第九十三服 風向き
透は少しの間、去っていく露千の背中を睨むようにして見送ったあと、碧の方にくるりと向き直った。
「碧。点睛なんて言葉、よく知っていたね?」
透は右眉を軽く上げて、少々怪訝そうな表情を浮かべてそう言った。
「あ、昨日、帰り道に仙賀さんから聞いて…」
「あぁなるほど」
余計なこと教えて…とでも言いたげな様子で手を額に当て「仙賀くんたら…」と呟いたのが聞こえた。
「ところで…」
ニヤリと口角を上げたその人は、気づけばいつもの飄々とした眼差しでこちらを見ていた。
「碧は…僕みたいになりたいの?」
目にかかりそうな前髪を掻き上げ、ぐいっと碧を覗き込むようにしてそう言った。
(あ、やべ…)
るんるんとした語調は、ある意味誘導尋問みたいだ。
妖艶な笑みを湛えた口元は普段通りの透の姿だった。
「あ〜いや…なんというか…」
少し考えてみたが、『先生のような茶人になりたい』——その言葉は本心から出たものなのだと、改めて自覚した。
目まぐるしく変化してきたこの人への感情。
初めてお点前を見た時の鼓動。
あんな風に舞ってみたいという高揚。
度々見せる知識や造詣の深さへの羨望。
この人に追いつきたいと走った焦燥。
そして、何もない自分と比べて、この人が宗家の血筋だと知った時の嫉妬…。
その後、茶人を目指したいという感情に向き合い、それをこの人の前で宣言した自分の心。
——どうしてなのかはわからないが、全てはこの人への憧れからくるものなのだ。
しかしながら、いつもこの人の妖怪じみた美貌とペースに惑わされていることに若干の悔しさをおぼえているからだろうか…素直に憧れの言葉を口にできない。
「先生みたいになりたいっつか…。
茶人目指すなら、まずは身近な人をお手本に…って思ったっつうか…」
寺崎のようにまっすぐ憧れを言葉にできるほど、まだ大人ではないことにがっかりする。
しかし目を泳がせながらしどろもどろの自分の気持ちは、おそらくこの人には見透かされているだろう。
甘い微笑みがこちらに向けられているのが、その人を見なくても感じ取れる。
(う〜んやっぱりこの人の妖術に惑わされていると思いたい…)
「ふふ。うれしいなぁ」
改めてその人を見ると、この日その身に纏っていたのは綺麗な藍染の紗だったことに気づいた。
麻地で透け感のある帯は博多織だろうか、浅葱色が藍の色を引き立てている。
艶やかな長髪は襟元できちんと結われて、頭のてっぺんからつま先まで涼やかな夏の装いはその人の美貌を際立たせている。
見れば見るほど汗だくの自分の姿とは天と地の差があった。
(というか、この人はどんな姿でも汗すら絵になるんだろうな)
茶を続けていたら、いつか自分もこんな佇まいになれるのだろうか。
そう思わせるこの人が、やはり小憎たらしい。
「でも今日は、恥ずかしいところを見せちゃったなぁ」
美形の口から、あーあ…というため息がジリジリと焼けそうな石畳の上に落ちた。
そういえば、最近、親子絡みのシーンによく出くわす。
先日の光瑠の父親とのやりとりの印象が強烈だったせいか、うっかりこの人の父親にも反抗的な表情を見せてしまった。考えてみれば茶界のどえらい人だったことに一抹の不安を覚えた。
とはいえ、このお家騒動らしき様子についてこの場で言及するのは、流石の自分もデリカシーがなさすぎる。
しかし…。
『——残念ながら、透露は点睛に値する茶人やない。
というより、それに向き合うことを放棄している』
いったいあの言葉は…。
「先生は…点睛…」
そこまで口にして言い淀んだ。
(興味がないんですか? 茶人として目指さないんですか?)
点睛のことも、先生のことも、何も知らないのだ。
(なにか質問するなら、もっと別のことを…)
すると、目の前に一台の黒塗りの車が止まった。
運転手が降りてきて後部座席のドアを開け「大変お待たせいたしました」と言って透に乗るよう促した。
「碧、ごめんね。僕、もう行かないといけないから。話の続きはまた今度ね」
顔の横にゆるりと垂れる後毛を耳にかけながら車に乗り込む姿は一段と艶めいて、なんでこの人は男に生まれたのだろうと今更ながらに思った。
「とりあえずシャワーを浴びに帰るか…」そう思って走り出すと、風向きが変わったのか、東から吹くぬるい風が背中を後押ししてくれているみたいに、足取りが急に軽くなった。
もっと、茶を知りたい。
あの人のことも…知りたい。
少し前まで感じていた眩むような火照りが、別の何かに変わったように、前へ進む体を熱くさせていた。
気がつくと家まであっという間に辿り着いていた。
もうすぐ正午を迎える太陽は高く上がり、蝉時雨は騒がしさを増していたが、縁側から流れ込む風がその音と調和しながら滴る汗に染み込んでいくのが、なんだか心地よい。
(あ、たしか…この辺に仕舞ってあったよな…)
軒先から流れ始めた風鈴の音は、真夏の日差しを水飛沫のように散らして、シャワーを浴びた後の肌に優しく触れた。




