第八十四服 北野天満宮
次の日。今日は用事があって勉強会はナシと千歳から言われてしまったので、寺崎にも付き合ってもらいながら、少しだけ光瑠と教室で勉強してから、帰路についた。
家の近くのバス停の二つ手前で降りて、いつもの八百屋に向かう。
「おやじさん、久しぶり。最近お店にいなかったね。」
店頭にいたその老人は腰を曲げたまま、にこやかな顔で碧のほうを振り向いた。
「あぁ碧くん、久しぶりやなぁ。ちょっとぎっくり腰が治らへんくてなぁ」
「え、もう大丈夫なんすか?」
おじさんがいない間は、息子さんのお嫁さんらしき人が店頭に立っており、あまり愛想が良くなかった。
「あぁ、もうすっかり良くなったよ。碧くんのほうこそ、友達とは仲直りできはったん?」
グーを作って腰をトントンと叩き、碧を見上げてそう聞いた。
(あ…。そういえば大会の次の日にこの店に来た時に、、仙賀さんのお店での出来事のすぐ後で、めちゃくちゃ不機嫌な態度をとってしまったんだ…)
「そう…っすね。今は、少しずつ向き合えるようになりました。
(あの時はケンカじゃなかったけど)
すみません、あの時は、ぶっきらぼうな態度で…」
「仲直りできたんやったら、良かったわぁ。
なんや、何かを一つ乗り越えたからか、また一つ男前に磨きがかかったんやないの。
こりゃクラスの女の子たちが黙っておらんなぁ」
「ぇえ?いや…」
大人の揶揄いになんと答えたらいいのか戸惑う碧に、老人はヒヒと笑って、並んだ野菜たちに目を向けた。
「今日はなぁ、京オクラが美味しいで。それと水菜と、あとトマトとかいっしょに入れておくなぁ」
おじさんはいつもの通りに、おすすめをヒョイヒョイと紙袋に入れていく。
「そや、さっきトウモロコシ茹でたんがあるから、それも持っていき」
「ありがとうございます。前にも教えてもらったトウモロコシの炊き込みご飯、これで作ります」
おやじさんはニコッと笑って店の奥に行き、茹でたばかりのトウモロコシをネットに入れて渡してくれた。
中二の時からおやじさんは野菜を使ったいろんな料理を教えてくれる。
茶をやるようになってから、季節の食材や料理について昔より興味を持つようになっていた碧は、おやじさんの話を聞くのを楽しみにしているのを自覚していた。
(テラとか、銀次郎先輩と旬の野菜の話…してみたいな。高校生っぽくないけど…)
「そや、碧くん。碧くんの高校もそろそろ期末試験やろ。うちの中学生の孫娘が必死に勉強しとる言うとった」
「はい、来週の7月1日からです。最近友達と一緒に勉強三昧っす」
おやじさんはまたニコッと笑って碧の肩に手を置いた。
「このあと、ちょっとだけでも北野天満宮に立ち寄ってみるとええよ」
「何かあるんですか?」
「今日6月25日は学問の神様・菅原道真公の誕生日やから『御誕辰祭』の日や。
祭典は午前中に終わってもうたけど、今日のこの日にお参り行くんは、きっと道真公も、いつもよりもっとええことしてくれはるよ」
そういえば、そんなようなポスターが町内の掲示板に貼ってあったのを思い出した。
道真公を御祭神としてお祀りする総本社である北野天満宮では毎年、生誕祭として『御誕辰祭』を斎行しているのだ。
「それにな、御誕辰祭は別名『夏越天神』ともいって、京都内で最大の5メートルにもなる、でっかい『大茅の輪くぐり』が掲げられるんや」
「おおちのわくぐり?ですか?」
初めて聞く、言いにくい言葉だ。
「なんや、碧くん、知らんのかいな?
素戔嗚尊をもてなした蘇民将来が、命の教えに従って、腰に茅の輪を下げたところ、その子孫まで永く災厄が起こることなく栄えた。——この神話に由来する神事や。
境内に掲げられた大茅の輪をくぐって、その身についた「罪や穢れ(けがれ)」を落として、これからの半年の無病息災を祈るんや」
「へぇ」
素戔嗚尊って何の神様だっけ…と考えている時点で安易にお参りに行くなど逆に罰当たりな気がする。
まぁせっかく教えてもらったことだし…と、トウモロコシの良い匂いを鼻先に感じながら、おやじさんに頷いた。
(これはちゃんと調べてから行かないとな…)
「ありがとうございます。行ってみます」
「学問のお祈りと一緒に、無病息災も祈願してくるとええ」
おやじさんは最後に伏見とうがらしをおまけに袋にポイっと入れて、見送ってくれた。
パンパンに野菜が入れられた袋と、トウモロコシが入ったネットをぶら下げて、制服のままお参りするのは憚られたので、一度家に帰って着替えてから行くことにした。
時刻はもう午後六時十五分を回っていた。
「千歳先輩の京大合格と、光瑠と茉莉の学業向上と…ついでに俺の分もお願いしておこっか」
誰かに聞いた『五重に縁がありますように』という理由で、いつも五十円玉をお賽銭として持っていったが、五十円玉がそんなにたくさん家にあるわけはなく、仕方なく十円玉を何枚かと思ったが…。
(…いや、ケチって菅原道真の機嫌を損ねるのもなぁ…)
そう思い直して五百円玉一枚を握りしめて北野天満宮まで小走りに向かった。
表参道には屋台や出店などが軒を連ねていて、神事というよりは夏祭りのようで、すごい人混みだった。
静かな北野天満宮が好きな碧にとっては、少々意外な光景だった。
歩みを進めると、楼門にはおやじさんが言っていたように、茅で作られた巨大な輪が設置されている。
(あ、そうだ…素戔嗚尊…って…)
──素戔嗚尊(すさのおのみこと、須佐之男命)
日本神話に登場する海原や嵐(暴風雨)の神様で、伊弉諾尊の子で、最高神である天照大御神の弟。
出雲の国に現れた八岐大蛇を退治し『草薙剣』を獲得。
それを天照大御神に献上し、のちに国の礎を築いた…というのが有名な神話。
(…嵐の神様だったのか…)
厄除けということだし、自分の周りに嵐が起きないように祈ろう…と考えた途端、美形妖怪とその弟・光瑠のお父さん・おじいちゃん・福井北陸の子…嵐のような人物が何人も浮かんだ。
(平常心でいられますように…)
くぐるだけで厄除けになるので、本来は願い事をしながらではないのかもしれないと思いながらも、どうしても心の中でつぶやいてしまった。
(せっかくならみんなの厄も落ちますように…)
周りはカップルや友人グループ、家族連れで賑わっており、一人で来ているのは自分くらいだった。
(もっと早めに知っていたら、光瑠も誘ったんだけどなぁ)
本殿の前には参拝する人たちが列を成していた。
行列が苦手な碧だったが、仕方なくその列に並ぶ。
行列の進みは驚くほど遅かった。
さすが学問の神様、受験生らしき人もかなり並んでいる。しばらく経った頃、西陽が眩しいことに気づき、見上げると鮮やかなオレンジと紫色の夕焼けがその濃さを少しずつ増していた。まだ明るい空と紫色の境目は白くぼやけていて、藤色をしている。
ようやく賽銭箱の前に立つと西陽に照らされて、投げ込んだ五百円玉がキラリと光った。
みんなと自分の学業成就を祈って、少し息を吸い込んでから本殿に背を向ける。
お守りも買っておこうかと考えたが、お賽銭の五百円しか家から持ってきていないことに気づき、帰る選択肢しかなかった。
(誰かにお守り買って行こうなんて、考えたことなかったなぁ。ま、結局買えてないけど…)
境内を抜けようとした時、ふと思い出したように足を止めてくるりと向きを変えた。
実は碧の家は、北野天満宮の表参道を通らなくても、もみじ苑を通り抜けて鶯橋を渡れば、裏道を抜けてすぐなのだ。とはいえ、裏道は薄暗いので普段はあまり使わない。しかしまたあの表道の人混みを抜けるのには気が進まなかったので、裏道から帰ることにした。
ところがその思いとは裏腹に、もみじ苑の方も人がごった返していた。
(あわよくばホタルの名残が見られないかなと期待したけど…。それどころじゃなさそう…あ…!)
もみじ苑の人混みと逆の方向を進む碧を、周囲は煩わしく思っているようだったが、それよりも自分を導く一つの小さな光が消えないように、その足を早めた。
京都に移り住んでから毎年の密かな楽しみだったこの光は、何だか今日は全く別のものに見えた気がした。




