第九十五服 忘己利他
「留学…!?」
「いやー…まだ軽く話しただけなんやけど」
寺崎は頬をほんのり染めて首元をポリポリと掻いた。
話によると、最近、海外のグルメ系インフルエンサーがたまたま美代子さんの店をSNSで紹介してから、外国客がたびたび訪れるようになったという。
基本的には常連客の予約で賑わっている店なので、そうやって一見さんの外国客を門前払いするのは心苦しいうえ、本当はもっといろんな人に店に来て、ここの料理を楽しんでもらいたい。
加えて、予約が少ない日にいざそうしたお客さんが来店してくれたとしても、小料理屋やおばんざいという京都の食文化をうまく伝えられないことに歯痒い思いをしているのだとか。
「京都の家庭料理って、独特やん。
あと町屋の文化も。
せっかく興味持ってくれてはるのになってさぁ」
「でもテラって別に英語苦手じゃねぇよな?」
「いや、学校で習った英文法なんて、ほとんど役に立たへんもんやなぁって…心底思い知らされてん」
そしてそれ以上に、日本文化に興味を持つ海外の人たちと、もっとたくさん交流してみたいという気持ちになったらしい。
店に進んで立つようになってから見えた新しい気づきや景色。
そして芽生えた、その次の扉を開けたいという気持ち。
「テラ、まじカッケェな!」
全く新しい環境に飛び込むのは勇気のいることだ。言語も違う、知り合いもいないところなら尚更に。
その選択肢を自分の中で作れる寺崎を心から尊敬する。
「いや、だからまだそんな本格的に考えてるわけやなくて…」
「何言ってんだよ、絶対それ行くべきだろ!
留学先どこ考えてんの?!」
「碧…!しーっ!」
寺崎はきゅっと瞼を縮めて、人差し指を口元で立てた。
「え?なに?」
「うちの店、繁盛してるとは思うねんけど…。俺を留学に出せるほど多分金ないと思うんやよね…」
…。
そうか。
それで寺崎はこの話をすることに逡巡したのか。
相変わらず思慮の浅い自分に腹が立つ。
「まぁ、母さんは賛成してくれてんねんけどな。
でも口には出さへんけど、やっぱりお金の心配はしとるみたいやし…」
「そっか…奨学金みたいなの調べてみた?」
「あれって学年トップくらいの成績ないとあかんのやろ?流石に無理やて…」
「やる前から諦めんなって!」
いや、どの口が言ってんだ。この間まで目の前のことから逃げようとしていた奴が…と自分にツッコミを入れたくなるが、今のところ寺崎に提案できるものは、それしかない。
「そやな…。
ありがとう。ちょっと調べてみるわ!」
寺崎のそれは空元気に見えた。
やっぱり誰の力にもなれない自分がそこにいる。
「つうか、碧こそなんか考えてんのかよ?
自分からそんな話してくるの珍しいやんか」
「あー俺っていうより、今は光瑠のことがちょっと気になっててさぁ」
* * *
「…なるほどねぇ」
寺崎は、話している間に美代子さんが持ってきてくれた玉蜀黍と枝豆のかき揚げをうまそうに食いながら頷いた。
あまり人のプライベートをベラベラと話したくはなかったが、信頼のおける寺崎ならと、光瑠のこれまでのことについてなるべく順序立てて話した。
「で、碧は光瑠のことについて何悩んでんの?」
寺崎はしばらく考えた後、箸を置いてそう言った。
「え?え〜っと…」
確かに、この話の論点はなんだ?
光瑠の「高校卒業したらじいちゃんの窯を継ぎたい」という想いに反対する父親への説得材料として、「まずは美大や芸大で学んでみてはどうだ?」という案が茶道部内で上がったが、当の本人は乗り気ではなさそうだ。
「気が進まない理由が何なのかわからないまま、書道家の人を紹介しても迷惑かなって思ったからかな…」
その時、頭の中で辿った光瑠とのやりとりに、ちょっとした違和感のフラグが立った。
「いや、光瑠はじいちゃんの後を継ぎたいとは言うし、焼き物がすごい好きなのは伝わるんだけど…。
陶芸家になりたいって言葉を聞いたことねぇんだよ…だからひょっとして…」
そうなのだ。
光瑠は、焼き物の話は楽しそうにするのに、自分のことは半人前だとか、自分が焼いたものはあまり見せようとしない。
下絵付けの時は目の前でサラサラと描いていたが、創作しているというより、教科書通りの絵を描いているようだった。
「あ、でも後を継ぎたいってことは陶芸家になりたいのと同義なのかな…」
ぶつぶつと呟いていると突然バシンと背中を叩かれた。
寺崎はニヤッと笑って、口の中いっぱいに頬張ったおかずをごくりと飲み込むと
「碧、お前成長したなぁ。俺は嬉しいよ」
「え…!?」
「碧がそんなふうに人のこと気にかけて悩んで、理解したいって思うなんて…!
前まで周りのことなんて我関せずだったヤツがぁ」
寺崎はそう言って、手首を目に押し当てて涙を拭うふりをした。
「おい!失礼だな…そんなこと…」
あるか…。
うん、寺崎の言う通りだ。
「ま、冗談は置いといて…。
まぁ、そんなんはっきり聞いたらええんちゃう?」
(え〜…聞けない雰囲気だから寺崎に相談したのに…)
すると寺崎は碧の鼻を指先でツンと突いた。
「ええか碧、よう聞け。
お前はそうやって光瑠に気を遣っていると見せかけて、自分を守ってるだけや」
!?
「下手な質問して、光瑠が傷付いたらどうしようとか、思ってんねやろ。
それはちゃうねん。
正面からぶつかって、本音で語り合うのが怖いんや。
自分が加害者みたいな立場になったら嫌やからや」
「…」
「大丈夫やって。
相手のことを真剣に考えた思いとか言葉に、棘なんてついてへんのやから、傷つくわけないやろ」
寺崎は意外と詩人だなと感心する。
それと同時にまた、自分の幼稚な部分を言い当てられた。
その通りだ。
これまで自分がくさくさしていた時、光瑠や八百屋の親父さん、美代子さん、フジ先生に言われた言葉に、棘のついたものなんて一つもなかった。
痛いと感じたのは、その言葉に自分で棘をつけたのがブーメランのように返ってきたからだ。
「さっきだって、俺にちゃんと言うたやん。
『やる前から諦めんな』って」
「あ…」
「あいつやったら、お前の言葉がどういう気持ちから出てきたもんなんか、ちゃんとわかってくれるって、それに…」
寺崎は、ププっと手で口を覆って思い出し笑いを堪えたようだった。
「あん時お前に嫌われんの覚悟で、あんなこと言うたヤツやで。
まぁ結局殴られよったけどな!」
あぁ、そういえば光瑠のこと思いっきり殴ったよな。
自分の格好悪い激昂を思い出して耳が熱を持った。
あの時の光瑠はそこまで考えて言ったのかどうかはわからない。ただ、咄嗟の言葉は、俺のことを想ってのことだったのが今になってはっきりと感じ取れる。
今回も寺崎に助けられた。
自分の言動に自信が持てなかったし、実際あいつのためになっていない気もするけど…。そもそも、そういうことじゃない。
ふと延暦寺の大僧正の言葉を思い出した。
『忘己利他』
他者の幸せのために、自分がやれるだけのことをやる。
目の前の親友は、すでにこの思想が備わっているように思えた。
「テラ、ありがと。
やっぱテラに話してよかった。
あと、お前の角煮めっちゃうまい」
「お前のそういう素直なとこ好きやで」
「ぇえ?!恥ずいこと言うなよ」
「照れんなよぉ。
うまい飯作れて、俺いい嫁になれると思うで?」
ニンマリと笑う寺崎の目元も口元も、これまでと同じように、ずっと優しさで溢れている。
「つうか、そうだ、香川の計画立てようぜ」
「お、そうだった!まずは行き方…」
スマートフォンを開いて、親父が撮影しているという醤油蔵の住所をマップに打ち込もうとしたその時、店の扉がガラガラと音を立てて開いた。
「あれ?碧くん?」
つい最近聞いたばかりの声が、後ろから聞こえてきた。
「え、雀雲さん!?」




