第八十六服 祇園祭と川床
「うわーやっぱ綺麗だな!」
祇園祭の魅力の一つである宵山。
いくつもの提灯が山鉾に掲げられ、祇園囃子の鉦・笛・太鼓が織りなす『コン・チキ・チン』という音色と共に淡い光を放つ。
京の街に本格的な夏の訪れを告げる宵の風景だ。
「すげー!俺初めて見た!来れてよかった〜」
光瑠は数学以外の赤点は免れたものの、その他の教科の点数も赤点スレスレだったため、父親の逆鱗に触れた。
今日も危うく出られないところだったらしいが、夏の学習塾に行くことを約束して何とか抜けてきたということだった。
「光瑠んち、お父さん帰ってきてんの?」
「そうなんだよ、文化庁でなんか長い会議があるからって、二、三週間くらい家にいる予定なんだって。成績見せたらブチギレでさぁ。家出る時めっちゃ睨まれたよ」
あの強烈な冷たい目を思い出すと、光瑠じゃなくても背筋がヒヤリとする。
「なんや光瑠、お前今回の期末あかんかったん?碧にめっちゃ勉強付き合わせてへんかった?」
寺崎は碧の奢りで買った屋台のカスタードあん入りたい焼きを頬張りながら光瑠を見た。
「いや〜面目ない…俺はみんなみたいに勉強できなくてさぁ」
光瑠は絵に描いたようなトホホな顔だ。
「いや、おれも今回はあかんかった!多分クラスでケツの方や」
「あ〜俺も。なんや今回難しかったよなぁ」
いつもつるんでいる同じB組の柳原と東も宵山に誘ったら、二つ返事で来てくれた。
こうは言っていたが、二人の成績は決して悪い方ではない。ただ期末をナメていただけのクチだ。
「あ、そういやさ、ババァに八月の予定聞いてみたんやけど、お盆本番前の七から十日ならいいって。
五山送り火も混むやろうし。その辺でもええ?俺も行ってみてぇし」
「お、マジで!やった!光瑠は?」
「あ〜俺は…。父さんが…許してくれないかも…」
「うーん、そっか…」
「でも早めに宿題終わらせたらいけるかも!もうちょっと粘ってみる!」
相変わらず光瑠の父親を攻略できるアイディアが見つからない。
千歳先輩が前回提案した美大や芸大への進学も乗り気ではなさそうだが、それがなぜなのか質問するタイミングがわからない。
やはりその進路は父親という火に油を注ぐ可能性が高いのか…。
「何、お前ら夏休み何かするん?」
先を歩く柳原と東が牛串を喰みながら振り返る。
「俺の親父が今仕事してる香川に呼ばれてるんだよ。ヤナとアズ、お前らも来ねぇ?」
何となく『来ないだろうな』と思いながらも、念のため話を振ってみる。
「七日から?あ〜わからんけど、行けそうやったら連絡するわ」
「アズ、お前は引きこもってオンラインでスプラ三昧やろ。俺は確かその辺の日は親戚きとるから無理やなぁ」
「はは、だよな」
つるんでいるとはいえ、こいつら二人と一緒に遠出するイメージがあまり湧かなかった。
ただ、寺崎と光瑠なら長い時間を過ごせる気がしたし、二人と並んで見る景色や、その時に流れる空気を共有できるように思えた。
「テラ、香川の旅程決めようぜ!光瑠も、なんか説得材料俺も考えるからさ!」
と威勢よく言ってみるものの、相変わらずノーアイディアのままだ。
今日は七月十六日だから、八月七日まであと三週間。その間、光瑠との旅を許可してもらえるようにできないだろうか…。
山鉾の中で楽隊が紡ぐ祇園囃子が烏丸通を覆い尽くしていく。
囃子のリズムが少しずつ速さを増すにつれて、それらを彩る無数の提灯の明かりもその鼓動に応えるようにチラリチラリと揺らぎを強める。
「なんや、俺らいつもヤローばっかで遊んでるよな。こんな祭とか女の子と来たいよなーめっちゃイチャれるやつやん」
東はいつの間に買ったのか、ホットドッグを食べながら、足元にあった小石を蹴り上げてそう呟いた。
「あーそれ言わんといてーオレまだ遠藤さんのこと引きずっとんのやから」
寺崎は腕で目元を覆って派手にのけ反った。こいつは身長も高いし男前だから普通にモテるはずだ。
東も柳原も仲の良い女の子の一人や二人いそうなのにな。と彼らをじっと見つめながら首を傾げた。
「光瑠くんは気になってる子とかおらへんの?」
光瑠がB組に顔を出しているのを何度か見ていた柳原だが、話すのが初めてだからか、気を遣ってさっきから光瑠くんと呼んでいる。
「え?!オレ?!」
明らかに顔を赤くした光瑠の表情が、そのまま答えを示していた。
「あ、オレ当ててやろか。あの茶道部のショートカットの先輩やろ」
寺崎はなんの悪びれもせずにサラッと言うものだから、光瑠も一瞬あれ?という顔をしたが、そう言われてハッキリと自分の気持ちを自覚したらしい顔になった。
「えー先輩?!大人やなぁ光瑠くん!」
「い、いや、そんなんじゃ…!!」
焦る光瑠がなんだか微笑ましい。
いつもなら恋バナになるとあっという間に圏外のところに飛び立って俯瞰しながら、その光景をくだらないと見ていた自分だったが、今はみんなの、それぞれの表情の色を追うのが楽しい。
「テラお前なんでわかったの?」
寺崎が茶道部に来たのは、光瑠と喧嘩した日だけだったはずだ。
「そら、オレは人を見る目あるからなぁ」
寺崎はニヤリとしながら振り返った。
「使い方違くね?」
「つまり、それだけ人をよく見てるってこと!」
「こわー!テラ怖いわー。オレ好きな子できても絶対バレんようにしよー」
柳原が二、三歩遠ざかりながら笑った。
その時、スマートフォンの着信音が鳴った。
【月曜日、鴨川の床に行こう。このお店に午後六時にね】
リンクと共に送られたそのメッセージは透からだった。
【仙賀くんから、碧にって】
二日前にその人から受け取ったメッセージは、仙賀さんからの食事の誘いだった。
仙賀さんが以前話してくれた共感覚のある書道家の先生が店に来た際に碧のことを話したところ、是非会おうと言ってくれたのだった。すぐにお願いしたいと返事をした。
あの日のことを、仙賀さんに直接会って謝りたかったし、共感覚のことを聞いてみたい。しかし…
(床?ゆか?とこ?え、めっちゃ怪しい響き…俺まさかついに…あの人に…あ、いや書道家の先生がそっち系…)
いやいや…!んなわけない。と慌てて調べてみると、川沿いに店を構える飲食店が、より川の涼を楽しめるようにと川面の上あたりまでせり出して作られた屋外席、座敷のテラス席のことを指す、京都の夏の風物詩なのだと知った。
(地域によって呼び方が変わるのか…)
鴨川西岸、二条から五条にあるのは『かわゆか』で、店から張り出した高床式桟敷が主流であり、貴船と高雄は『かわどこ』と呼ばれる。
(そういやこの時期の鴨川はそんな光景だったな。あれ『床』っていうのか)と、たった今知った知識になんだか少し感心した。
日常に当たり前のようにあって、気にも留めなかったことが、ふとした拍子に頭の引き出しに仕舞われる。何も考えずに過ごしてきた自分の頭の中に、勉強以外の知識が入ってくることが、こんなに周りの景色を変えてくれるなんて、鮮やかに見せてくれるなんて。
「碧〜?どしたん?スマホばっかいじって〜彼女?あ、彼氏か?」
「おい!どっちでもねーわ!」
「冗談やて〜あしたの山鉾何時いく〜」
書道家の先生との約束は三日後の月曜日。
初めての川床——まだ触れたこともないその夜の景色を思うと、密かに鳴り始めた胸の奥を意識せずにはいられなかった。




