第八十一服 進む道
「へぇ、ひかるっちのお父さんそんな怖いんやぁ。じいちゃんは、なんや面白そうやけど」
茉莉は勉強に飽きたのか、集中力が切れたのか、消しゴムを転がし始めた。
「怖いっつうか…大人の正論に反撃できねぇっつうか…」
「まぁ…確かに、親としては光瑠のこと心配するんは当然のことやけどなぁ…」
「う…」
千歳の実家に集まって勉強するのは今日で三日目だ。一週間後にはもう期末テストが始まる。
結局、千歳は数学以外の勉強も見てくれている。
烏丸御池から少し歩いたその場所にあるのは京都でも老舗の呉服屋『伊勢谷』である。創業は寛政年間だというのだから、ゆうに二百年を超える。京友禅と西陣織を主に、和装小物や茶道小物を扱うその建物の裏にある母屋はそれはそれは立派なもので、三十畳ほどある居間でいつも麦茶を飲みながら、四人で座卓を囲んでいた。
居間には立派な青磁の壺や西陣織のタペストリーなどが飾られていた。
話題はふと、光瑠の父親の話に移った。光瑠の苦手な科目である英語・数学・化学が悲劇的な出来だったことに不穏な空気が流れたのを、なんとか断ち切ろうと、同じくそのほかの科目も危機的な茉莉が不意に話題を振ったのだが、それは却って重量を増した沈黙をその場に留まらせる要因を作ってしまったようだ。
「俺の幼稚な反撃も、しっかり沈められたっす」
「官僚相手にそのやわやわな論理武装は効かへんわな」
「っすよね…」
あの日、なんとか光瑠の盾になりたいと思ったのは、力不足ながらも、これまでの自分と比べると大きな進歩ではあった。しかし、『納得してもらえるように作戦立てよう』なんて言っておきながら、今になるまでなんのアイディアも浮かばない。
「でも〜なんでひかるっちは焼き物のことは覚えられんのに、他の暗記はでけへんのやろね?」
「やっぱり『好きこそものの上手なれ』ってやつっすかねぇ?」
光瑠は英単語帳を眺めてはいるが、文字通り眺めているだけで頭に入っているようには見えない。なにしろ先ほどから新しい単語をかろうじて覚えても、そのそばからさっき覚えた単語がはらりと落ちて宙を舞う…を繰り返しているのだ。
「う〜ん…あ!そや…!」
千歳は何かを閃いたように口を開いた。
「光瑠さ、まだ具体的な進路は考えてへんのやろ?大学選びも」
千歳の一言に、光瑠は少し眉を吊り上げた。
「俺は、大学行かずにそのままじいちゃんところで本格的に修行するつもりなんです!」
光瑠は頑なに『じいちゃんの後を継ぐの一点張り』だったので、大学に行く選択肢など考えたことなどなかっただろう。
「やから、そこがお父さんを心配させる要因なわけやんか。
今すぐに継がなあかんことないんやったら、大学行きながら修行すればええやんか」
「今すぐに…う…あぁ…その」
光瑠は口ごもった。
そういえばいつだか、光瑠が『じいちゃんはもう長くない…』と言っていた。先日会った時はピンピンしているように見えたのだが、本当は何か重たい病気なのだろうか。
「もしかして光瑠のじいちゃんって、どこか悪いのか?」
打ち明けて欲しいという思いでそう質問したが、光瑠の目は次第に曇っていく。あの日、じいちゃんは俺に心配かけないよう、無理して元気な姿を見せていたのかもしれない、と急に胸の奥がザワついた。
「じいちゃん…実は…」
光瑠の眉がきゅっと縮む。
「まさか、癌とか…そういう深刻なやつなのか…?」
光瑠が言い淀む様子に、その場にいる三人も次に発せられる言葉を想像して思わず身構えた。
「もう…。
作陶…飽きたって…」
「は?」
「じいちゃん『もう飽きたし、そろそろやめよかな〜』って言うんだよ…」
光瑠はぎゅっと拳を握って目元を滲ませた。
「…なんだし、その理由…」
「飽きたって…」
「全然深刻とちがうやん」
心配損だった…と三人の心は共通だった。安堵と共に光瑠をジトっと睨みつけた。
「いや、深刻なんすよ!毎年そうやってじいちゃんが駄々こねるのを引き止めてんすよ!今年こそやめちゃうかもしれないってハラハラしながら、俺やっと高校に上がるタイミングでこっち来れたんですから!」
「いや、たぶん…というか絶対大丈夫だろ、それ」
「うん、会ったことないけど、あおっちの話からすると、じいちゃんはかまってちゃんぽいわぁ」
「光瑠、じいちゃんがやめたい言うてもそのまま留まらせとけばええ」
「え…え…。でも、じいちゃんいつも『うまい酒と飯がないとインスピレーション沸かん』とか、『同じことの繰り返しはつまらん』とかそう言う理由つけて、やめてやるって家出したりどっか旅に出ちゃったりすんだよ!だから、いつ本気でやめちゃうのか、俺心配で…!」
「光瑠…お前純粋な子に育ってよかったぁな。むしろ俺らの心配返せ。前回分も含めて」
「当分心配いらへんやろな…その感じやと」
「うちもひかるっちのじいちゃん、会ってみたいわぁ」
「え〜!?」
理解したのかしていないのかという返事ではあったが、いずれにしてもずっとお爺ちゃん子だった光瑠が、このまま手の上で転がされるのだろうと思うと、それはそれで微笑ましくもある。
(勘はいいくせに、騙されやすいのか。こっちの方が心配だわ)
「さ、じいちゃんの話は一旦置いといて、本題はここからや、光瑠」
千歳はいつものように、周りを鎮まらせて、キリッと光瑠に視線をやった。
「工芸や、工芸技術の分野が学べる大学を目指すんは、どうかと思ったんや」
思わぬ言葉が出てきたが、そこにいた全員がハッとした。
「工芸が学べる大学って、あるんですか?」
光瑠はいつものように目を丸くして千歳の言葉に食いついた。
「それはあるやろう。美大とか芸大とか」
「美大とか芸大…」
光瑠の反応は先ほどとは打って変わって心細そうな声に変わった。喉から出ていた手が急に引っ込んだみたいに。美大や芸大に抵抗があるのだろうか。
「光瑠って、じいちゃんの窯を守っていきたいって言ってたけど、それって将来陶芸家になるってことだよな? いいじゃん、美大とか芸大!」
碧が敢えてそう聞いてみたのは、光瑠から感じた違和感をもう少し明らかにした方が良いと思ったからだった、というよりは陶芸家になりたいという意思をはっきりと言葉にして出した方が、スッキリするのではないかと思ったのだ。
自分が迷っていた時に道標を作ってくれたように。ところが、光瑠は明らかにその言葉に戸惑っていた。
言われてみるとその道は陶芸家を目指すなら確実で王道のようにも思えたが、父親が陶芸の道自体をよく思っていないことから、さらに美大や芸大で芸術を学びたいなどと言おうものなら、さらに反対されそうにも思えた。
けれどもその壁を乗り越えないと『八代目を継ぐ』という意思を達成できない。それならば、後押しするべきだと思ったのだ。
「美大とか、芸大、調べてみようぜ!」
畳の上に転がっていたスマートフォンを取って検索画面を開くと
「いいよ、調べなくて!!」
と言って、碧のスマートフォンの画面を掌で覆った。少しテンパっている時の、光瑠の目と声だった。千歳も茉莉も、光瑠のその言動に二、三度まばたきをした。
「あ、ほら、俺の進路のことで勉強の邪魔しちゃ悪いし…」
光瑠の視線は明らかに止まり木をなくして空中を浮遊している。「どうした?」と聞きたかったが、光瑠はこの話を続けることを拒絶したいようだった。
碧の『よかれ』と思ってした行動は、光瑠の望んだものとまた違っただろうか。
そもそも進路のことなどなにも決まっていない自分がでしゃばり過ぎてしまったか…。
「…そういえば、千歳先輩は、なんで京…あ…!」
咄嗟に千歳に話を振ろうとしたが、京都大学に進むことを二人に伝えていない場合、それを碧の口から言うのは無神経だと思い直し、思わず口を噤んだ。
「ああ、ええよ、碧。気にせんで。気い遣ってくれてありがとう。
なんで京大の工学部に進みたいと思ったんか聞きたかったんやろ?」
「え〜千歳先輩!京大受験するんですか?!」
茉莉の三つ編みがびっくりした拍子に漫画のようにひょいと跳ねる。最近、髪の毛の色をパッションピンクからミルクティーピンクに変えたと言っていたが、正直違いが全くわからない。
「最初から京大に行きたかったわけじゃなくて、京大の工学部で学びたいことが見つかったんよ。というより、こういう先生のところで、こんな夢あることが学べたらええなって」
千歳はスマートフォンで何かを検索し、一つのニュース記事を見せてくれた。
「わぁ…」
一年生三人は、その小さい画面の中から『千歳のやりたいこと』と、それが創る未来を覗き見て、一気に胸が熱くなった。




