第九十服 茶の道 ・第二章 最終話
第二章・完結
「わぁ、そら、ええねぇ。こんな素敵なお師匠さんがおるんやもん」
雀雲は箸を箸置きに戻して肘掛けにトンと肘を置くと、頬杖をついて斜向かいにいる透に視線を送った。
「僕は、茶道部の顧問というだけで、彼に特に何かの手解きをしているわけではないんですけどね」
透は雀雲から目を逸らすように、目の前のお椀を持ち上げて啜った。
鴨川から吹き上がってくる風が、その人の長い髪を揺らした。
背後に沈みかけている夕日が東側の空をわずかに照らしている。陽が沈むごとに濃くなっていく納涼床の影に店の明かりが交差していた。
「あ、そうなんや。でも碧くんは、藤のお家に入門するつもりなんやろ?
ええよなぁ。僕も憧れるわぁ」
雀雲のその言葉に透の肩がぴくりと縮む。真紘露の視線はそんな透に送られていた。
『ええよなぁ』と『憧れる』という言葉の掛かる先が、どこなのか不明瞭だったが、わずかに意趣めいた語感を含んだその二言は『藤の家』を対象としているように感じられた。
「あ、それは…そういうのまだ俺よくわかってなくて…」
「碧くん、茶道家目指すんやとしても、別に無理してウチんとこ入らんでええんやで?」
真紘露は両手を頭の後ろに組んで背もたれにもたれかかって碧にそう告げた。
「え…?」
現時点で藤千家で学びたいと考えていたわけではなかった。ただ、少し棘があるように感じた真紘露の言葉に、碧は眉を顰めた。
「へぇ。何か、藤のお家に入れさせたくない理由でもあらはるんですか?」
なんらかの違和感を感じ取ったのか、雀雲は頬杖をついたまま、先の言葉の主ではなく透に視線を送り続けた。ところがそれを遮るように真紘露が口を挟む。
「いや、ウチんとこはな、そらぁこわ〜い姐さん方がぎょぉーさんおんねん。
碧くんみたいな若ーい男の子いたら取って食われてまうかもしれへんよ?」
笑いながらそう言って「なあ、せんちゃん」と仙賀さんに同意を求めた。仙賀さんは「あぁ、確かにな」と苦笑しながら頷いた。
「茶の流派はな、百を超えんねん。その中でウチはちょっと有名なだけやし、もっと碧くんに合うとこあるかも知れへん。そないに急ぐことあらへんし、じーっくり考えたほうがええよ」
「真紘露、もういいから」
透はげんなりとため息をついて真紘露に口をつぐむようにと促したが、真紘露は構わず何かを取り繕うように畳み掛ける。
「姐さん方もそうやけど、当代も規律やなんやに厳しいだけやなくて、考え方もそらぁ古くてちょっとでも違うことしよ思たら、ほんま鬼みたいな顔しはるんや。
碧くんみたいにイマドキの子は、自由な思想でやらせてくれる…そやなぁ橘の方とか合ってるんとちゃう?」
「真紘露!」
透の声がその場を切り裂いた。
たった今陽が沈み切った空はまだ紫だったが、納涼床の灯りがポツンポツンとつき始め、簾越しに客達が「キレー」などと言いながら、スマートフォンで薄暗い空と灯りの様子を撮影しているのが見える。
透は細い息を吸い込んで皺を寄せた眉間をゆっくりと解き、コホンとひとつ咳払いをした。
「真紘露、藤の話はもうええから」
そう言うと碧の方に向き直った。
「碧、茶道家を目指したい気持ち、とても嬉しいよ。ただ、その話は今やなくてもええ?
今日はせっかく雀雲さんに来てもろてるし。また今度、茶道部で先輩たちの話聞きながら話そう」
先ほどまで標準語だった透が急に京言葉の発音になった。これまで何度かそう話すのを聞いたことはあったが…。
「あ、はい…すみません。そうでしたね…ごめんなさい雀雲さん」
──『嬉しい』──たった今耳に入ってきたその声は、柔らかな京言葉と共になんだか悲しい響きを滲ませていた。
「あぁ僕はぜんぜん、気にしいひんよ。なんなら茶道の話、僕もっと聞いてみたいわぁ」
雀雲は少しいじわるそうに二人に言った。その声に真紘露がわずかに眦を吊り上げた。
「いえ、雀雲さんの共感覚の話きかせてください!」
あわてて話を引き戻す。
「そう? まあ、お料理もそろそろ終盤やしね。どんなこと聞きたい?
いうてもね、僕は文字にしか感覚湧いて出てきいひんしねぇ。逆に碧くんはどんな感覚起きんのやったっけ?」
いつの間にか空は深い藍色に染め上げられ、雀雲の肩越しにまん丸い月が顔を見せていた。
今日は満月だった。
「えっと、僕は…雀雲さんみたく色が湧き上がって見えることも多いんですが。
景色が見えたり、誰か、もしくは何かの記憶を追体験しているような感覚になったり、音も聞こえます。
自分が別の世界に連れて行かれるような…。でも、やっぱりいつもじゃないんです。あと、茶以外にも感じます」
「へぇ、おもろいねぇ。それは、人の何倍も日常を楽しめそうやぁ」
まん丸い月の眩しい光を背負いながら雀雲は再び団扇を揺らした。
「ま、今はそれはお楽しみの一つくらいに、考えとったらええんちゃうかな。
それよりもまずは、自分のセンスをこれでもかってくらい磨くことや。
きっとそうやってくうちに、勝手に出てくる感覚を自分のものにしていく時が、来るんやないか思うよ」
また、その人を包む色は白く柔らかく、月の光を纏って緩やかに漂う。
真紘露の表情が少しだけ視界の横に入った。「ほらね、感覚に頼らず勉強するんやよ」という顔をしているのがわかったので、またこっそり顔を逸らした。
「大事なんはね、この神様からもろた小さなギフトに振り回されんことやと思う。
これはただのラッキーや。
やからね、さっきも言ったように、この感覚なくなっても僕はもう十分やってきたって、胸張って言えるようになるまで、やるだけや」
雀雲の言葉は、千歳が語ったそれと重なった。
悩んで、探して、歩き続けて、立ち向かってきたんだ。そう思った。
* * *
「じゃあ、俺は店戻るし、碧くん送ってくわ。碧くん一緒にタクシー乗ろ。
みんな、また店きてな」
(よかった…この中で一番まともな大人に送ってもらえる…)
「あ、ありがとうございます!
雀雲さん、先生、真紘露さんも、今日はありがとうございました…!」
店の外に出ると、雀雲の迎えのタクシーが最初に到着した。
「碧くん、またいつでも連絡してきてね。あ、そうだ今度アトリエに来てよ」
そう言って雀雲は自分の名刺を差し出した。
「はい!連絡します!」
名刺を受け取ると、そこに書いてあったアトリエの住所は寺崎の家と程近かった。
「ちなみにね、僕、割と売れっ子の書道家やけど、去年大学卒業したばっかでまだピチピチの二十三歳やからね。兄さんたちより碧くんの気持ちわかると思うで」
「え…あ、はい」
(若!いや、それよりもなんでちょいちょい煽るのこの人…やめてよ〜なんかとばっちりきそう…)
「せんちゃん!あいつあんな生意気なやつやったん!?この間店で会った時は猫かぶっとったやろ!」
案の定、真紘露は少し幼稚な苛立ちを見せ、小さくなるタクシーに向かってベーッと舌を出した。
「碧くん、浮気あかんで!あ、いや、兄貴は僕のもんやけど!」
「は…?いや…意味が…」(やっぱり流れ弾…)
「たしかになんやろな、今日の雀雲さんはいつもとちょい違ったなぁ」
仙賀さんは小さなヒステリーを起こす真紘露を宥めながら遠く離れたタクシーを見送った。
やがて到着したタクシーにそれぞれが乗り込んで解散した。
いつものことではあるが、透は最後まで口数が少なかった。
「仙賀さん、今日は本当にありがとうございました」
鴨川沿いを北にまっすぐ進むタクシーの右の窓からは、東の空に上がってその輝きを増した満月の光がしばらくの間差し込んでいた。
「俺、この間、店ですげぇ失礼な態度で出て行っちゃったのに。」
「ええんよ、碧くん。あれは間違いなく真紘露が悪いわ」
仙賀さんはいつものことのように、苦笑いでフォローしてくれた。
「でも、碧くんが茶道家目指したいって言ってくれはって、きっと二人はほっとしたいうか、嬉しかったんとちゃうかなぁ」
仙賀さんは、少し窓を開けて車内に風を入れた。
蒸し暑い京都の夏の、生ぬるい空気が入ってきたが、不思議と嫌な感じがしなかった。
「そや、碧くん、茶の道を極めた人のこと、なんて言うか知っとる?」
「え!?知らないです。流派からもらえる茶名とかとは違うんですか?」
「うん、それとはちゃうくてね。
まあ正確には、その領域に到達した人がいたかどうかは、わからないみたいなんやけど…」
──それは、かつて千利休をはじめとした数々の茶人が目指した、茶の湯の真の精神に到達する神の領域。現存する茶界のトップにいる茶人たちでも、まだその世界を見たことがないとされる、未知の頂。
「安土桃山時代に記された茶会記にその文字があるだけで、それが点前の所作のことなんか、それとも侘びと寂びの精神の表現にあるんか、それすらもわからないらしいんやけど…」
「そこに記されていた、茶の道を極めた人を示す言葉…。
それは…」
「点睛」
──────────────── 第二章「それぞれの色」 ・完
第二章までお読みいただきありがとうございました!
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茶の頂『点睛』を知った碧が決めたこととは?
父親の仕事場を訪ねて向かった香川で起こることとは?
そして全国高校茶道部選手権大会 夏戦の行方は…そして…!




