第七十七服 何のために、誰のために
「じいちゃん、いきなりは難しいからさ、ちょっと碧に手本見せてやってよ」
「えぇ〜そんなんお前が小学生に見せてるみたいにやったらええやんか」
自分から言い出しておきながら、面倒くさそうに責務放棄をして楊枝を咥えた。
「光瑠、小学生に教えたりしてるの?」
「あ、そうなんだよ。つい最近やり始めたんだけどな。
叔父さん、母さんの弟さんがじいちゃんの窯の手伝いしながら、陶芸の体験教室みたいなのやっててさ、休みの日は俺も絵付けとか轆轤とか小学生になら教えてるんだよ」
「すげぇな!光瑠」
「そんなすごいもんじゃないんだけど…。まぁまずは、呉須を筆につけて、それで、この茶碗を見本に好きな絵柄を描いていけばいいよ」
そう言うといくつかの絵柄が描かれた茶碗を作業台の上に置いていった。
「光瑠〜お前つまらんやつやな」
老人はそう言うと、少し小ぶりな茶碗を一つ棚から取り出した。
「碧くん、しゃーない。手本見したる。ちょっと見とってな」
日本酒で気を良くして、とろんとした目のままの老人は、今から茶碗に絵を描くなどとは到底見えない。
「なんだよじいちゃん、ツンデレだな〜」
光瑠はそう言いつつも目元を膨らませて嬉しそうだ。
老人はその小ぶりな茶碗を両手で包み、親指、人差し指、中指…の順番で丁寧に撫でた。
すると、老人はゆっくりと目を閉じた。
光瑠を見ると人差し指を口元の前で立て、し〜っと碧に静かにするように促した。
老人は耳をすましているようだった。
本当に、その茶碗の声を聞いているように見える…。
老人の茶碗を撫でる指の動きが止まった。
その瞬間、目は閉じたままなのに、なぜか大きく見開いたような気がした。少しだけ開いた口元から、呼吸のようなものがこぼれ落ちたような気がしたが、それは人の呼吸だとは思えなかった。
呉須を筆につけ、ゆっくりと茶碗に何かを描いていく。
(あ…)
その手元は、前に見た…あの人の『舞』のような…。
川を流れる水のウネリのように、微風にしなる若枝のように、蝋燭の上で揺らぐ小さな灯のように…その手は、指は、時間の流れを歪ませるようにゆらめきながら茶碗の上で筆を運び滑らせる。
(やっぱり……妖怪…)
あっという間に茶碗一周が草花で埋められた。
コトリと筆が置かれ、老人の口から大きな息が吐き出された。
「見てたか?ほな、やってみよか?」
「え?」
「見とったやろ?」
「いや、見てましたけども、無理っすよそんないきなり…」
碧がそういうと老人は碧の耳をピンと引っ張った。
「当たり前やぁ〜!ワシと同じことができるわけなかろうがぁ!
そこの見本見ながら、真似して描いてみい」
(あ、そういうこと…。そりゃそうだよな)
「試しにこれ、『桜』描いてみい」
桜の枝に花が咲き、花びらが舞う絵が描かれた茶碗を指差した。
「碧、俺もそれ描く!一緒にやろうぜ」
光瑠は慣れた手つきでさらりと描いていく。
碧は美術も成績が悪い方ではなかったが、茶碗という曲面に描くことや、京焼という独特な風合いの絵は、なかなか形をなぞることができなかった。
そしてあの指の動き…映像では頭の中で再生できていてもそれらは手を動かしてくれない。
「碧くん、京焼はね、別に何も縛りはないんだよ。『これ』描いてと言ったけどな、これの通りに描かんでええ。自由でええんや」
その老人は立ち上がり、棚に置いてある茶碗たちを指で一つずつ確かめるように触れていった。
「茶道具を自分でこしらえるんは、ええことなんやで。
この茶碗を、どんな人が、どんな時に、どんな想いで使うか、想像する力が養われる」
老人は『桜』が描かれたいくつもの茶碗を取り出して碧の目の前に出した。
「これら全部、ちゃうやろ?
土からな、全部それを知るんや。土の声を聞くんや…。
その声から形を想像するんや。描く絵柄も茶碗から教えてもらえる。
そして、何のために、誰のためにそれを作るのか、描くのか、もっともっと想像力を働かせるんや」
声を…聞く…。
「耳をすましてみい…聞こえるやろ…?」
…。
茶碗の声を…。
「すみません…。
ぜんぜん…わかんないです!!」
「あはは!だよな〜!
碧ならもしかしてって思ったけど…!
やっぱじいちゃんが特殊すぎるって!」
光瑠は少しほっとしたのか、予想通りだったのか、笑いながらサラサラと筆を動かしていく。
光瑠の描く絵も繊細で美しかった。
普通に見れば、このまま商品になって売り出されてもおかしくないようにも思える。
しかし先ほどのようなじいちゃんの手つきを見せられて、光瑠が自分はまだ半人前だと思うのも仕方がないし、じいちゃんもまだまだと思っている態度だった。
(光瑠って、こんな綺麗な絵を描くんだな)
まじまじと見ると、それは本当に教科書のお手本のような美しい絵である。
光瑠が昔、小学校の美術の時間に描いたクジラの絵は、ベートーベンのような音楽が聞こえた。
(と俺が言ったらしい)それくらい光瑠はダイナミックで縛られない絵を描くもんだと勝手に思っていたが…。
そこに描かれているのは、光瑠らしい自由な雰囲気が感じられないのだ。
それは、見れば見るほど、『ただ』美しいだけだった。
と、人のことをとやかく言っている場合ではない。自分の筆も進めてみる。
しかし当然自分の絵からも、何も聞こえない。
と言うか、これまで自分が何かを作ったり、生み出したものから音が聞こえたり、色が見えたことなんてない。
急に、筆が止まった。
俺は…何のために、誰のために、この筆を動かすのだろう。
何のために、誰のために、茶をやるんだろう。




