第八十服 期末テスト
「碧〜!」「あおっち〜!!」
放課後、部室の襖を開けるや否や、二つの塊が碧に向かって飛びかかって、必死な声を上げた。
「勉強、教えてぇー!」「勉強教えてくれへん?」
「え?!」
話によると二週間後に迫った期末テストに相当焦っているとのことだった。
前回の中間テストがかなりまずい結果だった二人は、今回はもう少し早めに勉強を開始しようと反省した様子だ。
光瑠においては今回一つでも赤点を取ると部活だけでなく作陶自体を禁止すると、あの父親から言われてしまったらしいのだ。
加えて、期末という事もあり『試験範囲が広すぎて絶望感ハンパない』と言う二人の顔面は、本日久しぶりに部活に現れた顧問の薄浅葱色の着物よりも、蒼白であった。
「教えてって言われても、俺も別に人並みだしなぁ…」
「ウソやん!あおっち特進クラスやし、なんなら前回の中間テスト50位以内に入っとったやん!」
「ほんと、オレらケツから数えた方が早いんだから!」
京絹学院のクラス分けは中等部から上がってきた奴らは中学の成績順、高校から入学組は入学試験の成績順で決まる。
230人いる一年生はA〜F組まであり、A、B組は特進クラス。ただし、F組が落ちこぼれとならないようにC組以降はバランスよく振り分けていると聞いていた。
とはいえ光瑠はD組、茉莉はF組なので、クラス内で差が開きすぎないように成績順で妥当なクラスに分けられているように見受けられる。
「お願いだよ碧〜!千歳先輩も、数学は得意だから教えるの手伝ってくれるって」
光瑠はいつものように腕に絡みついて懇願の顔をしている。
「千歳先輩ってひょっとして理系なんすか?てっきり文系かと思ってました」
「それ、よう言われる。
もう碧たちも文理の希望調査あった?」
「ありましたけど、まだどっちがいいかよくわかんなくて」
「よう考えた方がええよ。
何が得意かっちゅうのも、もちろんあるんやけど、大学に進むんやったら、やりたい事学べる学部に入れるかどうかにも直結するんやから」
大学…。高校に入ってまだ二ヶ月しか経っていないのに、突然目の前に降ってきた言葉に碧は全くピンと来なかった。
しかし、『やりたい事を学ぶ』というキーワードには微かな焦りを覚えたのだけはわかった。
「碧!それより今は目の前の期末試験!!マジで頼むよ!」「あおっち!ほんまにほんまに、人助けやと思ってぇ〜。なんなら、うちら赤点やと茶道部存続の危機になるんやで!」
右腕に光瑠、左腕に茉莉が絡みつき碧は完全に捕獲状態になった。
「うん」と言うまで離さないと言わんばかりの二人の気概に押されて了承せざるを得なかった。
「ウチがもうちょい勉強得意やったら手伝えたんやけど、ごめんねぇ碧くん」
雪乃が申し訳なさそうに二人が絡みついた碧に向けて両手を合わせた。
「あはは。大丈夫っす」
(千歳先輩がいてくれるだけでも、少しは肩の荷が下りる…)
「でも、そう考えると夏休みまでもう一ヶ月ってことやんな?早いなぁ」
七月一日木曜日から始まる期末試験は、土日を挟んで七月七日水曜日まで行われる。
試験終了後は答案返却期間が一週間にわたってあり、その後は補講と大掃除で、あっという間に夏休みが始まるのだ。
大学受験をしない銀次郎は留年さえしなければ良いと考えているようだが、赤点をとったことはないらしい。いつもほどほどの勉強量で合格ラインは死守しているようなので、勉強が出来ないわけではない。かといって教えられるほどではないと言って、助け舟を出すつもりはないらしい。
雪乃も大学へは行かずに専門学校で和菓子を学ぶらしいので、おそらく落第さえ免れれば問題ないのだろう。
「でも、千歳先輩も受験勉強とか、大丈夫なんですか?」
「まぁ、一応模試では今のところ第一志望の合格判定出とるしな。
とはいえサボらんと真面目にコツコツやるしかないしな。
せっかくやから、夏はもちろんやけど、冬の大会も出てから引退したいし」
『引退』
大学という言葉に次いで、もう今からそんなことを考えなくてはいけないのかと、さらなる焦燥感が碧を襲った。
それは『別れ』という現象に対して過敏に反応してしまう自分の性分が抜けきれていない部分も大いにあっただろうが、まだ高校生活も茶道も駆け出したばかりの中、姉御肌の千歳と兄貴分の銀次郎という、碧にとって心地が良く頼れる存在である二人が、あっという間に居なくなってしまう寂しさを頭の中で現実として明確にしてしまったからでもあった。
「一年のうちからオープンキャンパスはなるべくいろんなトコ行っといたほうがええで。
二学期入ったら三者面談もあるやろ?」
千歳先輩は、第一志望も危うくはないうえ、大学でやりたいことがしっかりと決まっているのだと、その口調から読み取れる。
横にいた光瑠から、三者面談という言葉にひどく怯えた様子が伝わった。
「ちなみに千歳先輩は、なんで銀次郎先輩みたいにご実家の呉服屋にそのまま入らないんですか?」
銀次郎や光瑠のイメージからか、千歳が休みによく実家の手伝いをしていると聞いているのもあって、家業がある家の人なのにそのまま継がないのか?と何も考えずに興味本位で口に出しただけのつもりだった。
瞬間。部室が凍てついた空気で覆われた。
正しくは、銀次郎と雪乃からの『その話題に触れてはいけない』といった強烈な目線が碧を串刺しにしたのだ。
そして、千歳の顔が凍りついたのである。
しかし、千歳はすぐにいつもの凛とした表情に戻り
「大学で学びたいことがあるんよ。呉服屋は、まだまだ両親が元気やから当分心配あらへんし」
そう言ってパンッと手を叩いて、お点前の稽古を始めようと号令をかけた。
一瞬ではあったが、あまりにも予想外な表情が瞼の裏に焼きついて離れない。
どう考えてもあの発言で千歳先輩を傷つけたのだ。あんな表情をさせてしまったからには、謝りたい。
しかし、本人に直に質問するのはあまりにも無神経だろうし、先輩方に千歳先輩に何があったのかと聞くのも配慮に欠けると感じた。
お点前の稽古はなかなか集中することができず、いつも通り何もしない顧問は、その日はいつもよりも口数が少なく『何もしないレベル』が増していた。
千歳はいつも通り振る舞っていたが、先ほどの凍りついた表情は口元にまだ張り付いていて、温度を取り戻したようには見えなかった。
帰り道、正門へ向かう途中に千歳が碧を呼び止めた。
「碧、ごめん、さっき…うち固まってしもうて。びっくりしたやろ?」
気まずそうに笑う千歳は、精一杯気を遣ってくれているようだった。
「まぁちょっと…うちの家もいろいろあってん。
でもほんまに、碧が心配するようなことは一つもあらへんから、気にせんでな」
「すみません!千歳先輩に気を遣わせてしまって…!めっちゃ無神経でした…」
「せやから、気にせんでええねんて。
ちなみにな、うちは京大の工学部を志望しとるんよ。合格するように応援してな、碧」
「はい!もちろん応援します…! え?京大…?!!しかも工学部?!」
美人でスタイルが良く、頭も良い…というより頭脳の次元がレベチだった。
『天は二物を与えず』とは嘘だ。とこの時にはっきり思ったのを覚えている。
しかし、さらりと大学の話題に移した千歳の配慮も含め、先輩二人の反応から、この話にはまだ奥深い何かがあるのだと、さすがに鈍い碧でもその漣を感じた。
光瑠と茉莉の勉強の進捗が思った以上に危ないと感じた千歳の計らいで、翌日から学校が終わったら千歳の家に集合し、集中勉強することに決まった。
さらに、来週の夏至の日が期末テスト前の最後の活動日になる上、夏休み中はほぼ茶道部の活動日はないとのことだった。
急に普段の生活から茶道が遠のいてしまうことに、碧は妙な寂しさを覚えた。




