第九十一服 弾む心
【光瑠!昨日書道家の先生に会ったんだけど、今度一緒にアトリエ行かね?
去年京都芸大を卒業したんだって。いろいろ聞きにいこ】
そこまで打って、はたと指を止めた。
枕の上でうつ伏せになってスマートフォンに打ち込んだ文字を眺めた。
窓の外からは、録音されたASMRのような鳥のチュンチュンと鳴く声と、風が枝を撫でる爽やかな音が聞こえてくる。
夏休みの朝の時間はあっという間に溶けて消える。
碧は目を覚ましてから三十分はベッドの上でスマートフォンをいじりながらゴロゴロとしていた。
(あ〜もう八時過ぎか…)
スワイプして画面を閉じて、いい加減ベッドから起き上がる。
光瑠のためにと思った言動が、度々空回っているような気がする。
芸大に興味を示しているように見えない光瑠に、芸大出身のアーティストなんて紹介するのは余計なお世話だろうか。
今まで適度な距離感を保って、踏み込まずに、踏み込ませずに過ごしてきた自分が恨めしい。
こんな時、光瑠だったら、寺崎だったら、どんなふうに相手を思い遣るのだろうか。
(テラに相談してみようかな…)
そういえば寺崎とも進路の話をしたことがない。というより、高校に上がったばかりで、将来のことを真剣に考えている奴らなんて、ほんの一握りなのではないか。
【今日とか明日って、店忙しい?】
寺崎へのメッセージは、気づいた時にはもう送信をタップしていた。
寺崎は最近、碧にとってなんだかお兄ちゃん的存在だ。自分なんかよりずっと大人で、賢くて、素直で優しい。兄貴分として慕っている銀次郎とはまた違った安心感がある。
(あー俺が女子だったら絶対テラに惚れてるわ。遠藤さん、惜しいことしたな。知らんけど)
顔を洗って口を濯いでから台所に行くと、柔らかな光が窓から漏れている。
徐に銀次郎から貸してもらった茶道具を箱から取り出し、電子ケトルの温度を85℃に設定して湯を沸かす。じわりと汗を感じたので、エアコンの電源を入れる。
「点睛…」
昨日から鼓膜の内側で常に鳴り続けるこの言葉はネットで調べても、あまり有力な情報は出てこなかった。
わかったのは、安土桃山時代、堺の豪商である津田宗及が記した茶会記の一つである『宗及茶湯日記』に、その一節が書かれていたということだった。
『茶会記』とはその名の通り茶会の記録である。亭主を務めた人物もしくはお点前を担当した人物、客の顔ぶれ、使われた道具などが詳細に記された日記のようなもので、利休や羽柴秀吉など歴史上の人物が数多く登場する。
『宗及茶湯日記』には、こう記されていたという。
天正二年、信長が上洛した際に開かれた茶会にて、津田と並ぶ豪商の今井宗久や、利休の高弟である山上宗二、そして臙脂屋宗陽が堺から同道して点前を披露した折の記載である。
——『此れぞ正しく皆が憧憬し感嘆とす茶の頂点成る点睛の茶会である』と。
今井宗久、山上宗二はいずれも信長の茶頭として著名である。そして、わび茶の礎を築いた武野紹鴎に茶の湯を学び、利休に多大な影響を与えた臙脂屋宗陽。
その三名が揃った茶会で『点睛』なるものを見たと津田宗及が記したのだが…。
それ以降の茶会記には『点睛』の文字が現れた記録はないとされている。
その後『点睛』に関するただ一つの手掛かりは、利休のものとされている墨跡に『点睛程妙無』=『点睛ほど妙なるは無し』の一行があるということだけだった。
仙賀さんが言うように、これまで様々な歴史研究者や茶道学会の茶人たち、茶道家が調査しても、いったいどのようなものが点睛なのか、そもそもその場にいた茶人の誰が点睛を達成したかもわからないようだ。
『点睛』
まったくわからないことを目の前にして、しかもついこの間足を踏み入れたばかりの未知の世界であるのにもかかわらず、碧の心は弾んでいた。
これまであらゆる茶人たちがその二文字を追求しながらも誰一人として達成できなかった。まさかそれを自分が追いかけようとしている滑稽さと、もしそこにたどり着くことができるのなら…と無謀な光を頭の中で交差させていた。
茶道具を和室に運んで縁側からの風を入れる。
むわっとした生ぬるい風が吹き込んできて、たまらずエアコンの温度を下げた。
茶碗に抹茶を入れると、落ちる粉末は空気中の粒子と混ざって光を照り返す。
ケトルから湯を深皿に移して温度を下げてから、柄杓でゆっくりと汲む。
立ち上る湯気が反射する光は茶が放ったそれとは違う色をしている。
茶筅を三度ほど回すと、急に鼻腔を貫く鮮やかな緑色の甘ったるい香りで目が醒める。
そこからもう少し茶筅を踊らせると、茶碗の緑は少し泡が立ち、三日月のような弧を残してうっとりとした表情を見せている。
茶の頂点に立ってみたい…のか。茶の頂点を極めたら格好良いと思っているのか。
そんな下心も少しはあるのかもしれない。
ただ、今はっきり言えるのは、そこから見える世界はいったいどんな景色なのかが知りたいということだ。
そのとき、茶はどんな表情を見せてくれているのだろうか。お軸も、花も…一番最初に茶を口にした時のようなあの鮮やかな情景をずっと目に映していたいと思うのだ。
(やっぱりどこかに入門したほうがいいんだろうな)
舌の上で転がる緑色の液体は、とろりと喉に絡みついたあと、その香りの名残を鼻の奥に留めてから胸の内側に染み込んでいった。
(はぁ。きもちいぃ)
朝からこうして茶と戯れていると、何度もこの瞬間を繰り返したくなる。
とはいえお腹も減ってきたので簡単な朝食を取ることにする。
昨日帰り際にお土産だと言って鰻のおにぎりを渡されたのを思い出した。冷蔵庫からそれを取り出してトースターに入れ、両面を焼くことにした。その間に大根の味噌汁を作る。
そうこうしているうちに寺崎から返信があった。
【まぁぼちぼちみたいやけど、なに?もう俺のこと恋しくなったん?】
そうだ。と言いたくなる自分は、本当に寺崎が彼氏だったらいいのにと思っているのか…。そう一瞬考えてみたが、さすがにそれはなさそうだ。いずれにしてもそんな自分もなんだか嬉しい。誰かと深く関わってみたいなんて。
【テラが俺に会いたいかなと思って。愛。
つうか香川のこと話したいからさ、夕飯食いに店行ってもいい?】
【相思相愛やん。
ええよ。そしたら明日店開くちょい前に来いや】
【おけ】
【何食いたい?】
【なんでもいーよ】
【お前それ料理人に言うたらあかんやつやん
しばかれんで】
【え、なんかごめん】
【じゃー俺が最近作っとるめちゃうまい角煮食わしたるわ。惚れるで】
【なんかクスリ入れる気だろ笑】
【ちゃうて。じゃまた明日な】
さて…。
今日は朝メシ食べ終わったら午前中はランニングして、午後は図書館にでも行くか…。と決め、心変わりする前に急いで洗い物を済ませて着替え、ランニングシューズを履く。
表に出ると、朝のうちにぐんと熱を上げた空気が碧の顔を覆った。
息苦しさすら覚える熱気に気圧されて家に戻ろうかと思ったが、せっかく走り出したし…と渋々足を進める。
すると、ひんやりとした空気が一瞬肌を撫でた。足元を見ると打ち水がされていた。
しばらく走ると、風鈴の音が方々から聞こえてくる。チリンチリンと風に奏でられる旋律が心地よい。
咽帰るような暑さの中で、こんな少しのことに涼を感じるのは、やはり自分が茶をはじめたからなのだろうか。いつもと同じコースなのに五感に入る情報がまるで違うのだ。
金閣寺の方へ北へ走り、北大路通を東へまっすぐ行くと賀茂川へ出る。
そこから河川敷へ降りて川沿いを走り、今出川通をまっすぐ戻るとちょうど十キロになる。
しかし今日はあまりの暑さで、堀川の交差点に差し掛かったときはすでに体が火照り、視界が眩むような感覚を覚えた。熱中症になってもまずいと思い、そこを右に曲がって帰ることにした。
初めて通る道は新鮮な景色で、銀杏並木が連なる堀川通をキョロキョロとしながら進むと、ふと二つの案内板が目に留まった。
(…!?)
荒い呼吸を無意識に殺し、その案内板の前で足を止めた。
『藤千家 春花庵 100m ▶︎』
『橘千家 一期庵 100m ▶︎』
*本作は、茶事や工芸に関する事柄や知識をある程度事実に基づいて表現しておりますが、名前やニュアンスを変えて表記している箇所もあります。流派や解釈による違いなどもございます。この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。歴史上の人物を絡めたくだりでも、あくまでもフィクションとしてお楽しみください。




