第七十二服 信じられるもの
振り返ると縁側の障子に寄りかかりながら、透がいつもの笑顔で佇んでいた。
「うわぁ先生、いつの間に来はったんですか?
ていうかなんで縁側から…」
ちょうど雪乃の真後ろの位置にいたから余計に驚いたのか、幽霊か変質者でも見たかのような顔で恐る恐る質問した。
「ちょっと前だよ。今日すごくお天気良くてさ、お庭を散歩しながらきたんだ」
いつも通りの掴みどころのないテンションで、少し安心した。
「あ、先生…!
この間は…すみませんでした…」
透はゆっくりと碧に目線を移したと思うと、そっと手を胸に当てて、涙を拭う仕草をした。
「もう僕ショックで…碧はもう来てくれないんじゃないかって…夜も眠れなかったよぉ〜」
(う…こいつ…全然、言葉に心こもってねぇじゃん!)
「でも碧、真紘露のこと、ごめんね。
まだ幼稚なんだ。許してあげて」
「真紘露さん、碧になんか言いはったんすか?」
間髪入れずに千歳がジロリと透を睨んだ。
「う〜ん、まぁね。ちょっとデリカシーなかったかな…」
「碧、真紘露さんになんて言われたん?
嫌に思たことは、はっきり言ったほうがええ」
千歳の強い視線は碧に向けられる。
「さっき、家のこととかを気にしとった言うたんと関係あるんやろ? それのこと、なんや言われたん?」
千歳の語気はさらに鋭さを増した。
「あ、いや…そんな大したことないんです。
俺が、共感覚とかに頼らずに、ちゃんと茶を勉強すればいいだけなんで…」
透が諦めたようにふぅと息を吐いた。
「真紘露がね、碧に向かって、そんなものはニセモノだって言ったんだよ」
「な!本当にあの人は…!」
千歳がぎゅっと肩を震わせる。
「あ、でも、そのあと、俺が先生たちはそういう家柄に生まれたから〜みたいなこと言っちゃって。
俺も悪いんです」
慌ててフォローに入るが、千歳の眉間には負の感情のようなものが籠ったままだ。
「まぁ真紘露もムキになって、家柄で人を評価するなって怒っちゃってさ」
「…。
ほんま、碧はそんなこと、なんも気にせんでええんやからね」
畳に置かれた千歳の手に、きゅっと力が入った。
やっぱり真紘露さんと何があったんだろう。
でも本人に直接聞ける雰囲気ではなさそうだった。
「ところでそこの体格の良い君、誰?」
「あ、センセ、碧と同じクラスの寺崎くんやって!
光瑠と一緒に、碧を男にしてあげた一人らしいで」
銀次郎は寺崎の肩に腕を回しニヤリと笑った。
「碧、男になったの…?
それってまさか…碧が攻め?しかも光瑠とってことは3P…」
「いや、なんの想像してんすか!ちょっとケンカしただけっすよ」
(なんで銀次郎先輩と同じ思考なんだよ…!
つうかもはや二人がデキてるんじゃ…)
「寺崎です!俺、碧の茶を飲みに来たんです。
めちゃうまかったし、クソ格好良かったっす。な、碧!」
「それは良かった。
碧。今日のお点前、僕から見ても前に見た時よりもとても良くなっていたと思ったよ」
「…?
あ、は、はい…!」
(この前と、何が違ったんだろうか…。
まさか気を遣った…なんてことはないか…)
「じゃあ俺、家の手伝いあるんで、この辺で!
お邪魔しました!
碧、ありがとうな!また店で俺の料理食いに来てくれよな!
銀次郎先輩も!あ、光瑠くんもな!また今度!」
「イケメン先生!俺また遊びに来ますね!」
「寺崎、ありがと!美代子さんによろしく!」
寺崎は昼と同じようにクルッと軽やかな身のこなしで親指を立てて部室を後にした。
「いいね〜彼。お茶、やらないかな〜」
「テラくんは家庭科部に入るらしいっすよ!でも茶もまた飲みに来てくれるって!」
今日で寺崎のことをすっかり気に入った光瑠はなんだか嬉しそうだ。
「へぇ、家庭科部…意外〜」
透は残念そうな顔をして口を尖らせた。
「光瑠、なに?」
光瑠が何かを言いたそうに口元をムズムズさせているのが見えた。
「碧、聞いていいか?」
「ん?」
少し躊躇したようだったが、光瑠はまっすぐにこちらを見て、はっきりとした発音でこう言った。
「今日の道具と茶碗、どうやって選んだのか、教えて欲しい!」
「…!?」
「あ、それ、うちも気になっとった!」
雪乃がガバッと右手を上げた。
「たしかに。いつも稽古用の茶碗やから、雰囲気変わってええ感じやった。
碧のセレクトもなんやセンス感じたなぁ」
千歳も出された五つの茶碗を思い出しながらそう呟いた。
「じゃあ今日の亭主に、お道具拝見をお願いしようか」
透はいつものように口角を上げてこちらに視線を送った。
「え!?」
思いがけない展開に、耳たぶがじんわりと熱くなった。
「やった!」
光瑠はそう言って水屋に戻り、洗い終わった茶碗を盆にのせて戻ってきた。
水屋にある茶碗棚には、歴代の先輩方が部費で購入して茶道部に寄贈したものから、学校の所蔵品で使用を許可されているもの、そしてフジ先生専用の棚に、先生が気まぐれで入れ替えてくれるものなどがある。
それぞれがごちゃ混ぜにならないよう台帳に記入され、きちんと整理されて棚に置かれている。
普段お稽古で使うものは、台帳には値段こそ書かれていないものの、高価そうなものは使いにくいということで、稽古用として寄贈品をメインにいくつかの茶碗が決められており、先輩たちはそれらを使うことが多かった。
以前、光瑠が『水屋にはたくさん茶碗があるのに、いつも同じ稽古用の茶碗で面白くない』と言っていたのを思い出した。
光瑠はやっぱり、焼き物には目がないのだろう。
いつもと違う茶碗を碧が使ったことに、ワクワクを隠せないようだった。
「碧!まずテラくんの茶碗!これだったよな!
なんでこれ選んだの?」
「あ〜えっと…」
『寺崎の雰囲気に合っていた。この茶碗から寺崎と同じような色と音を感じた』なんて、あの真紘露さんの『そんな感覚は茶の世界ではニセモノだ』といった言葉を思い出すとなんだか言いにくい。
「いや〜ほら、俺まだその辺は勉強中っつうかよくわかんないから、台帳見てもピンとこなくて。
全部直感なんだよ、これかな〜みたいな。
だから、お道具拝見って言われても、どの作家が作ったこれが良くてとか答えらんないよ。
あ、光瑠の方が説明できんじゃないの?」
なんとか誤魔化そうと光瑠に水を向けてみたが、予想外の答えが返ってきた。
「その直感が聞きたいんだよ!
茶碗は、名工が作ったからって、全部の人に価値があるわけじゃないってじいちゃんが言ってたんだ。
この茶碗がどのような人の手に渡って、どのような人に愛されて使われるか全部見て作るんだって。
だから、なにも知らない碧が選んだ感覚を知りたい!」
光瑠の目はいつになく真剣だ。
「その、テラに選んだのは…。
テラとおんなじ色を感じたんだよ。
あいつの親の店、何回か行ったことあるんだけど、その茶碗と同じ空気だった。
日常の中に溶け込む、なんかホッとした感じ。
美代子さんの自然体の笑顔の中で、客が笑ってる。その中にある茶碗だって」
「…!」
光瑠は猫が眩しい時にするような目をむけて、ぎゅうっと碧の目を見つめた。
「碧!すげぇ!やっぱ碧の感覚は本物だ!!!」
「え?!」
「この茶碗さ、小鹿田焼っていう大分県日田市皿山ってとこの窯で焼かれたもんなんだけど…」
光瑠の目はさらにきゅっと力が入った。
「大正時代に『民藝』っていう運動があってさ、それを率いた柳宗悦の思想に『用の美』っていうのがあるんだ。
『自分たちの生活の中で使われる道具や器にこそ、自然で美しい姿が宿る』っていう考えなんだけど、その柳宗悦が心から絶賛した焼き物が『小鹿田焼』なんだよ」
勉強が苦手な光瑠から、こんなに難しい言葉がすらすら出てくることに驚いた。
「それって、俺はテラとその茶碗のなかに、その『用の美』ってやつを見たってこと?」
「うん、絶対そうだよ! すげぇな!碧の感覚はやっぱり『本物』だな!」
「二回も言わなくていいよ、恥ずいだろ。
いや、それより光瑠の方がすげぇだろ。そんなんよく覚えてるな」
『本物』と言ってくれた言葉は、光瑠の本心だろう。
気を遣ってそんな言葉を発するようなやつじゃない。
「おれ、焼き物の知識だけは誰にも負けねぇよ!」
光瑠の、この目の輝き。
太田さんの茶会の時の光瑠を思い出す。
それこそ『本物』だと思った。
「いや、光瑠ほんますげぇよ!ちーや俺だって、そんなにスラスラ言えないのに…!」
「ほんま、大したもんやな」「ほんま!光瑠くん!ほんますごい!才能や!」「ひかるっち〜勉強苦手なんウソやろ〜」
その場にいた全員が、普段見ない光瑠に息を飲んだようだった。
透はいつものように目を細めてその様子を見ている。
(そうか、当たり前だけどみんながみんな茶の世界の全てに詳しいわけじゃないんだよな)
「へへ…じゃあ次!千歳先輩の茶碗!」
この場所にいるひとはきっとみんな自分の中に『これだ』って信じられるものを持ってる。
光瑠は、焼き物。
千歳先輩は、着物。
銀次郎先輩は、懐石料理。
雪乃先輩は、京菓子。
茉莉は、茶師。
「千歳先輩にこれを選んだ理由は…」
俺も、追いつきたい…。
茶の道の何か…。まだ『これだ』が何かはわからないけど。
きっと俺にしか極められないものがあるはずだ…。
その後、俺が選んだ感覚を光瑠は目を輝かせながら聞き入り、その茶碗について語るのを繰り返した。
下校時間を過ぎても、その熱はしばらく途絶えることなく続いた。




