20話 夏休み明け、壊れそうな心
長い夏休みが終わり、今日から二学期が始まる。
部屋の姿見に映る自分は、いつもの地味な制服姿。もっさりとした黒髪に、自信なさげな猫背。分厚い眼鏡の奥の瞳は、どこからどう見ても冴えない陰キャそのものだった。
夏祭りの夜、コンタクトをつけて浴衣を着て、聡太の背中におんぶしてもらったあの時間。あれは全て、夏が見せた幻だったんじゃないかと思えてくる。
(……やっぱり、不釣り合い、なのかな)
本当の私はこんなに地味で。ガワとはいえ一軍としての位置にいる聡太の隣に立つ資格なんて、本当はこれっぽっちもないのかもしれない、と。
そんなことを、時々思う。
◇
いつも通り、誰よりも早く着いた教室。私は自分の席に深く腰掛け、防壁を作るように文庫本を開いた。
やがて時間が経つにつれ、生徒たちが次々と登校してくる。静かだった教室が、夏休みの思い出を語り合う騒がしい空間へと変貌していく。
その喧騒に耳を塞ぐように、私はさらに本の世界へ意識を沈ませた。
「うぃーす、おはよ」
聞き慣れた、少し高めの明るい声が教室に響く。
顔を上げると、髪をセットし適度に制服を着崩して陽キャのガワを纏った私の偽装彼氏が、ちょうど教室に入ってきたところだった。
聡太は一軍の男子たちと挨拶を交わしながら、私の席へと近づいてくる。
「おはよう、雪」
「……ん、おはよ」
いつも通りの、恋人としての短い挨拶。
聡太はすぐに教室の後方にある自分の席へと戻っていった。
彼の周りを一軍の男女が囲む。完全に陽キャとしての仮面を被った聡太は、一軍らしいトークに花を咲かせ始めた。
本の文字を追うフリをしながら、必死に後ろの会話に聞き耳を立てる。
「本城、夏休み何してたんだよー?」
「あー俺? ずっとダラダラしてたわ」
「折尾さんとはデートしなかったの?」
「あはは、まあ色々出かけたりはしたけどねー。そこは想像に任せるわ」
――それきり、私との話はほとんど出てこない。
プールに行ったことも、同人誌イベントで彼氏宣言をして守ってくれたことも、夏祭りの夜におんぶしてくれたことも。
それらは全部、偽装恋人としての出来事だから。
分かっている。カモフラージュを完璧にこなすためには、これが正解だ。
だけど、一軍の輪の中で器用に笑う聡太の背中を見つめていると、胸の奥がツンと痛んだ。
あの楽しかった夏休みは終わり、私たちはまた嘘の恋人という冷たい現実に戻されていく。
二限目と三限目の間の休み時間。
私は女子トイレの個室にいた。用を終え、ドアノブに手をかけたその時。外の洗面台の方から賑やかな笑い声が聞こえてきて、私は思わず動きを止めた。
「ねえ、夏休みどうだったー?」
その声の主を、私は知っている。クラスのカースト上位に君臨するギャルで、名前は確か千代ケ崎さん。一度も話したことはないけれど、教室でいつも騒がしくしている彼女の声は、嫌でも覚えてしまっていた。
「バイトばっかり。千代ケ崎は?」
「私? 彼氏と別れたー」
「え、あの隣のクラスのイケメン? ウケるんだけど」
早く出ていってほしい。そう願いながらドアの前に佇んでいると、千代ケ崎さんが信じられない言葉を口にした。
「でさー私、次のターゲット決めたんだよね。本城君にちょっかい出してみていい?」
「は? 本城君って、あの本城君?」
「そう。フツーに顔好みなんだよねー。ノリもいいし、クラスの男子の中だったら一番アリかなって」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「え、でも本城君って彼女いたんじゃなかったっけ?」
「知ってるよ。折尾さんでしょ」
ビクッと、身体が大きく跳ねた。心臓が雑音を立てて暴れ出し、冷や汗が背中を伝っていく。
「人の彼氏に手出すとか、千代ケ崎ヤバすぎでしょ」
「折尾さんなら良くない? あんな陰キャが彼女なら、ちょっと揺さぶれば一発でしょ」
「確かに。ぶっちゃけ本城君も無理して付き合ってあげてそうだしね?」
ケラケラとした笑い声が、狭いトイレ内に響き渡る。
呼吸が上手くできない。酸素が頭に回らなくなって、視界がぐらりと歪む。個室の壁に背中を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込みそうになった。
千代ケ崎さんたちの言う通りだ。私は地味で、根暗で、ただのコミュ障。
聡太が私と一緒にいる理由なんて、最初から偽装恋人の契約以外にない。もし一軍の可愛いギャルからアプローチされたら、聡太だって――。
女子たちの足音と楽しげな声が、遠ざかりながら消えていく。
静まり返った個室の中で、私は自分の胸元を、強く掻きむしるように握りしめていた。
◇
それからの授業の内容は殆ど頭に入って来なかった。半ば放心状態で黒板を見つめていると、気付いた時には授業が終わった。
昼休みの開始を告げるチャイムが教室に響き渡り、周囲がざわざわと色めき立つ。私は教科書類を乱雑にカバンへと押し込んだ。
さっきのトイレでの会話が、授業中もずっと頭の中で回り続けている。
『折尾さんだったら良くない?』
『あんな陰キャが彼女ならちょっと揺さぶれば一発でしょ』
耳の奥にこびりついた千代ケ崎さんたちの笑い声が、私の胸を容赦なく抉った。
「よっ、雪。お昼一緒に――」
いつものように聡太が私の席へと近づき、声をかけてくる。教室での彼の『一軍としての笑顔』が、今の私にはどうしようもなく痛かった。
「……私、図書室に本返しにいかなきゃいけないから」
聡太の言葉を最後まで聞かずに立ち上がり、突き放すような言葉を残して私は教室を飛び出した。
「え、あ、おい! 雪?」
後ろから呼びかける聡太の声を無視して、廊下を早足で駆け抜ける。
誰かと目が合うのが怖くて、ただ下だけを向いて足を進めた。
あのトイレのあとから、授業中も今も、ずっと胸が苦しい。
吸っても吸っても酸素が足りないみたいに、肺の奥がひどく冷たかった。
図書室で本を返した後、そのまま近くにある外のベンチに腰を下ろした。一人で食べるお弁当はいつも以上に味がしなくて、ただ栄養摂取のためだけに、機械的に淡々と口へと運ぶ。
食べ終えても、あの騒がしい教室に戻る気にはどうしてもなれず、私はボーッと空に流れる雲を眺めていた。
――その時、何か嫌な気配を察して振り向く。遠くから見覚えのある長身の人影が、こちらに向かって歩いてくるのが視界に入った。
黒崎杏。私に異常なまでの執着を見せる、浅川さんの友達だ。
とてもマズい。今彼女に見つかったら、またあのカワイイ攻撃の餌食になってしまう。しかも今日は、いつもストッパーになってくれる浅川さんの姿が見当たらない。
黒崎さんに気づかれないよう、私は慌ててその場から走り去った。
心臓をバクバクさせながら校舎の渡り廊下に差し掛かり、ここまで来れば大丈夫かと歩調を緩める。そこからは、一階の中庭がよく見渡せた。
そこで広がっていた光景を見て、私は全身に冷たい衝撃が走った。
中庭の自動販売機の前に立っていたのは、聡太。その隣で長い茶髪をいじりながら上目遣いで彼を見上げているのは――千代ケ崎さんだった。
二人の会話の内容までは聞こえない。けれど千代ケ崎さんが何かを言う度に、聡太の肩が楽しそうに揺れ、その口元が緩む。
二人とも、すごく親しげに笑い合っているように見えた。
本当に、私から奪うつもりなんだ。そして聡太も、あんなに楽しそうな顔を浮かべて……。
急に激しい目眩がして、渡り廊下の手すりにすがりついた。
呼吸が苦しい。胸の奥が引きちぎれそうに痛くて、視界が急激に歪んでいく。
(いやだ……。お願いだから、やめて……)
分かっている。聡太とはただの契約で、私は本当の彼女なんかじゃない。千代ケ崎さんが聡太にちょっかいを出そうが、私が口を挟む権利なんて最初から存在しないのだ。
それでも。奪われたくないと、彼の隣を誰にも渡したくないと思ってしまう。
聡太は、ただのカモフラージュの契約相手。そんなこと百も承知だ。
だけど、他の女の子に向けられる彼の笑顔を見た瞬間、私の心は完全に、嫉妬と絶望で壊れそうになっていた。




