第八十五服 夏休み
菅原道真の力か、猛勉強の甲斐あってか、光瑠の赤点は数学の一件だけに留まることができた。
七月一日から、途中土日を挟んで七日まで五日間の期末テスト期間が終了した。
全ての答案が返され、赤点の生徒用の補講期間を終えると夏休みが始まる。
途中から集中力の切れていた茉莉は四教科も赤点を出していたので、道真公の力及ばずであっただろうか。
自分の成績はそれなりだったが、今回は寺崎に負けたので、何か奢らないといけない。
テストで負けた方がなにか奢るというのが、中学で引っ越してきたばかりの碧が寺崎と仲良くなるきっかけだった。
(そういえば、もう祇園祭が始まっているっけ…)
夏休みが始まる前日の七月十六日は宵山、次の日は山鉾巡行が行われる予定のはずだ。昨年はテラたちと賑やかし程度に見に行ったが、今年も行くのだろうか。
(行くなら光瑠も誘いたいな)
人混みは苦手だけれども、伝統の技法で作られた山鉾が街を通るエネルギーから伝わる熱と、提灯の明かりが連なる宵山の幻想的な姿に、去年はしばらくの間見惚れていたのを覚えている。
光瑠は京都に引っ越して初めての祇園祭だろう。
(それも、そうだけど…)
【碧、悪い。撮影長引いてて、八月帰れないかも】
親父からそんなメッセージが届いた。
親父が帰ってくる八月に向けて碧は、密かに行きたい場所や、やりたいことをネット検索してはリスト化していた。
【そっか、残念】
残念。親父が帰ってこない事に対して、この二文字を送る日が来るなんて。
いつもならきっとOKの絵文字だけを返していただろう。
なんなら帰宅の予定すら共有されないことがほとんどだったので、親父と会う予定なんて気にしていなかったはずだった。
仕事なので仕方がない。落胆というほどではないが、喉の下あたりにジワリと滲む何かは寂しさが引き起こしたものなのに間違いはない。
(親父、大会も観に来られないかなぁ…)
ベッドにごろんと寝転んで、スマートフォンのメモアプリにブックマークしていたリストをスクロールする。そこにある文字を追いながらスルリと流れ落ちた嘆息が、自分の気落ちの度合いを示しているようだったが、高校生にもなって親父を恋しく思うような自分に対する気持ち悪さもあった。
(夏、何しよっかなぁ。一人旅にでも出かけるか…。ていうか去年は何してたっけ)
夏休みのあいだ、驚くほど茶道部の部活動がない。
というより、夏戦の前に一日二日程度お点前のおさらいをするだけで、あとは自主練なのだとか。おさらいの日はまだ未定だ。
千歳先輩は模試がA判定とはいえ受験勉強だろうし、部長不在だとまとめ役がいない。
銀次郎先輩も、雪先輩も店のことで忙しそうだしな…。
(とりあえずテラに宵山に行くのか聞こうかな)
【明後日の宵山と次の日の山鉾行く?】
【お〜いこ〜!店あるから、宵山は一時間くらいやけどええ?】
【うん。光瑠も声かけてみようと思ってんだけど】
【お〜ええやん。一緒回ろ〜】
返信の早さからか、ふふっと自然と綻ぶ口元に気づいて、誰も見ていないのに、その緩んだ唇を手で覆った。
なんだか今年はいつもと違う。自分から誘ったり、予定を聞いたりするなんて。
【光瑠、祇園祭テラたちと行こ。明後日の宵山とその次の日の山鉾】
(…そっか、去年の夏はやることなくて、部員の少ないハンドボール部の夏の試合に助っ人でベンチにいたんだったな。たまに試合に出たけどなんか意外と勝ち進んだな。サッカー部にも遊びに行ったっけ)
中高一貫の京絹学院では、高校受験がないので中学三年の夏は暇である。
体を動かすのは好きだ。今でも早く起きた朝は軽いランニングに出かける。
チームスポーツは、相手と仲間の力量を測れば自分の動きをある程度頭の中で描けばいい。そしてそれが思い通りになった時は気持ちがいいのだ。
でも、茶はそうじゃない。スポーツみたいな快感とかもないし、頭に思い描いた動きができても、それはただなぞっているだけで憧れたそれじゃない。生み出すものとか、そこにある空気とか、五感の隅々まで浸潤するような感じとか、今まで一度も経験したことがない。
その先を見てみたいし、それが積み重ねてきたことをもっと知りたい。そして…
(何のために…誰のために…かぁ)
この言葉の…行方を突き止めたい。そもそもこの要素は茶をやるのに必要なのだろうか。
確かに『もてなしの心』が茶の真髄であると何度も言われてきた言葉だったが、そうだとするなら毎回客がいないと成り立たない。
それが茶の道なのだろうか。そうであるならば、一人で飲む茶は何のために…。
(…なんだか哲学ちっくになってきたな)
ゴチッ!
顔面に降ってきたスマートフォンの衝撃で目が覚めた。仰向けになりながら特に何かの目的もなく画面を眺めていたらいつのまにかウトウトしていたらしかった。
「あ〜いってぇ。あ、やべ…風呂入んねぇと」そう言いながら起き上がるとスマートフォンの画面にいくつかのメッセージ受信の通知が来ていたのが目に入った。
(…?なに?…光瑠は祇園祭来る。あとは……!)
【テラ、八月でどこか店休める日ない?】
【光瑠は八月は何してんの?】
急いで、二人にメッセージを打った。
【碧、香川遊びにこいよ。いいところだぞ。都合よければ、友達連れてさ】
一緒に行こうぜは、あったけれど遊びに来いなんて。残念と伝えた碧に、親父は何を感じたのだろうか。
(まあ、もう高校生だしな)
(あ、あとは…こっちにも返事…!)
もう一つのメッセージを開き、内容と日程を確認する。
【ありがとうございます。空いてます。お願いしたいです】
何をしようか…と思っていた夏が一転、思いもよらないメッセージで、何だか急に忙しない心持ちになった。
二人からの返事を待つ間、スマートフォンをぎゅっと握りしめていた。




