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21話 陰キャの強がり、契約終了通告

 六限目の授業が終わり、一日の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 教室の空気が放課後の解放感に包まれる中、私は大急ぎでカバンの中に荷物を詰め込むと、喧騒から早く逃れるように席を立った。

 頭の中では、昼休みに渡り廊下から見たあの光景が焼き付いて離れない。聡太と千代ケ崎さんが笑い合っていた、あの中庭の冷たい現実が。


「雪、帰ろうぜ」

 不意に、後ろからいつもの声が降ってくる。

 振り返ると、カバンを片手に持った聡太が立っていた。クラスの連中に見せるための、いつも通りのガワを被った笑顔。

 今はその顔を見るだけで、昼間の嫉妬とみじめさが胸の奥からせり上がってきて、私は思わず視線を背けた。


「一人で帰って」

 努めて冷淡に、突き放すような声で。

「どうした、何か用事でもあるのか?」


 聡太は不思議そうな顔で私のことを見てくる。その視線が今の私には眩しすぎて、そして苦しすぎて、耐えられなかった。

 千代ケ崎さんと楽しそうに話していた彼が、今は私の前で偽装の彼氏を演じている。そのギャップに、心が引き裂かれそうになる。


「別に。図書館でゆっくり本でも読みたい気分なだけ。だから、先に帰って」


 早口でそれだけ言い残すと、私は聡太の返事を待たずに早足で歩き出した。

「分かった。じゃあまた明日な」


 後ろから聞こえた聡太の声は、いつもより少しだけ寂しそうに響いた気がした。けれど、今の私にはそれを確かめる勇気なんてない。

 ただのカモフラージュの関係なのに、こんなに感情を揺らしてしまう自分が嫌だ。

 それから私は逃げるようにして、一人きりで図書室へと向かって歩き出した。



 帰宅後。

 お風呂から上がり、部屋の明かりを消してベッドに横たわる。

 静まり返った暗闇の中で、スマートフォンの液晶画面だけが煌々と灯っている。

 画面に表示されているのは、聡太とのLIMEのトーク画面。

スクロールすれば、プールや同人誌イベント、そして夏祭りの時のやり取りなど、思い出がいくらでも出てくる。

 それらすべてを消し去るように、私は震える指先で文字盤を叩いた。


雪『聡太』


 ――偽装恋人の契約、今日で終わりでいいよ

 メッセージ画面にそう打ち込む。後は送信ボタンを押すだけだ。

 一度送ってしまえば、もう後戻りはできない。

 千代ケ崎さんの言葉が、中庭での二人の笑顔が、どうしても頭から離れない。あんなに可愛い一軍の女の子が聡太を狙っている。ただの陰キャの私の一方的なワガママで彼の隣を占領し続けるなんて、やっぱり間違っている。

 これ以上一緒にいたら、私の心が本当に壊れてしまう。

 私は迷いを振り切るように、送信ボタンを押した。


 画面の向こうで、驚くほど速く既読がついた。


聡太『いきなりどうしたんだよ』


 すぐに返ってきた短い言葉に、胸がキュッと締め付けられる。

 どうしたんだよ、なんて。そんな優しい言葉を向けないでほしい。

 私は最悪のコミュ障で、嫉妬深くて、自分のことで手一杯な面倒くさい人間なんだから。


雪『今まで私のワガママで聡太を振り回してごめん』

雪『卒アルの秘密は守るから安心して』


 彼がひた隠しにしている過去。それを盾にして、横暴にも彼を縛り付けた数ヵ月。本当に、折尾雪という女が嫌になる。

 すると突然、着信音が静かな部屋に鳴り響いた。切り替わった画面には『本城聡太』の文字。


「……っ」


 出られるわけがなかった。彼の声を聞いてしまったら、引き止められてしまったら、私の決意なんて一瞬で吹き飛んでしまう。

 私は鳴り続けるスマホをベッドに伏せ、耳を塞いだ。

 やがて、長い長い着信音が止む。

 私はもう一度スマホを手に取ると、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、設定画面を開いた。


 本城聡太の名前を選び――『ブロック』をタップする。

「……これで、全部終わり」


 画面を閉じ、スマホを机に伏せて置いた。

 明日からの学校がどうなるか、クラスでどんな噂をされるか、そんなことはどうでもよかった。ただ胸の奥が、今まで経験したことがないくらい冷たくて、張り裂けそうなほど痛かった。

 私は枕に顔をうずめ、声を殺して、静かに泣き続けた。



 朝の教室。カバンから取り出した分厚い文庫本を開き、いつものように自分の周りに防壁を築く。目は活字の列を追っているが、その内容は驚くほど頭に入ってこない。

 登校時間が近づくにつれ、教室の人口密度が上がっていく。騒がしさが満ちていく中、私はさらに背を丸めた。


「おはよ、雪」

 聞き慣れた、けれど今は一番聞きたくない声だった。

 ビクリと指先が震える。私は本から目を離さないまま、生返事だけした。

「……ん」

 それ以上、聡太が言葉を重ねてくることはなかった。ブロックされたことについて問い詰められる覚悟はしていたのに。拍子抜けするほどあっさりと、彼の気配は後ろの方へと遠ざかっていった。


(……これで、よかったんだよね)


 契約は解除された。もう私たちは、ただのクラスメイトに戻ったのだ。

 そう自分に言い聞かせるけれど、しばらくすると後ろの席の方から、聡太が一軍グループと楽しげに話す声が聞こえてきた。

 千代ケ崎さんの笑い声も交じっているような気がして、胸の奥が冷たく軋む。


 何も、聞きたくない。

 私は無理やり意識を本の中の活字へと集中させた。一文字一文字を頭の中で大声でなぞるようにして、鼓膜に届く聡太の声を必死に掻き消そうとする。

 防壁の向こう側にある彼の世界から、私は自分という存在を完全に切り離した。



 昼休みのチャイムと同時に、私は誰とも目を合わせないように教室を抜け出した。

 図書室前のベンチで、味わうこともなくさっとお弁当を済ませる。その後は行く当てもなく、女子トイレの個室へと逃げ込んで、残りの時間をやり過ごすことにした。

 フタをした便器に座って、ただ時間の経過だけを待つ。ここなら、聡太と千代ケ崎さんの楽しげな声を聞かずに済むから。


 長い昼休みが終わり、予鈴が鳴るのを待ってから重い足取りで教室へと戻った。

 自分の席につき、机の中から筆記用具を取り出そうとした時――机の中の、紙切れの存在に気付いた。

 丁寧に二つ折りにされたその紙を、震える指で開く。そこには殴り書きのような、見覚えのある筆跡でこう記されていた。


『放課後、体育館裏で話そう 聡太』


 くしくも、それは一学期の初めに私が聡太を呼び出した時と全く同じ書き方、同じ場所だった。

 あの時は、彼の卒業アルバムの秘密を盾にして、私が無理やり偽装恋人の契約を結ばせたのに。

 何の用かは大体分かっている。ブロックされたことへの文句。あるいは今までありがとうのような、別れの挨拶かもしれない。


 いずれにしろ、行きたくない。怖い。

 けれど、あの始まりの場所で全部が終わるなら、それが私たちの正しい結末なのかもしれない。

 私は紙切れを小さく折り畳み、ポケットの奥深くへと押し込んだ。



 放課後を告げるチャイムが鳴ると同時、私は誰よりも早く教室を飛び出した。向かったのは体育館裏ではなく、校舎の隅にある女子トイレだった。

 洗面台の鏡の前に立ち、自分の顔をじっと見つめる。

 分厚い眼鏡の奥にある、生気のない瞳。もっさりとした黒髪。見れば見るほど嫌になる、絵に描いたような陰気臭い顔。

 千代ケ崎さんのような華やかなギャルとは、文字通り住む世界が違う。

 私はせめてもの抵抗として、指先で少しだけ前髪の分け目を整えた。どれだけ足掻いてもガワすら変えられない私にできる、精一杯の強がりだった。



 それから、わざと少しだけ時間をずらし、遅れて体育館裏へと向かう。

 建物の陰に入ると、そこには既に聡太が待っていた。壁に背を預け、どこか険しい表情で地面を見つめていた彼は、私の足音に気づいて勢いよく顔を上げた。


「……雪」

「お待たせ」


 一定の距離を保って足を止め、聡太の目をまっすぐ見据えた。

 彼に喋らせたら、きっと私の決意が鈍ってしまう。あらかじめ用意してきた言葉を、一気に捲し立てることにした。


「最初にここへ呼び出した時、聡太が言ったこと……覚えてる?」

「え……?」

「一軍の可愛い女の子と付き合って、キャッキャウフフな青春を送るのが夢だって、そう言ってたよね」


 私は胸の痛みを無視して、乾いた笑みを浮かべた。


「今の聡太ならできるよ。ガワだけじゃなくて、中身もちゃんと一軍の男の子になれたんだから。今まで私のワガママに付き合わせちゃって、本当にごめんね」


 言い終えて背を向けようとした私の腕を、聡太が強い力で掴んだ。


「待てよ」

「……離して」

「離さねえよ!」

「なんで!? 千代ケ崎さんと良い感じなんでしょ?」

「千代ケ崎? なんでそこでアイツの名前が出てくるんだよ」


 掴んだ腕にさらに力を込めた。


「昼休み、中庭で楽しそうに話してたじゃない」

「あ……っ、あれは別に大した話はしてなくて! 俺と雪の恋人生活の事とか、からかい半分で聞かれただけだよ」

「からかいでも何でもいいわよ! 聡太にはあっちの方がお似合いじゃない。私はただの地味な陰キャで、脅迫して隣にいただけ。聡太だって、本当は私なんかと一緒にいて、迷惑だったでしょ……っ!」

 思わず感情が昂り、叫ぶように本音をぶちまけてしまった。


「迷惑なわけねーだろ! 言ったろ俺、雪だから一緒にいて楽しかったんだって!」

 中学の図書室で私を見つけてくれた時のような、あの真っ直ぐな目が私を捉えて離さなかった。

 やめて。お願いだから、私にそんな優しい言葉を向けないで。

 これ以上優しくされたら、私の恋心が全部本物だってバレてしまう。引き返せなくなってしまう。

 そうなる前に私は、本当の気持ちを必死に押し殺し、最悪の嘘を口にした。


「私が迷惑なの!」

 違う。

「……」

 聡太が息を呑むのが分かった。けれど、もう止まれない。

「聡太みたいにチャラチャラした人が隣にいて、私も同類だって思われるの、偽装でも普通に不愉快だから」

 そんなこと、少しも思ってない。

「本当はずっと止めたかった。でも自分が言い出しっぺだし、どう言って関係を解消しようか悩んでたんだよね」

 心臓が痛い。胸の奥が引きちぎれそうで、涙が溢れそうになるのを、冷たい笑顔の仮面で必死に覆い隠す。

「ふー、やっと言えてスッキリした。そういうわけだから、今までありがと」


 掴まれていた腕を振り払い、私は後ろへ下がった。

 聡太の顔を見るのが辛くて、私は逃げるように背を向ける。


「ばいばい、聡太」


 二度と振り返らないと決めて、私は走り出した。

 校門までの道のりを駆け抜ける私の視界は、情けないほど涙で滲んでいた。

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