第八十三服 伊勢谷
その日の夜、千歳は湯船に浸かりながら四年前のあの日を思い出していた。
──「いい?綾乃。あなたは、伊勢谷を守るために、真紘露さんと婚約するのよ」
中学二年の時、朝起きると居間からそんな話し声が聞こえてきた。
「真紘露さんは藤家のご次男だから、うちに婿養子にもろてもええて、当代が言うてくれてはる」
千歳は居間に入ることができずその場で廊下に立ちすくんだまま、嫌悪という感情で練り上げられた硬い石ころのようなものを両手に握りしめて、ただその会話を聞いていた。
「これで、藤家とうちとのご縁は安泰やし、経営もうまくいくやろう。
伊勢谷の経営は女がやるもんやあらへんし、あんたは店に出てご贔屓さんたちにええ着物をちゃんと渡してもろてればええんやから」
そう言って母親は朝ごはんの支度をしに台所に向かった。
「お姉ちゃん!なんやの今の話!」
姉の綾乃とは年が八歳離れており、今年大学卒業を控えていた。
若者の着物離れ、経済不況、職人の減少など、あらゆる要素が呉服屋を倒産に追い込んでいる中、千歳の実家である『伊勢谷』も例外ではなかった。
綾乃は、着物が大好きだったし、伊勢谷を心から愛していた。将来は伊勢谷を担おうと大学では経営とマーケティングの勉強に励んでいた。
しかし古い思想を持つ両親は、伊勢谷の当主は当然男であるべきだと考えていた。呉服屋は京都で力のある旦那が主でないと箔がつかない。女が経営に立つことなどあり得ない――そういう固定観念に縛られていた。
娘二人だけだった伊勢谷では、必然的に婿養子を迎え入れる流れとなり、縁談は藤家の真紘露のところに持ち上がった。
何代にもわたって付き合いのあった藤家の人はよく店に出入りしていたので、千歳も幼い頃からその家の人らを知っていた。
姉の二歳年上だった真紘露は、姉と同じ高校の先輩でもあった。日本舞踊部に入っていた姉と顔を合わせるたびに着物の着方について、ちょくちょく言い争いをしていたような印象がある。
「ちー、なんや聞いとったん? 恥ずかしいわぁ…」
「いや、恥ずかしいって…お姉ちゃん、伊勢谷継ぐってあんな張り切って勉強してたし…。真紘露さんとは仲悪いし…それに…」
「…千歳」
「高校の頃から、ずっとお付き合いしてる人おるやんか…!」
「うん、伊勢谷守るために…お別れせなねぇ」
「お姉ちゃん!!」
「真紘露さんのことも、別に嫌いやないよ。ちょっと変わっとるけどねぇ」
「いや、あの人めっちゃ変な人やん。なんか、こう何考えてるかわからへん…狐みたいな…。
そや、伊勢谷乗っ取られるかもしれんよ!?」
「はは、ちー、なんやアニメかドラマ見すぎちゃう?」
「いや、それよりも…お姉ちゃんは、ほんまにそれでええん?!」
「仕方ないやろ。そういう家に生まれてんから。
うちは、伊勢谷が守れるんやったら、それで幸せなんやから」
そういう綾乃は全然幸せそうじゃなかった。
中学生の頃から頭が切れ、勘の良い千歳は、それが政略結婚であり、両親の勝手であり、姉の望まない未来だということがわかった。着物は好きだ、両親のことも好きだ、伊勢谷ももちろん好きだ…。だけど、こんなのは守るとは言わない。藤家の名前や資産を利用する他力本願は、それじゃない。それが家を守ることだと割り切る姉も理解ができない。
「今度、お見合いがあって、まぁ形式上のやけど。その後デートするんやって。真紘露さん、どんな感じのデートプラン考えてくれはるんやろねぇ?」
姉は、自分に言い聞かせているんだと直感した。どうにかできないかと、母親にこんなのはおかしいと直談判したこともあったが「千歳はまだ子供やからね。大人んなったら、きっとわかる」そう言って千歳の主張は宙を舞った。
…
「お姉ちゃん。今日のお見合いと、デートどうやったん?」
「ちーったら、も〜そんな野暮なこと聞かんの〜!」
お見合いから帰った綾乃に質問すると、その顔には少し安堵と、何か決意をしたような表情が浮かんだ気がした。真紘露とうまくやっていけそうだと思ったのか、腹を括ったのか…。
「千歳はな、自分の未来のことを考えたらええんよ」
綾乃がそう決心したのなら、もう何も言わない方がいいのだろうと思った。伊勢谷を想う姉の幸せなら、それも姉の選択なのだと考えを改めるようになった。
そこから順当に婚約の日取りなどが決められていき、姉の卒業の一週間後に結納が行われることになった。
ところが、綾乃が無事卒業を迎え、結納が二日後に迫ったその日、事件は起きた。
「えぇ?!なんやって…透露はんが…?!」
学校から帰ると、玄関に立派な男性ものの草履が置かれていた。
「透露は、藤家の当主を継がないと言って、家を出て行ってしまった。透露が戻るかどうかはわからないが…明後日の真紘露との結納は白紙にさせてほしい。申し訳ない」
(…!?)
「そんな…急にそんなこと言われても…!」
「申し訳ないと思っていますが、藤家を継ぐ者が不在というのは、歴史を大きく曲げてしまうことになる。ご理解ください」
そういうと、藤家の当代は深々と頭を下げて家を出て行った。
「あ、千歳…聞いていたの…。綾乃には、明日お母さんから伝えるから、まだ言わないでね…」
大きく一つ頷いた。当然だ。姉はずっとお付き合いしていた人とも別れて、いろんな決心をしてここまできたのに…。大人は…いや、血筋や家業というのは、なんて身勝手なんだ…。その日の晩は、姉と顔を合わせるのを極力避けた。
次の日、いつ母が姉にそのことを伝えたのかわからない。
姉はいつの間にか出掛けていて、その後、家に帰って来ることはなかった。何も言わず、突然姿を消したのだ。
たった一通、千歳宛のメールだけを残して。
【ちーちゃん。心配かけてごめんね。綾乃のこと許してね】
それ以来、綾乃との連絡は途絶えた。
なぜ姉が行方を眩ましてしまったのか、千歳には見当もつかなかった。
ただ、はっきりしていたのは千歳の嫌悪が、姉を散々振り回した挙句に失意の闇に陥らせた、家業の中に巣食う無意味な慣習と、それを弄んだ藤家に対して、とてつもなく巨大になっていったことだった。
両親が嫌いになったわけでも、着物や茶道が嫌いになったわけでもない。ただ、この悪習について抗うこともできない自分にも腹が立ったし、逆にそれに抗った透露の側杖を食ったことにも受け入れられない思いであった。
千歳は、自分に『伊勢谷を継ぐための婿養子を取るように』と言われる日がくることを常日頃危惧していた。そこから、自分のやりたいことは何か、姉の意思を継ぎ、伊勢谷を守ることなのかと思い悩む日々が続いた。結局、いまのところまだ高校三年生であるからか、そのようなことを言われずにおり、大学への進路について、親は賛成してくれている。
伊勢谷も、藤家とのご縁がなくなったわけでもなく、経営が傾いている様子も今のところは感じられなかった。
「高校二年に上がって、あの人が特別顧問として茶道部入ってきた時は心臓止まるかと思ったなぁ」
どくだみの葉を湯船に入れて大きく息を吸い込んだ。
銀次郎も雪乃も透露のことを昔からよく知っていたこともあり、最初のうちは冷静でいようと心がけた。実際にお点前の動作は本当に美しいと思っていたし、茶道における師として尊敬する部分もあった。
しかし、たまに嫌悪の念が抑えられない時があった。その感情が表情に出てしまうことから、銀次郎と雪乃には打ち明けた。
「二人にはいつも気ぃ遣わせてしまってるなぁ…」
最近は冷静でいられていたのに…。
「碧…。傷ついたりせんとええけどな…。あ、いやもう真紘露さんに一回嫌な思いさせられとるか…」
(心の炎症も、癒してくれたらええのにな)
消炎作用のあるどくだみ湯をかき回しながら、しばらくの間、千歳は湯船から上がることができなかった。




