第八十七服 書道家・雀雲
書道家の先生…どんな人なんだろう。名前くらい聞いておけばよかった。
スマートフォンのカレンダーアプリが今日の午後六時の予定を通知した。
約束の店が近付くにつれ、歩みと鼓動は、その音を大きく速めていった。
指定された場所は先斗町・四条大橋すぐにある大きなビルで、一棟全てがその店だった。
『江戸前鰻・先斗町 井筒屋』と書かれた表札が目に入る。立派な店構えだ…しかし今日もまた鰻が食べられるなんて…。舌下に滲む食欲を感じながらも、指先はじんわりと強張っているようだ。
(まだ時間まで十分弱あるけど入っていいのかな…)
店の前で逡巡して立っていると、視覚障害者用の杖をついた若い男性が歩いてきた。
涼しげな薄水色の着物に、艶やかな黒髪、レンズにわずかに青みの入ったメガネをかけている。
(この店に入るのかな…)そう思って店から一歩下がると──
(…!
…この人…墨の匂い…と…。
なんて…色してるんだ…)
ユラユラと細くゆらめく蝋燭の炎のように、静かで繊細なベールがその人を包んでいる。その色は刻一刻と変わる。
足元にあった蒼い炎は次の瞬間には目元に上昇し、入れ替わるように強い日差しに照らされた白波のような渦が腰の上まで押し寄せている。
緋──朱──紅──赭──赫灼たる炎を背に纏い、その熱があたりに風を起こしているようだった。
「あの…!ひょっとして、仙賀さんの…」
その人は杖をトンとつくと、メガネをはずしてこちらに顔を向けた。
「あぁ、やっぱり君が『碧くん』やね。僕もそう思ったんやぁ」
「…え!?」
「あー雀雲さん!今日はおおきに」
声の方に目をやると仙賀さんと透、それに真紘露が揃って歩いてきた。
「仙賀さん!…と真紘露さん…先日はすみませんでした!あと、今日はありがとうございます!」
「あ〜!碧くん、今、なんでこいつまでいるんって顔したやろぅ!」
下げた頭をまるでバレーボールを掴むかのように真紘露の手が覆った。
「うわ!して…してないっす!」
「ちょっと真紘露〜碧のこといじめないでよ」
「いじめてなんかしてへんよ〜。後輩可愛がっとるん」
「碧くん、こちら、書道家の雀雲さん。ちょうど会えてよかったわ」
真紘露の手をどかしながら仙賀さんがその人へ視線を促した。
「あ、はい!多比良 碧です!今日はありがとうございます!」
「ほな、入り口にいるのもなんですし、はよう店入りましょか。雀雲さん、入り口、ちょい暗いですけど見えはります?」
「うん、大丈夫。おおきに」
「碧くん、雀雲さんは色覚障害と視野欠損があってなぁ、傍から見る分にはあんまりわからへんかもしれんけど、足元とか、気い付けたってな」
そう言われた側から、その人は早速入り口の上がり框につまずきそうになった。
「あ、雀雲さん!手、俺の肩つかまりますか?杖持ちます!」
「わぁ、ありがとう。気いきく子やねぇ。ほんなら、お言葉に甘えて」
肩に乗せられた手はじんわりと熱かった。
(この人も年齢不詳だ…でも、先生たちより年下かな…)
「どうぞ、こちらにお席ご用意させていただきました」
案内されたのは四条大橋と鴨川が真っ直ぐ見渡せる納涼床と呼ばれるテラス席だった。簾で仕切られており、周りの席から視界が遮られているので、ゆったりできる。
「ここの鰻屋さんはね、仙賀くんが修行したところなんだよ。三年くらいだっけ?」
西陽が肌に籠らせる熱を沈めるように、透は扇子で首元を扇いでいる。よくよく見るとこの席のビジュアルを他の客が目にしたら、ざわめきが止まらなさそうだ。
「そやな、大学でバイトしとった時からやから四年くらいちゃう?あ、碧くんはウーロン茶とかでええ?」
仙賀さんと真紘露さんは早速ビールを頼んでいる。
「あれ、ここ江戸前鰻って書いてありましたけど、仙賀さんのは蒸さない関西の鰻の焼き方ですよね」
「お、流石碧くん、よう覚えてくれてはって嬉しいなぁ。江戸前の鰻もちゃんと勉強しとかな思てな。
せやけど、ここの鰻、蒸し加減抜群やで。地焼きが好きな西の人間も納得する思うわ」
頼んでいたビールが届き、一気飲みした仙賀さんは機嫌が良さそうだ。もうだいぶ蒸し暑くなってきた京都の七月は、全方位から蝉時雨が降り込んでくる。
「ここの納涼懐石もええで。この景色との調和を考えられとる」
「調和ですか…」
「せんちゃん、僕にもう一杯ビール!」
「は〜自分で頼めや。まったく、すみませ〜ん」
(フジ先生や真紘露さんは茶道家という職業なのだろうか…)
──あの先生は、藤の家の血筋というか嫡子・当代の長男や。参考にならんやろ。
それこそ、碧が嫌な思いするだけや。
千歳のあの冷たい目が脳裏に浮かぶ。言われてみれば確かに血筋じゃない人から話を聞いた方が、自分の気持ちを理解してくれるのかもしれない。
──先附、向附、椀物、焼き物と出され、しばし談笑が続いた。
「あれ、そういえばフジ先生と真紘露さんは雀雲…さんと、元からお知り合いなんですか?」
碧は会話の合間に、気になったことをふと声に出してみた。
「いや、この間たまたま三人がうちの店で居合わせてん。んで、すぐ碧くんの話題になったんよ」
「そうだったんすね」
この二人が、また自分の家の近くにいたのかと思うと、なんだか落ち着かない。
「ほんなら、そろそろ今日の本題やね」
仙賀さんは雀雲さんへ視線を向けると同時に、彼の手元にあった緑茶の氷がカランと揺れた。グラスから流れる水滴が光を動かす。
「目があんまり良くない僕が書道家なんて、変やろぅ?」
その人は金魚の絵が描かれた団扇を揺らしながら碧の方を見て笑った。相変わらずその人から立ち上る色はまばたきよりも多く揺らめいて変わる。
「いや、そんなこと…全然ないです!
ただ…書道始めたきっかけとか、色々…知りたいです」
その人はグラスを傾けて氷を回した。
「うーん、そやねぇ。
書だけが、何もなかった自分に『おもろい』ってことを教えてくれたからかなぁ」
その人は、鴨川の河川敷を行き交う人なのか、川の流れか、対岸の枝垂れ桜の葉が靡く姿かを、ぼんやりとその視界の中に入れていた。
「僕の目ぇはね、後天性というか事故なんや。
もともとはね、油絵を描いとったり、ミクストメディア作ったりしとったんよ。
あ、僕、京都芸大出身」
その人はグラスを回しながら続けた。
「高校の頃までやりたいこととかなんもなくてなぁ、勉強も運動も中の上くらい?ダラダラ過ごしとってん。でもな、絵を描き始めたら、なんやこれ、自分に向いてんのちゃうかなぁと思うようになって、なんとなくその道を選ぶことにしたんや」
碧は、その人の色が言葉と共にゆっくりと灰色に濁っていくのを見ていた。
「絵は好きやったけど、あ〜このままアーティストとか、デザイン会社とか、広告代理店とか…そういう方面には到底行けへんやろな…って思ってしもうて」
* * *
そう、自分の才能を信じられへんかった。
ていうか『才能』ってなんなん。好きだけでやってられる世界やないっちゅうことが、芸大に入った瞬間に全身に刻まれた。
また、やりたいことが、無くなってまう…。
あれ?ちょぉ待って。僕って絵描いたり、なんやいろんなもん貼っ付けたりするんが『やりたいこと』やったっけ?
表現すること。芸術とかアートとかってそういうことやけど、僕は何を表現したいん?
あぁ、あかん、なんや、自分が描いてる絵の色…見えんくなってきた…。




