第九服 もう一度
その日の放課後。
碧の足はあの奥へ続く渡り廊下を踏んでいた。いつ教室を出たのか自分でもよく覚えていない。気づけば新校舎のざわめきが一歩ごとに遠ざかっていく。
昼過ぎにひと雨降ったようだった。雲の切れ間からが差す陽の光は夕刻を告げる手前の色だった。その姿を旧校舎から見ると一層異世界感が増すように感じた。
光瑠のようにあの表門にあっさりたどり着けなかった。通り抜けできない棟を迂回するためには、一度棟の一階部分にあたる吹き放し(*1)まで出なければいけなかった。と、ここで全ての棟はこの吹き放しで繋がっていることに気づいた。
(なんだよ全部ここの吹き放しだけ辿っていけば上がったり下がったりする必要ねぇじゃんか)
迷路が如くの旧校舎と、あの日の光瑠の雑な行路に対して碧はちょっとした文句を口からこぼした。
途中、旧校舎のどこかの棟の一室から正月に聞くような笛の音が聞こえてきた。
(雅楽っていうんだったっけな)
おそらく伝統文化系の部活はその一帯で活動しているのだろう。光瑠が言っていた、開け放てば100畳ほどの大広間となる和室。
今日は茶道部は休みのはずだが、襖一つ隔てた同じ空間で日本の歴史の中で紡がれてきた古い文化が、時代を超えて今ここで交錯しているのだと思うと、やはりこの学校ってすげぇなと思うのと同時に、一気にこの旧校舎という場所の趣と重みが増した気がした。
そんなことを考えながら歩くと、吹き放しからあの場所に続く渡り廊下にやっと出ることができた。おそらくあの日に比べて10分は余計にかかった気がする。
先刻の通り雨のせいだろう。苔がしっとりと濡れて、深い緑に沈んでいる。空気がひんやりと湿って土と苔の青いような匂いが心地よい。
どこかでちょろちょろと水の落ちる音がする。名も知らない鳥の囀りはこの庭のために歌っているようだった。
今日も表門は開いていた。
そこまで来て、碧はふと我に返った。
(あれ、俺何でここに来たんだっけ。今日もあの茶室が開いているかもわかんないのに。これじゃこの間の光瑠と同じじゃねぇか。何も考えずノコノコ来るなんて…)
引き返そうとする碧の意に反して、碧の靴はもう表門の敷居を跨いでいた。
もう諦めてそのまま二歩三歩と歩を進める。
新芽が出始めた枝々からしずくが落ちて苔の上で小さく弾けた。
それと同時に碧の頬にもぴちょん。
冷たくて気持ちが良かった。薄霧かかったこの庭にずっといたい気持ちになった
あの建物に目をやると、円を描いた窓にうっすらと影が動いたように感じた。脇の古い引き戸の前に立つ。微かに漏れ出る香は、前回よりも少し甘い気がした。気がつくとまた何秒か呼吸を止めていた。
(今日も…居た)
その影があの人だとは限らないのに、でも、あの人なんだと確信している自分がいる。
丸い窓を息を止めて見つめる自分が、なんだか少女漫画のヒロインが好きな人を追いかけるようで、やたらと恥ずかしくなった。
スゥっと大きく深呼吸し、そう距離もない建物を目掛けて足早に向かった。
戸に手をかけようとした次の瞬間、戸が自ら開いたので碧は思わず声をあげそうになった。
* * *
藤露透という人が、そこにいた。まるで碧が来るのを知っていたみたいに。
前回よりも少し濃い滲みの入った綺麗な藍色の着物。長い黒髪。
よく見るとその透という人の瞳は、土色と淡い紫が交互の花弁を咲かせたような輪郭を描いており、ますます現世に生きる人とは思えない風采であるように感じた。
「――また、来たね」
「あ…えっと、すみません、勝手に」
「いいんだよ。茶室は、茶を飲みたいと思う人を拒んだりしない」
透という人に手で示されて碧は畳に膝をついた。前より少しだけ自然にできたような、逆にぎこちなかったような...。い草の青い匂いが鼻をくすぐる。床の間にある細い花入に入った椿は前に見たときより少しだけ膨らみが増し、あと二、三日もすればふわりと弾けるだろうところまできてるようだ。
天井から吊り下げられた釜からは細く存在を隠すような湯気が微かに上っていた。よく耳をすませないと聞こえないほどの湯の音がしっとりと頬に触れる。
「では、一服差し上げます」
そう言うとその人は一枚の布を帯からするりと外した。
あの日は、この人がその”舞い”にも似た動きを、ただただ視界に入れるだけで精一杯だったが、この透という人の妖術(もはやそう呼ぶことにしたい)に慣れたのか、少しずつその”あやかしの術”の全容が頭の中で処理できるようになってきたようだった。
腰から外した一枚の布(のちに帛紗と知る)を、指先で丁寧に畳んでいく。
ただし、どうやってその布がその形になったかやってみろと言われたらおそらくできない。それくらい、その人の指先は水流の如く布を操っていた。
その布でその人はまず2つのものを拭き上げた。
一つは茶の粉が入っている入れ物、一つは茶を掬う道具らしかった。
前回はこの動きを見ているだけで鼓動が早くなっていくのを抑えられなかったのだが、今は、先ほどまでざわついていた胸の奥が不思議とすうっと凪いでいくのがわかった。
やがてその人はその布をふっと小さく払った。
(今、何したんだろ)
見つめれば見つめるほど、この動きに何の意味があるのかという仕種が多い。
柄杓で湯を取り茶碗に注ぎ、茶をたてるための道具をとったので、お茶をたて始めるのかと思ったら、ただその竹の道具を茶碗に入れた湯に潜らせただけだったようで、その後その湯は捨てられてしまったのだ。
茶碗は、先ほどの布とはまた別の小さな白い布巾で拭われた。
ようやく茶碗に緑色の粉を入れた時には、足が痺れているのを感じていた。
前回より遥かに、はるかに時間が流れるのが遅い。
まるで時が止まっているようだ。
でも…
でも…そう、この時間が止まっているようなこの感じが、永遠に続けばいいのにと思えるこの空間はなんなのだろう。
(やっぱり、絶対この人なにかの妖怪だよな。俺は今から異世界ファンタジーの主人公にでもなるかな)
※注意:そういう話ではありません。
「どうぞ」
そう言って差し出された茶は、前回とは全く印象の違うものだった。
*1 吹き放し:ピロティと呼ばれる構造。周囲の壁がなく、外気が吹き込むような柱だけの空間のこと




