第七十三服 でっけぇ壁(2)
少しずつ気温の上がってきた六月最初の土曜の朝。
湿度も昨日より高く感じる。
今日もしくは明日にも梅雨入りしそうだ。
【光瑠、土曜日何時に行けばいい?】
ずっと前から話していたことが、やっと実現する。
先日、光瑠のじいちゃんの轆轤成形作業がようやく終わって、全て窯に入ったらしい。
素焼きが終わって、絵付けの作業に入るまではじいちゃんの気が立っていないからということで、今週末に光瑠の家に行くことになったのだ。
光瑠に見せられた写真に何度かじいちゃんの顔が写っていたので、ぼんやりとその姿を覚えている。
その印象はまさに職人気質で気難しそうな老人の姿だった。
聞けば、何度か雑誌やテレビなどの取材依頼が入ったらしいが、光瑠のお母さんが人前に出るようなタイプではないのでと断ったそうだ。
【昼前でどう? そのまま一緒にうちで昼飯食おー!】
光瑠からの返信は数分後にあった。
【光瑠のじいちゃん、ひょっとして結構怖い人? 俺大丈夫かな…】と打ったところで、そんなことを聞くのは失礼かと思い直して削除した。
とはいえ、先日の水曜日、光瑠は顔を腫らしたまま帰ったはずだから、俺が大事な孫の顔を殴った張本人だとバレたら吊し上げられるのではないかとドキドキした。
【光瑠んちのじいちゃんて、鮑とか好き?
俺の親父がいま香川の醤油蔵撮ってんだけど、醤油と一緒にオリーブで育てられた鮑とかいうのを大量に送ってきて、冷凍庫パンパン】
【おー!好きだと思う!ありがと!】
高級食材でご機嫌を取ろうとする自分もどうかと思うが、いずれにしても、人の家に邪魔するときは何かしら持って行けと親父から言われていたのでちょうどよかった。
光瑠の家は清水五条駅から徒歩十分くらいだが、少し分かりにくいので『河井寛次郎記念館』の前で十一時に待ち合わせと言われた。
河井寛次郎。聞いたこともないその名前を調べると、光瑠が言っていた『民藝運動』を柳宗悦と共に中心となって引っ張ったという陶芸家であると知った。
その人の自宅兼工房が今では記念館となって公開されているとあって、少し覗いてみようと開館時間の十時ぴったりにその場所に着いた。
自分がテラに感じたらしい『民藝』や『用の美』という思想がどのような形であるのか興味が湧いたのだ。
冷凍鮑を保冷バッグに入れたまま持ち歩くのは億劫だったが仕方がない。
入館料500円を払って中に入ると、大きな吹き抜けの板間が現れた。
河井寛次郎本人が設計し、昭和十二年に建てられたという説明書きがあったが、当時は、というか今でもこんな大胆な吹き抜けと、二階から見下ろせるような造りの建築はあまりないだろう。
板間の一部に一段上がった畳敷があり、正面には囲炉裏が据えられている。
京町家作りの中に洋風の家具が配置され、異文化を受け入れ始めた大正から昭和にかけて活躍した文化人であることが伝わってくる。
しかし、展示されているものは、なんだかへんてこりんな木の彫り物や、不思議な模様の描かれた陶器など、なかなか民藝たるものがよくわからなかった。
自宅兼工房であるそこには、敷地内に登り窯が当時のまま保存されている。
その場所へ向かってみると、土と煙と火の匂いがまだここにこびりついているように感じた。
(光瑠と同じ香りだ…)
陶工たちと共同で使用されていた登り窯は全部で八室あり、今でもその中に轟々と燃える炎が見える気がした。
「よっ!」
「うお!あ、光瑠? びびった…!」
「碧なら早めに来て見てるんじゃねぇかなって思って!やっぱりいた!お前わかりやすいやつだな!」
「あぁ、せっかくだからと思って」
「だと思った!誘ってくれよ!俺、何回も来てるから隅々まで案内できちゃうよ?」
別にこっそり来たつもりはなかったが、『誘ってくれよ』と言われて「確かに」と思った。
改めて、今まで自分から人を何かに誘ったことがあまりないことを自覚する。
「一通り見たけど、なんか難しいセンスだな、民藝?ってやつ」
「そうか?意外と単純というか、一個の芯で繋がってるぜ?」
光瑠は目をまっすぐにした。
いつもの、自分の『好き』を語るときの、あの眩しい目だ。
「十九世紀後半にウィーン万博が開催されたときにさ、日本で初めて『美術』って言葉が生まれたんだ。
世界に日本の美を示すために、すげぇ華やかなものがいくつも作られたんだよ。
工芸品とかもその頃から定義化されて、すごい細工の施された品物とか、それを作った職人が脚光浴びてた時代」
光瑠の口から『ウィーン万博』なんて言葉が出るとは…と感心する。
年代も間違っていない。確か1873年に開催されたはずだ。
「その後に柳宗悦と河井寛次郎、あと濱田庄司って人たちが中心になって、真に価値のあるものは、名も無い人が作った、目の前の生活のほんの一部を支えてくれる、ささやかなものたちだって提唱したんだ」
「おれはこの言葉に共感しちゃうね!
名工の技量とか、一子相伝の技法の重さとか、いろいろあるけどさ、価値高すぎて、使われずに飾られてるのはアート作品と一緒じゃん。
茶碗とか、作陶したもんは、使われてなんぼだと思うんだよね。
お飾りじゃなくて、みんなの手に渡って使われて愛されるものを俺も作りたいな〜って」
「語るじゃん、光瑠」
「かっこいいっしょ」
「あぁ、ほんと、マジでかっこいいよ光瑠」
「なんだよ〜照れるじゃん!」
照れ隠しなのか、背中をバンバンと叩かれてふと思い出した。
「光瑠ってさ」
「ん?」
「でっけぇ壁。あるの?」
「?」
「ほら、言ってたじゃん、でっけぇ壁に必死に食らいついたり、否定されても無我夢中で挑んだり…とか。
俺が、殴っちゃったとき…」
「うわぁ〜!思い出したら、ほっぺたの痛みが再発してきた〜!」
「そっちじゃねぇだろ、殴られたほう」
後頭部にチョップでツッコミを入れると、殴られたのとは反対側の頬にあてた手をはずして「あれ?」っと舌を出して誤魔化した。
(被害者リアクションがフジ先生に似てきたな、いや、この舌を出す仕草は雪先輩に似てんのか?)
光瑠は小学生の頃、モノマネをするのが好きだった。というより、興味のあるものからの影響を受けやすい、と言った方が正確なのかもしれない。
「…。
あるよ、俺にも。でっけぇ壁」
光瑠の目が、いつもと違う色になった。
「それって、じいちゃんの技とか?」
「う〜ん、それもあるけど。
もっと、もっとでっけぇ壁。絶対乗り越えないといけないやつ」
ヒヒっと白い歯を見せて笑う光瑠の目はいつものそれではなかった。
「じゃ、そろそろ家行こっか!
あ、そういや鮑、ありがとな〜重かっただろ!持つよ!」
「いいよ、お前の彼女じゃあるまいし」
「え〜俺たち付き合ってなかった?恥ずかしがんなよ〜派手に痴話喧嘩したじゃん、碧美ちゃん」
「ねぇだろ。つうかなんで俺が女役なんだよ」
「顔?」
「うるせー」
光瑠の家は、記念館から歩いて三十秒ほどのところにあった。確かに、路地の奥の方にあってわかりにくい。
『黒兵衛窯』と『清水黒兵衛』という表札の横に『江咲』と書かれた表札が並んでいた。
「ただいま〜!碧連れてきたよ〜!」
ガラガラと玄関の引き戸をあけると、先ほどまで微かに香っていた炭と土と、火の匂いが一層濃くなった。
「光瑠、おかえり」
奥から聞こえてきたのは太く落ち着いた声。思ってたじいちゃんの印象と違う…?
「!?…父さん? いつ、こっち来たの?来るなんて言ってなかった…」
「ついさっきだ。
昨日から二日間の会議が近くであって。来るつもりはなかったんだが、午後の予定がすこし背後に倒れてな」
「…そうなんだ」
この人が、光瑠のお父さん…。




