第九十四服 小料理屋『美代』(キャラクターイラストあり)
「ちわーっす。テラぁ〜入っていー?」
小料理屋『美代』の扉を開けると、艶々とした大ぶりの豚の角煮が盛り付けられた大皿が、カウンターの上に据えられているのが見えた。
いい香り…。
出汁と醤油と味醂がしっかり染み込んでいるのがよくわかる。
茶色く染まった卵も添えられており、口の中に唾液が溜まっていくのを感じた。
他にも青菜のおひたしや、人参と玉蜀黍を和えたもの、茄子やオクラが盛られているのが見える。
「うーっす碧。いつもの席に座っとってー。すぐ行くわ」
奥の洗い場に掛けられた暖簾からひょっこりと顔を出した寺崎は、いつもの爽やかな笑顔を向けた。
カウンターの端の席に座ると、入り口の脇に掛けられた一幅の掛け軸が目に入った。
こんなところにお軸なんてあったのか…。
柳の木の下に二羽の鶉が描かれている。
花鳥図の中でも古くから平和や安らぎを願って好まれてきた画題で、ふっくらとしたその姿はまさに安寧の象徴だ。
この店が、客にもたらす癒しを願って美代子さんが選んだのだろう。
棚には撫子の花が生けられていた。
やはり茶を始めてからは、視界に入るもの、耳に入る音、感じる香り、そしてそれらの捉え方がまったくちがう…。
昨日あの後、図書館で茶について頭に入れてきたことが、自分の周りのあらゆる場所に散りばめられている。
「お待たせ〜!今、ババ…母さんが米よそって持ってきてくれるから、先におかずつまんでよーぜ」
洗い物を済ませて表に出てきた寺崎は、今日は鼈甲色の絽を着て襷掛けをしていた。
「テラ、最近着物着て店立ってんの?キマってんじゃん。もう大将風だな」
「せやろ〜?客のオネェさん方から評判で、最近これやねん」
「オネェさん?」
ハハっと苦笑いした寺崎は、早く食おうぜと言いながら、脇に積んであった皿をとって、角煮や野菜を菜箸でパパッと盛り付けた。
目の前に置かれた皿は深い緑色の釉薬がとろりと光っていた。独特の渋い錆びたような緑色…。
「あ、これ…美濃焼?ひょっとして織部?」
昨日は焼き物の本も少し覗いてみた。その中にあった器の写真が、頭の中に残っている。
「えぇ?オリベ? ちょっとわからへん…。ババァが来たら聞いてみればええんちゃう?
あいつがそれやって理解して選んでるかは知らへんけど」
寺崎は自分が煮込んだと言った角煮を美味しそうに頬張った。
「せいじ〜あんた今、またババァ言うたやろ…」
「ぅげ!ゴホッ」
寺崎はご飯を入れた茶碗をもって出てきた美代子さんに頭をコツンと叩かれて、頬張った角煮を喉に詰まらせて咳き込んだ。
「美代子さん、お邪魔してます」
「碧くん〜。いつもありがとうね〜。
誠司がさぁ『碧に負けへんように俺もやったるわぁ』いうて、なんや張り切っとんの。
ほんま、この子がやる気出てんのは、碧くんのおかげやわぁ」
「バ…おい。いらんこと言わんでええて。
それより、碧が聞きたいことあんのやって」
寺崎は水を飲み込みながら、呼吸を整えている。
「え、なあに碧くん?この美代子さんが答えられることならなんでも聞いてぇ」
生成りの紬に赤紫蘇のような滲みの入った帯が、濃い目の口紅の色と重なって綺麗だ。艶っぽいのに、かといっていやらしさはどこにも感じない。
いつも客にはこんな風に対応しているのだろう。美代子さんのファンが多いのがよくわかる。
「あ、大したことじゃないんすけど…。
この器、織部焼かなって」
「わぁ、さすが碧くん!そう、織部焼やよ。これはね澤さんていう作家さんのでね。
もう大人気で、やっと作ってもらえたもんなんや。
こっちの向付のお皿は扇形がかわええやろ。
澤さんのはね、信楽も素敵やけど、織部焼の自由な作風が特に好きなんやぁ〜」
「わぁ、すごい。やっぱりこだわって選んでるんですね」
「うん、やっぱりお料理がよりおいしく見える器使うた方が、お客さんも幸せやろ?」
(この店には、美代子さんのおもてなしが詰まっているんだな…)
「あ、あとなぁコレ。
自家製の白味噌で漬け込んだ豚の西京漬けとね、自家製のへしこ。
発酵のお料理はカラダにええんよ」
そう言って目の前に今焼いたばかりの二品を置いた。
熟成された香りが鼻から入って脳内までその旨みを運んでいく。
すると一人の老人が店に入ってきた。
「あ、高田さんこんばんはぁ。早かったですねぇ。
お席、いつもの奥に用意してはります。
…碧くん、ゆっくりしとってね」
そう言うと美代子さんは碧たちのもとを離れていった。
常連客なのか、寺崎も深々と頭を下げた。
「テラ、店戻んなくて平気?」
「ああ、まだ一組しかおらへんし。あの人はまぁ、お偉いさんやけど常連さんやしな。
つうか碧、お前焼き物わかんの?すげぇな…!」
そう言われて少しハッとした。
その言葉は、以前自分が光瑠に言ったのと同じものである。
「いや、昨日たまたま図書館で見たのと同じだったから…。
俺なんかより、光瑠の方がもっとすげぇよ」
「そうなんやぁ…!いやぁ〜なんやそういうの、カッコええなぁ。
やっぱここで料理やってるんやったら、そんなんも知っとったほうがええんやろな。
俺もべんきょしよ〜」
寺崎は、自分の目の前に据えてある皿だけじゃなく、立ち上がって大皿も含めて店にある様々な器に視線を巡らせた。
そんな姿を見て、俺もこうやって、光瑠や先輩たち、周りのみんなに少しずつ気づきを与えられて、導いてもらっていたのだと、胸の奥がじんわり温かくなった。
「テラってさ…。大学とか、将来やりたいこととか…もうなんか考えてんの?」
予想外の質問だったのか、寺崎は持っていた皿を手から滑り落とした。
「うおっ!あっぶね!そんなに驚くことか!?」
とっさに皿をキャッチしてことなきを得たが、寺崎の表情からは思った以上に動揺しているのが伝わってきた。
「え?テラ、どした?」
「あ〜いや。ちょうど昨日バ…母さんとその話してさ。
タイムリーやったから、俺の心読んだんかなってビビったわ」
ハッと我に返ったのか、碧がキャッチした皿をそろりと受け取って元に戻した。
「え〜やっぱもう進路のこと美代子さんと話してんだ。すげぇな…!」
「いや、進路の話っつうか…」
そう言ってから少し顔を伏せた。不思議に思って覗き込むとガラにもなく顔を赤らめているのが見えた。
「え?なに?なんなの?そんな顔されたら余計気になるじゃねぇか」
「笑わねぇ?」
「は?笑わねぇよ!」
「俺、二年に上がったら留学したいなって。最近思っててん」
「…!!」
*織部焼:岐阜県美濃地方発祥の美濃焼の一つ。桃山時代に千利休の弟子でとして知られる茶人・古田織部の指導から生まれ、鮮やかな緑釉と自由な形が特徴の伝統的な陶器。
*現代陶芸家 澤克典氏:1980年 滋賀県甲賀市信楽町生まれ。
信楽焼や織部を中心に作陶されており、力強く自由な形と織部特有の緑釉、繊細な絵付けが見事な作家。
(本作者の推し陶芸家の一人)




