第八十八服 枯木竜吟 (キャラクターイラストあり)
最初に見えんくなった色は赤やった。
次に緑もおかしくなって、赤と緑の区別がつかへんくなった。
その次は薄い色が何色かわからんくなって、そのうち、全部の色が黄色く霞んで見えるようになった。
先生が言うには『心因性視覚異常』やて。
強いストレスによって色が見えんくなったんやって。なんやそれ、めちゃ格好悪いやろ。
やりたいもんとかなんもない中で見つけた絵。それやのに自分に思ったような才能なんてなくて、いくら踠いてもなんも生まれてこぉへん壁にぶち当たって、その上、そないな自分に絶望して色も見えんくなったやなんて…。
クソダサ…。
こんなん、僕って生きてる意味あるんやろか。
周りの色が全部見えへん…ぜぇんぶ一色や。
あぁ、あの信号、今何色なん?
…大きな音がしたなぁ、たぶん車のブレーキ音や。
交差点の角に車が派手に突っ込んどる。何色の車やろう。
あれ、今雨降ってる?なんや冷たいわ。あぁ、ちゃうわ。これ、僕の頭から流れてる血ぃやわ…。
高次脳機能障害。事故で受けた頭への強い衝撃により脳の視覚情報処理系に障害が残った。
幸い、それ以外に重傷を負った臓器や四肢はなかったけども、心因性の色覚障害に加えて、視覚障害の後遺症まで…。
食べもんも、なんも美味しそうに見えへんし、何を見ても輪郭がぼやけてまう。
今まで見てきたものの記憶を辿りながら、それが持つ色とか形を想像したりするんも、もう疲れてきたわ。
──ほんま、生きてる意味なんてないんちゃうかな。
そんなことを思いながら、次第に大学へも行かなくなっていった。
──色のない世界になんの楽しみがあるんやろ…。
──こんなん、死んでんのとおんなじや。
* * *
「そんなふうに不貞腐れながら、なぁんやまた意味もない日を過ごしとったある日な、寒ーい冬の日ぃやった」
「あるお寺の前通ったらな、なんやろなぁ、不思議と吸い込まれてしまって、ふらっと入ったんや」
雀雲は眩しそうに目を瞑りながら続けた。
「大きな境内に一幅のお軸があってな、その文字からゆらぁって朱色の煙みたいなんが昇っていくんや。最初は火事かと思て、一瞬びっくりしてんけど、そん時は炎の色がわかるわけなかったし、もう一回目擦って見てみたんや。
そしたら、その文字から急に竜みたいな形した真っ朱な影がニョキニョキって生えてきてなぁ、ほんま腰抜かすかと思ったわ」
はははと笑った雀雲の瞳には朱い光が宿った。
「そこにはね、『枯木竜吟』と書かれとった」
──『枯木竜吟』
枯れて横たわった松の虚に風が吹き込み、まるで竜の咆哮のような音が響き渡る様子に準えた禅の教え。
枯れた松は、自我の執着や煩悩をすべて消し去った、禅における『死』状態を表しており、それを経ることで、生来の力や真の命が息吹を得るという機微。禅の思想で、死と生の境地に通ずる言葉である。
「その場で佇んでいた僕に、和尚さんが教えてくれたんや。
その時はね、一体このことをどう解釈したらいいのか、なぜそんなふうに見えたのかわからんかった。その後、同じようなことはなかったからね」
「でもある時に、書道家の故・井上有一先生*1の書作展にふらっと入ったんや。
偶然なんか、必然なんかはわからへんけどね」
手元にあるグラスの氷が再びカランと音をたて、綺麗に磨かれたガラスの側面を滑った。
その人が発する言葉と指先から滾る朱い緋い渦は、あっという間に氷を昇華させてしまいそうだった。それほどまでに猛る熱がそこに見えた。
「凄まじかったよ…。こないな『おもろい世界』があるんやぁって。
ただの一文字、黒一色なのに、こんなにも鮮やかな生のエネルギーの色を見せてくれるなんて」
ふうと口から漏れ出た吐息は憧憬の色と共に、ふわりと空中に漂った。
「こないな人になりたいと心から思ったんや。
命を与えられる人、黒から色を生み出せる人…」
「そこからひたすらに水墨画と書の勉強をしてねぇ。いろんなギャラリー回って個展開かせてもろたり、さまざまな造形物を見る旅に出たり…とにかく没頭した…。
そしたらね、僕にしか見えない色が少しずつ、僕が書く文字から浮かび上がって見えるようになっていったんや。それは次第に、他の人が書く文字からも…」
滔々と流れるように団扇を動かしながら目元を緩めた。
「あの時のお寺さんで見た文字はね、僕に教えてくれたんやなって気付いてん。
たいした努力もしてへんくせに、才能があるやつを羨んで、妬んで、腐って、自滅して…そんなふうに嘆く前にやることあるやろって。
苦しんで、地面這いつくばって、それでも掴み取ろうとする。そういうことしてきた人にだけ命が宿るんやってね」
「──やから、生来の命を吹き返すために、一度何もかも、その執着を捨てなさいってそう言われたんやなって」
雀雲は卓に並べられた皿に気づいた。
「ごめんねぇ、碧くん。僕がペラペラと止まらんから、美味しいお料理食べ損ねてまうねぇ。
食べよ食べよ〜」
透と真紘露はすでにしっかり箸を付けていたが、碧は目の前にいる書道家と自分の姿をほんの少しだけ重ねて見つめていた。
*書道家 故・井上有一先生(1916〜1985)
生涯を小学校教師として過ごした孤高の書家。
「書」を現代アートとしてとらえ、前衛的と言われながらも世界的評価を得た。
大きな和紙に、たっぷりの墨と大筆で一文字を力強く書いた作品が印象的。伝統という枠を超えて既存の美しい字にとらわれない自由な表現を目指した。




