終わった契約、消えた居場所
偽装恋人を解消した次の日から、学校での私は文字通り誰とも口を利かなくなった。
聡太は諦めずに話しかけようとしてきたけれど、私は彼を見ようともせず、一方的に拒絶し続けた。
これでいい。これで元通り、私は彼にとってただの背景になれるんだ。
ある日の昼休み。
私はいつも通り、図書室前のベンチでお弁当を食べ終えた。例のごとく、残りの時間は女子トイレの個室にこもってやり過ごそうと立ち上がった、その時だった。
「これはこれは雪氏! 今日は聡太氏は一緒じゃないでござるか?」
廊下の向こうから軽やかな足取りでやってきたのは、浅川さんだった。
無邪気に笑う彼女の顔を見た瞬間、体育館裏で聡太に浴びせた酷い言葉が脳裏をよぎる。
「何やら元気が無いでござるな。聡太氏と喧嘩でもした?」
「……聡太との関係は、もう終わりました」
「な、な、なんと!!?」
浅川さんは大袈裟に目を丸くして驚いた。
「最初から、聡太と私じゃ、全然釣り合ってなかったんです」
俯きながら、自分に言い聞かせるように呟く。完璧な一軍のガワを手に入れた聡太と、ただの根暗な陰キャの私。それが本来の正しい形に戻っただけ。
「そんなこと無いと思うなぁ。雪氏はカワイイし」
「お世辞はいいです……」
「それに、聡太氏は雪氏にベタぼれだったではござらんか。拙者には分かるよ~!」
ベタ惚れ? そんなわけない。あれは全部、彼が偽装彼氏を完璧に演じていただけ。
中学時代の卒アルを利用した私の脅しで、カモフラージュの契約を全うしようとしてくれていただけだ。
そんな事情を知らない外野から見れば、聡太が私にベタ惚れだと映るらしい。笑い話もいいとこだ。
「分かった風に言わないでよ!!」
自分で思っていたより大きな声が、その場に響き渡った。
浅川さんが言葉を失って私を見つめる。その表情を見て、私はすぐに激しい自己嫌悪に襲われた。
「あ……わ、大声出してごめんなさい……っ」
「……聡太と何があったの?」
いつものふざけた口調とは違った、真剣なトーンで問いかけてくる。
「別に、なにもないです」
「でも――」
「お願いだから、私たちのことは放っておいて下さい!」
それだけを必死に絞り出し、私は彼女から逃げるようにして、その場から走り去った。
廊下を走る足音が虚しく響く。誰かの優しさに触れるたび、自分がどんどん嫌な人間になっていくようで、それが嫌で私はただ前だけを見て必死に走り続けた。
◇
別の日の昼休み。私はまた、教室の喧騒から逃れるように女子トイレの個室に引きこもっていた。
薄暗い空間で背中を丸めていると、不意に数日前に聞いたあの声が響いた。カースト上位ギャルの千代ケ崎さんと、その友人だ。
「そういえば千代ケ崎、本城君どうなったの? あの陰キャちゃんから奪えそう?」
私は息を殺し、彼女たちの会話に耳を傾けた。
「あーそれね。なんかもう醒めたからいいわ」
「へー、千代ケ崎が諦めるなんて珍しいね。もっとグイグイ行くと思ってた」
「本城君、愛しの陰キャちゃんにベタ惚れみたい。付け入る隙無いっぽいわ」
「折尾さんだっけ。あの子、乳だけは無駄に立派なモンぶら下げてるもんね」
「それな! やっぱ男ってああいう子好きだよね、マジウケる」
ケラケラと軽い笑い声が、個室の天井を通ってダイレクトに私の鼓膜をざわつかせる。
「ぶっちゃけもう本城君はどうでもいいんだけどさー……。あの陰キャちゃんに負けたみたいな感じになってんのが、マジでめちゃくちゃ癪なんだよね」
千代ケ崎さんの声のトーンが、一瞬低く変わったのが分かった。個室の中、私は震えそうな自分の身体を両手で縮こまらせる。
「ちょっと、ダメだよー悪い事考えちゃw」
「分かってるよ。目立つような事はしないからw」
どこか粘着質な含み笑いを残して、千代ケ崎さんたちはトイレから立ち去っていった。
静まり返った個室の中で、私はガタガタと震えが止まらなくなっていた。
聡太が私にベタ惚れなんて、そんなのは千代ケ崎さんの勘違いだ。だけど一軍ギャルのプライドを傷つけてしまった代償は、あまりにも大きすぎた。
(目立つような事はしない、って……何しようとしてるの……?)
誰もいない暗がりの底に、一人でいるかのような恐怖を感じる。これから起こるかもしれない何かに怯えて、私は身をすくめることしかできなかった。
◇
それは、朝の下駄箱から始まった。
自分の上履き入れの奥に手を伸ばすと、指先に変な感触。見ればくしゃくしゃに丸められた使用済みのティッシュや、スナック菓子の空き袋が乱雑に放り込まれていた。
(……あぁ、なるほどね)
誰の仕業か、何となく察しはついた。
一軍ギャルが仕掛けてくる嫌がらせにしては、内容が意外とショボくて拍子抜けした。これではまるで小学生の嫌がらせだ。
ゴミ箱に捨ててしまえば何てことはない。私は教室へ向かう途中で図書室に寄り、そこのゴミ箱へとゴミを放り込んだ。
◇
そんな地味な嫌がらせが数日続いた、ある日のこと。
六時間目の授業が終わり、あとは放課後のホームルームを待つだけという時間帯。周囲が帰る準備でざわつき始める中、私の机に近寄る影があった。
「ねえ、折尾さん」
びくっ、と身体が過剰に跳ね上がる。
見上げると、そこには長い茶髪をいじりながら笑顔を浮かべる、千代ケ崎さんの姿があった。
「たまには私とも遊ばない?」
「えっ……」
予想だにしない言葉に声が裏返る。声は軽いが、彼女の目は全く笑っていない。
「ホームルームが終わったら、三階の空き教室に来てね」
「あの、私、用事が……」
「まさか断らないよね? そうなったら私、寂しくて死んじゃうよ~」
語尾にハートマークでもつきそうな口調。だがその奥にある威圧感に、私は言葉を失った。
「じゃあ、あとでね」
千代ケ崎さんはひらひらと手を振ると、自分の席へと戻っていった。
ショボい嫌がらせの期間はもう終わりらしい。彼女が言うところの『目立つような事はしない』の本番が、これから始まるのだ。
◇
ホームルームが終わり、先に教室を出た千代ケ崎さんの後を追うようにして、私は少し遅れて三階へと向かった。
階段を上る一歩一歩が重く、まるで処刑台へ向かっているかのような錯覚に陥る。
目的の空き教室の前で足を止め、震える手で引き戸を開けた。
静まり返った教室の窓際に、千代ケ崎さんが一人で立っていた。彼女は私を見ると、いかにも楽しげに口元を歪めた。
「折尾さん、やほ~」
恐怖で私の喉は完全に固まり、上手く声が出ない。そんな私の様子を見て、千代ケ崎さんはわざとらしく肩をすくめた。
「私、折尾さんとお話したいだけだよ? そんなにビクビクされて傷つくわ~」
ゆっくりと距離を詰めてくる千代ケ崎さん。その目が、餌を前にした蛇のように私を値踏みしてくる。
「折尾さんさあ。その立派なモノ使って、本城君とどこまでいったの?」
下品な笑みを浮かべながら、千代ケ崎さんが人差し指を私の胸元へと伸ばしてくる。ツン、と突つかれそうになった瞬間、私はゾッとして咄嗟に身をよじった。
「聡太とは、私、なにも……っ」
「へー、名前で呼び合ってんだ。だよねー、彼氏彼女だもんね~」
その言葉の端々に、隠しきれない棘と嫉妬が混じる。私は恐怖に耐えかねて、一歩だけ後退した。
「もう……帰っていいですか」
「あ~ハイハイ。じゃあもうハッキリ言うね」
千代ケ崎さんの顔から、一瞬で笑顔が消え失せた。
「お前みたいなドブスの陰キャが教室で彼氏に発情してんの、見てるこっちが不愉快なんだわ」
剥き出しの悪意が、容赦なく私に突き刺さる。その言葉の暴力に、視界が急激に歪み、声の伴わない涙が一気に溢れ出した。
「そうやって弱々しい雰囲気出して男の気を引いてさあ」
全身が震える。
「小さくてか弱いアタシを見て~、みたいな? そうやって男ウケ狙ってんの普通にゲロキショいよ」
頭の中が固まる。
「お前のそういうとこ、マジでキモいしムカつくんだよ」
千代ケ崎さんの声と圧迫感に、私の身体は完全にすくみ、床に視線を落として震えることしかできなかった。
その時。
――ガララッ!!!
激しい音を立てて、空き教室のドアが勢いよく開け放たれた。
「「!!」」
私と千代ケ崎さんは同時にドアの方を振り返る。
鋭い眼差しでこちらを睨みつける、一人の男子生徒。
「雪……ッ!!」
必死な形相の本城聡太が、肩を大きく上下させながら、そこに立っていた。




