19話 多分これは、夏の魔物のせい
鏡の中に映る自分は、まるで別の生き物のようだった。
母に手伝ってもらって着付けた、濃紺の生地に白い花柄が散らされた浴衣。普段は雑に下ろしている髪をアップにまとめると、首筋がすうすうして、なんだか落ち着かない。
(……これ、どうしよっかな)
机に立てた小さな鏡の前で、私はプラスチックのケースを見つめていた。
以前一度だけ試してみたものの、あまりの違和感に断念して引き出しの奥に眠らせていたコンタクトレンズ。消費期限は問題ない。
よし。悩むな、私。
意を決して、いつもの分厚い眼鏡を机の上に置いた。鏡とにらめっこしながら、慎重な手つきでコンタクトレンズを目に滑り込ませる。痛む目をパチパチさせながら、時間をかけてレンズを瞳に馴染ませた。
(……変じゃないかな。聡太、どんな反応するだろ……)
驚く顔が見たいような、やっぱり眼鏡のまま来ればよかったかなと後悔するような、複雑な気持ちのまま家を出た。
◇
待ち合わせ場所のコンビニに着いたのは、約束の三十分前だった。
早く来すぎた。慣れない浴衣は歩くたびに裾がはだけそうになるし、久々のコンタクトのせいで世界が妙に鮮明に見えて、かえって落ち着かない。
緊張のせいでじっとりとした汗が背中を伝う。耐えかねた私は、クーラーの冷気を求めてコンビニの中へと避難した。
涼しい空気を吸い込んでふぅと一息。なんとなく雑誌コーナーへと歩いていく。
すると、見覚えのある背中があった。
「あっ」
私の小さな声に反応して、その背中が振り返る。
「あっ……雪?」
そこにいたのは、いつもの陽キャらしい私服に身を包んだ聡太だった。
聡太は私を見るなり、驚いたように目を丸くして固まっていた。
「は、早く着いちゃってさ。時間潰そうと思って、雑誌読んでたんだ」
「わ、私も、同じ……」
いつもの黒縁眼鏡を取り払った私の顔を、聡太がまじまじと見つめてくる。その視線が痛いような、恥ずかしいような感じがして、思わず視線を床に落とした。
「ていうか今日、コンタクトなんだな。一瞬、誰か分かんなかったわ」
「……変じゃない?」
「なんていうか、新鮮だな。いつもの眼鏡に慣れてるからさ。でも、その……悪くない、と思うぞ。うん」
ぶっきらぼうに視線を逸らす聡太。
ちょっと早いけど移動しようぜ、と促され、私たちは共にコンビニを出た。
まだ完全に陽の落ちていない夕暮れ時。周りでは浴衣を着た人たちが、私達と同じように神社を目指している。
隣を歩く聡太の反応が物足りなくて、私は浴衣の袖を握りしめながら、ずいっと踏み込みながら問いかけた。
「……浴衣はどう?」
「え? ああ、似合ってる。いいデザインだな」
「可愛い?」
「か、かわいいぞ」
返ってきた言葉に胸が跳ねる。私は調子に乗って、さらに言葉を重ねた。
「髪は?」
「いつもの数倍気合入ってるな」
「可愛い?」
「……かわいい、です」
最後は敬語になりながら顔を赤くする聡太を見て、私の心臓も限界を迎えそうだった。
ああ、自分でも分かる。今日の私、いつもより大胆になっている。眼鏡を外したせいでそうなっているのか、華やかな浴衣がそうさせているのか。
あるいはこれが、夏の魔物というやつなのか。
我に返る。恥ずかしすぎて死にそうだ。でも、聡太の口から出る『可愛い』というワードが、もっともっと欲しくてたまらなくなる。
◇
やがて到着した神社は、すでに多くの人で賑わっていた。
立ち並ぶ屋台の灯りと、ソースや綿あめの甘い匂い。私たちはたこ焼きやリンゴ飴を買い食いしながら、境内の人混みを歩いた。
このお祭りデートは、聡太にとっては偽装彼氏としての義務感しかないかもしれないけれど。
私にとっては、隣に彼がいるというただそれだけで、世界中のどこにいるよりも楽しかった。
やがて完全に日が落ち、周囲のざわめきが一層大きくなる。間もなく今夜のメインイベント、花火が始まる時間だ。
「あっちの方少し空いてる、行ってみようぜ」
「うん……」
聡太の後ろをついて歩こうとした、その時だった。
浴衣姿の若い男女のグループが、賑やかな声を上げながら私たちの方へ歩いてくるのが見えた。
(……あっ)
心臓が冷たく凍りつく。
カラフルな浴衣に身を包んだ、クラスの一軍陽キャグループの面々。その中には、いつも聡太が一緒にいる男子たちの姿もあった。
「聡太……っ」
「げっ、やば……」
私の小さな悲鳴に、聡太も瞬時に身を硬くした。一軍グループはまだこちらに気付いている様子は無いが、ずんずんとその距離を詰めてくる。
「避難するぞ、雪」
有無を言わさず、聡太は私の手を引いた。賑やかな参道から外れ、周囲に木々の生い茂る小道へと退避する。
草の匂いが鼻をくすぐる。少し進んだところで足を止めると、陽キャたちの笑い声が遠ざかっていくのが聞こえた。
「ふぅ……危なかったな」
「びっくりした……」
激しいリズムを刻む心臓を落ち着かせながら、私は小さく息を吐いた。視線を上げると、木々の隙間からわずかに夜空が見えるばかりで、花火を見るには最悪のロケーションだった。
「確かこの先、ちょっとした丘になってたはず。そう遠くないから歩こうぜ」
「ん、わかった」
聡太の言葉に頷き、再び歩き出す。けれど数歩進んだところで、右目にゴロゴロとした違和感が走った。何度か瞬きをした瞬間、視界の右半分が急にぼやける。
「あ……聡太、待って」
「どうした?」
「コンタクトレンズ……片っぽ落ちちゃったかも」
「マジかよ……いつもの眼鏡は?」
「家に置いてきちゃった……」
「マジか……」
聡太は困ったように天を仰いだ。私は片目の焦点が合わないせいで遠近感が掴めず、その場でフラつきそうになる。
「転ぶといけないから。ほら」
目の前に、聡太の手が差し出された。
「……うん」
その手を、ぎゅっと握り返す。
繋いだ手から伝わってくる聡太の体温が温かくて、それだけで私は、ぼやけた視界の恐怖などどこかへ吹き飛んでしまう。
手を繋いだまま丘を目指して歩いていると、遠くで大きな音が轟いた。
「やべっ、花火始まっちゃった! 急がないと」
「待って、私いま早く歩けな……」
「雪、背中乗れ。おんぶしてやるから」
「え、ええっ!?」
突然の提案に耳を疑う。けれど聡太は私の前に背中を向け、すでに深く屈んでいた。
「急がないと丘に着く前に花火終わっちゃうから。ほら、早く!」
「わ、わかった……」
焦る聡太に促されるまま、その背中に恐る恐る体重を預けた。首に腕を回すと、聡太が私の身体をひょいと持ち上げた。
――ドンッ! ドンッ!
遠くの方から、連続して打ち上がる花火の音が響く。
と同時に、私の胸におかしな物が芽生える。
その原因は、夜の祭りの圧倒的な高揚感。そして何よりも……背中越しに感じる、好きな人の体温と、ほんのり香ってくる匂い。
色んな感情が頭の中でぐるぐると渦巻いて、私の胸は千切れそうな程に締め付けられた。この鼓動が聡太の背中に伝わってしまっているんじゃないかと不安になる。
私は彼の肩口に顔を埋め、消え入りそうな声で呟いた。
――――――好き。
完全に、無意識に出てしまった言葉だった。
私の声とほぼ同時、夜空に一際大きな花火が弾けた。
「ん? なんか言ったか、雪?」
「……何でもない」
聞こえなくてよかった。そう安堵すると同時に、ほんの少しの切なさが襲った。
「よし……っ、着いたぞ」
聡太が私をそっと地面に下ろした。
そこは、誰もいない静かな丘の上だった。遮るもののない夜空に、色鮮やかな花火が美しく咲き乱れている。
「きれいだな」
花火を見上げる、聡太の横顔。
キラキラとした光の粒をその瞳に映しながら、少しだけ口元を緩ませている。
目の前では花火が次々打ち上っているというのに。私は聡太の横顔から、どうしても目を離すことができなかった。
やがて盛大なフィナーレの後、最後の煙が夜の闇へ溶けていき、辺りに静けさが戻った。
私たちのいる場所には、虫の声と祭りの喧騒が、わずかに聞こえてくるばかりだ。
「……帰ろうか」
「もうちょっとだけ、一緒にいたい」
引き止めるような私の言葉に、聡太が驚いたようにこちらを見た。
ほぼ無意識に出てしまった自分の言葉の意味に気付き、私は慌てて手を振る。
「ち、ちがっ、変な意味じゃなくて! 慣れない浴衣で歩き疲れたから、少し休んでから行きたくてっ!」
「……お前、ずっと俺の背中にいただろ」
「うるさいっ!」
ニヤニヤと笑う聡太から逃げるように、私はぷいっと顔を背けた。
◇
家に帰り、お風呂から上がって部屋着に着替える。
いつもの分厚い眼鏡をかけると、見慣れた視界が戻ってきた。やっぱり私は、コンタクトレンズよりこっちの方が落ち着く。
「……はぁ」
繋いだ手の感触も、おんぶされた時の背中の熱も、全部がまだ肌に残っているみたいに熱い。
私はそのままベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめた。
「好き、好き!!! 大好き!!! 早く気付け、バカ!!!」
心からの叫びは、枕が全て吸い込んだ。
間もなく夏休みが終わりを迎える。甘くて苦い夏の思い出と共に。




