第九十二服 藤露千(キャラクターイラストあり)
利休の血縁から成る家督は、以下のような系譜として受け継がれている。
『堺千家』
千利休の実子である千道安が堺で千家の家督を継いで興した流派。しかし後継が生まれず、現在は断絶。
『藤千家』
利休の孫である千宗旦に生まれた子のうち、三男・露右の正妻として藤原氏の血縁を迎え入れ、名字を藤とし、千家の家督を継いで『藤千家』を興した。
『橘千家』
宗旦の四男・央室の妻に橘家の血縁を迎えたことから橘を名字として、『橘千家』を創設。
『西洞院千家』
宗旦の次男・宗紗によって興された。西洞院という名は利休から譲られた茶室が西洞院通りに面していたことに由来する。
現在、千の名字を継いでいるのは西洞院からの血縁のみである。しかし藤・橘・西洞院の三流派は三千家としてそれぞれ利休の教えを継承しつつ、各々の思想を違えながら共栄してきた。
まさか家のこんなに近くに藤と橘の茶室があるなんて、知りもしなかった。
どんなところなのだろう…いや、流石にこんな汗だくでは行っても門前払いか…。
(でも、少し外観を見るだけなら…。)
せめてもと顔中に流れる汗をTシャツの袖で拭ってから案内板が示す方へ走り出す。すると示された通り、100mほどで突如として立派な門が目の前に現れた。
そこには『千利休居士遺蹟 春花庵』と書かれていた。
春花庵という茶室は藤千家が利休から譲り受けたもので、禅語の「不審花開今日春(不審にして花は今日の春を開く)」から名付けられたものである。中には確か藤の木が植えてあるはずだ…。
少しの間佇んでいると表門の左の入り口が開いて、二人の影が何やら言い争いをしながら出てきた。
「透露!まだそないなことを…。
来月の会合は大事なものやとあれほど伝えていたやろう」
「そこで、私の次期当主としての襲名を匂わせるおつもりですよね。
そんな見え透いた策略など、私には通じません。
第一、真紘露がいるでしょう」
「真紘露にあの役目が務まるわけがない。なぜお前はいつもそうやって私を困らせるんや」
「困らせているのでは…。
…! あ、碧…?」
なにやら、ただ事ではない場面に遭遇してしまったようだった。
いつも飄々とした笑みをその美貌に湛えているはずのその人の眉間には深い溝が刻まれ、鋭い眼差しで相手を睨みつけていた。
こちらに気づくや否や、その表情を少し解いたが、その慌てた目元も、初めて見るものだった。
「先生…どうも。あ〜…ランニングしていたら偶然通りかかって…」
顎を伝って滴る汗を拭いながら、さらりとやり過ごそうとした。
しかしその人は浅い呼吸を整えるように一拍おくと、姿勢を正し、目の前にいる男性を手で指し示した。
「碧、こちら藤の当代・露千。僕の父だ」
見るからに堅物そうで、オールバックのグレイヘアはその印象を一層引き立てていた。
「こちらは京絹学院茶道部の一年生 多比良碧くんです」
透は目の前にいる堅物の男と目を合わせずに、反対の手で碧の方を示してそう言った。
堅物男は碧に少し目をやるだけで、すぐに透を見据えた。
「…お前は、まだ茶道部の顧問なんてもんをしてはるんか」
「ええ、父上のご友人である会長からのたってのご用命ですから」
透は先ほど言い争いをしていた時とは打って変わって柔らかな笑顔を向けていた。しかしその眼は氷のように冷たく強張っているのが見えた。
「…会合の話は、また明日以降に」
その男は、この美しい人の目線を避けるようにくるりと背を向けて門の方へ歩き出した。
しかしすぐに足を止め、思い出したかのように顔だけをこちらに向け、品定めするような視線を寄越してこう言った。
「多比良くん…。慌ただしくしてすまないね。…茶道は楽しいかな」
目の前にいる少年のことなど、まるで無関心なのだ。——それが手に取るようにわかる温度の乗らないその言葉。それでも少しでもその場を取り繕おうとする、無意味な大人のプライドの塊に、碧の中に少しばかりの反抗心が芽生えたようだった。
「…はい。僕もフジ先生のような茶人になりたいと思っています」
「…!」
そう言ってから少し反省した。
(…やばい…。なんでこんなこと言ったんだろ。
また感情で口が先に動いてしまった…)
どうしてそんな言葉を発したのか…。
ただ、目の前にいる、常に麗しい表情を絶やさないその人の、初めて見る目と顔つき——それが差し向けられた対象に、無意識に敵意のような感情を、先ほど抱いた反抗心に上乗せしてしまったような気がした。
いや…本当はその人を何かしら援護したいという気持ちが働いたのかもしれない。
透の表情を見ることはしなかったが、きっと目を丸くさせているのだろう。
堅物の男は、顔だけ向けていた体をこちら側にゆっくりと回し、ようやく碧と正面から相対した。
「透露のような…とは?」
重力を加速させるような低い声を吐き出しながら試すような目で碧を見つめた。
暑く気怠い夏の空気が、その人から発せられる言葉と視線のせいで余計に重たく体にまとわりつく。
ごくりと唾を飲み込んで次に控える言葉を慎重に選んだ。
「…点睛と呼べる点前を振る舞える茶人です…」
「碧…?」
(やばい、また選ぶ言葉を間違えたかも…。
あ〜これじゃ光瑠の父さんと会った時の二の舞だ…)
自分の名を呼ぶ透の声は明らかに動揺している。
「ほう、点睛という言葉を知ってはるんか。透露から聞いたんかな」
二文字の言葉を聞いてピクリと眉が動いたその男は透の方をジロリと見た。
「いえ…別の方から聞きました…」
眉を吊り上げたままの男は、短く嘆息すると透の方を見た。
「残念ながら、透露は点睛に値する茶人やない。
というより、それに向き合うことを放棄している」
透は目を伏せて、少し唇を噛んだ様子だった。
「点睛を目指すなら、透露に習うんは止すのが賢明や。
でも…もし君が藤の門を叩くんなら…その時は歓迎しよう」
堅物の男は、再び碧たちに背を向けてそのまま門の奥へと消えていった。
*この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。歴史上の人物を絡めたくだりでも、あくまでもフィクションとしてお楽しみください。
*現実には三千家は、名字は千であり
表千家:家元襲名を千宗左
裏千家:襲名を千宗室
武者小路千家:襲名を千宗守といいます
茶室名はそれぞれ表千家:不審庵、裏千家:今日庵、武者小路千家:官休庵 といいます。




