第七十五服 洗礼 (キャラクターイラストあり)
「碧、ごめん、嫌な思いさせて…」
あの人と会話をしたのは、ほんの五分とかそれくらいのことだっただろう。
嵐のように二人の心をかき乱して去った後、もちろん光瑠の心は台風一過とはならない。
「碧には関係ないことなのに…」
光瑠は歯をギリッとさせた。
「光瑠、なんだよそれさっきから…」
「え?」
「関係ないとか、そんな寂しいこと言うなよ」
「だって…父さんと俺のことだし」
「それなら余計関係大アリだろ。光瑠のことじゃねぇか」
「碧…」
「俺だけ仲間ハズレにすんなよ。どうやったら光瑠の父さんに納得してもらえるか、作戦会議しようぜ」
「うぅ〜…あおぉ〜…」
光瑠はいつもの通り腕にぶら下がるようにして絡みつき、顔を擦り付けるので鼻水と涙でまたぐちゃぐちゃになる。
「も〜汚ねぇな〜」
すっかり銀次郎先輩の頭くしゃくしゃのスキンシップのクセが移ってしまったのか、光瑠の頭に手を置くと、じんわりと熱い。
「ていうか、俺ら光瑠んち入ったあと、玄関から一歩も動いてねぇじゃん。
早く鮑食おうぜ。じいちゃんどこいんの?」
「あ、じいちゃんは離れにいるはず…」
「え、光瑠んち、離れあんの?すげえな!」
「そこが、じいちゃんの工房なんだよ」
「あれ〜光瑠、いつ帰ってきたの?お父さんと会った?」
廊下を歩いてると光瑠のお母さんが取り込んだばかりの洗濯物が積まれた籠を持って階段を降りてきた。
「母さん!何処にいたんだよ! 俺さっき父さんにめっちゃ嫌味言われまくったよ!」
「え〜お父さんもう帰っちゃった?
あ、碧く〜ん!ひさしぶりね〜小学生以来!」
呑気な話し方とおっとりとした表情、光瑠そっくりのまんまるの目。
光瑠のお母さんは、小学校の時に何回か秘密基地の近くまで迎えにきてくれた時と全く変わっていなかった。
「お久しぶりです。
あ、これ。うちの父親から、鮑です。あと、香川の古い醤油蔵で作ってる醤油も。
今日の昼ごはんにと思って」
「わぁー嬉しいー!光瑠から、碧くんが何か美味しいもの持ってきてくれるらしいって言ってたから何かと思ったら鮑なんてー!」
「光瑠…まさかアワビって漢字読めなかったの?」
「あ、いや…あはは」
「お前、焼物の知識はあんなスラスラ出てくんのに、ほんと普通のことは苦手なのな」
「ほんとーその熱量を少しでも勉強に活かしてくれてもいいのにねーそしたらお父さんも機嫌良くしてくれるのにー」
鮑の入った保冷バッグを受け取りながら笑うその朗らかな口調からすると、おそらく全く悪気はなかったのだろうが、さっきのやり取りの後で、この言葉は冗談がキツい。
「…。
じゃー昼飯できたら呼んで。
じいちゃんところ行ってくる」
光瑠は少し口籠りながらツイッと顔を背けて早足で廊下を歩き出す。
「はーい。おじいちゃん、いま『ゴキゲン』だから、気をつけてねー」
(?)
「光瑠。なんでじいちゃん『ゴキゲン』だと気をつけるの?」
「あ〜会えばわかるよ」
光瑠の家は思ったよりずっと奥行きがあって、かなり広く感じた。
長い廊下を進み、外用の下駄を借りて庭に出ると、少し奥に工房らしい佇まいの離れと、その後ろから登り窯の煙が立ち上っているのが見えた。
「じいちゃーん! 碧、連れてきた!」
「はじめまして!たい…ら…あお…です…?」
離れの扉を開けると土間があり、上がり框には大量の雑誌が平積みされていた。
その少し先に轆轤が設置されており、奥には乾燥中と思われる茶碗や酒器などが置かれている棚があった。その横の畳敷のスペースには寝転がって雑誌を読む一人の老人が見える。
その人は寝転がりながら首だけ起こし、碧の方をチラリと見やった。
ふさふさとした白髪にちょろりとした髭、鋭い眼光。
読んでいる雑誌を畳に置く姿は、楽しみを邪魔されたと言わんばかりに気怠そうだった。
(…めっちゃエロ本読んでるぅー…!!!!)
「君か。光瑠から聞いとるよ」
その人は起き上がると、エロ本をポイっとその辺に投げてチョイチョイと手招きをした。
光瑠を見るとクイッと顎をその老人に差し向けて、そこへ向かうよう促された。
土間で下駄を脱いで恐る恐るその老人の元へ向かうと、突然ぐいっと顔を近づけてきた。
「なんやぁ〜女の子みたいに可愛い顔しとるなぁ〜?
ちゃんと玉ついとるんか?」
そう言うとその人は碧の股間を思いっきり鷲掴みにしたのである。
(うおぉぉ〜!!? なに、何このおじいちゃん!セクハラぁぁぁ!!)
「つ!ついてます、ちゃんとありますっ!!」
あまりに衝撃的な出来事に思いっきりのけぞって二、三歩大袈裟に退いた。
「ははは、碧、じいちゃんの洗礼受けたな。めっちゃウケる」
「ウケねぇ、全然!」
「俺なんて誕生日来るたびに、チ〇コの大きさ確かめられてんぞ!」
光瑠は老人の行動を当然のように笑っている。
(なんだその変態儀式!)
「女の子を落とすにはな、立派なもん持っとるのに越したことないぞ、碧くん」
老人はニヤリと笑って両手で丸を作り自身の股間に当てがった。
「は…はぁ」
そのジェスチャー…。
光瑠のスマートフォンでみた気難しそうな職人の顔はどこへ…というか別人…。
「そうや、なんやさっき、鮑やなんやっちゅう話し声が聞こえたぞ、鮑あるん?」
(!?)
「そう、碧が持ってきてくれたんだよ!」
「お〜えぇなぁ〜昼間から鮑!酒がうまそうやな〜。ええ仕事しはるやん碧くん」
「あ、はい…どうも」
「ほんじゃぁ、さっそく鮑を庭で炭焼きして食おうか〜」
「え、じいちゃんの作品見にきたのに!」
光瑠が慌ててそう言うと
「そんなもん、あとでええやろ。まずは酒に鮑〜。おーい佳代子!鮑こっちで焼いて食お〜」
とルンルンとステップを踏みながら離れを後にし、母屋にいる光瑠のお母さんを呼んだ。
少し前に玄関先で出会ったエリート官僚からの衝撃と、たった今起きた陶芸家のセクハラ事件で、碧の心拍数は少々複雑な状態になっていた。
(今日一日、俺の心臓持つかな…)
老人はあっという間に庭先で七輪を準備し、炭をくべ始めた。
(というか、ここまで割と距離があるのに、さっきの鮑の話、聞こえるか?普通。こんなとこまで。
すげぇ地獄耳)
「…!
佳代子〜!お前酢橘忘れてるだろ。
あと、碧くんが持ってきた醤油もなぁ〜」
え? まだ光瑠のお母さん、台所にいるのになんで?
「光瑠のおじいちゃん、何? なんで酢橘ないってわかったの?」
「あ〜うちのじいちゃんね、めっちゃ耳いいんだよ。
多分、台所で母さんが酢橘を切った音がしなかったんだと思う」
「え?マジで?」
「うん、マジ特殊能力!
じいちゃん曰く、耳で全部、土の声と器の声を聞くんだってさ。
なんかそういうとこ、碧みたいだよな」
「へぇ…。地獄耳っつうか…それはもはや耳いいってレベルじゃねぇな」
確か、もうじいちゃんが長くないから、母方の実家であるこちらに引っ越すこと決めたと言ってた気がするが、全然元気そうじゃないか…と、エロ本の山と先ほどの洗礼、そして嬉々として鮑の炭焼きを準備するその老人を見て思った。
(ここにも違うタイプの妖怪がいた…。見た目も…)
「碧くん、今なんか言うた?」
「いや、なんにも…!」
(なんなら心読んでくるじゃん…)
そのエロくて不思議な老人は、碧の心音まで聞こえているぞと言わんばかりの表情で、七輪の炭の世話をしている。
(やっぱり今日…俺の心臓もたなさそう…)




