第七十一服 幸せなやつ
「碧!全然連絡よこさへんかったから、心配したでぇ!どないしとったん!」
部室の襖が開いて碧の姿が見えた瞬間に、銀次郎がすっ飛んできた。
「フジ先生に聞いても返信あらへんし、大会の後マジで先生にカマ〇られちまったんやないかっ…ァイテテッ」
「銀、下品なこと言わん!」
千歳は眉間に皺を寄せて頬を抓り、銀次郎の口を噤ませた。
「あはは…すみません、ちょっといろいろあって…。
あ!そういうアレじゃないっすよ…!」
「なんや、そう言われると逆に意味深みたいに聞こえるやんか…」
「いや、本当マジで…!」
「と、とにかく、何かの事件じゃないんならよかったわぁ…。ってそれもそうやけど…!
光瑠くんはなんでそんな顔しとるん!? 鼻にもティッシュ詰めて…!」
すっかり体調の戻った雪乃が目をまん丸くして左頬の腫れた光瑠の顔を両手で抱える。
「え!あ、いや…!これはちょっとしたアクシデントがありまして…」
雪乃に両手で顔を抱えられた光瑠は、腫れた頬よりもさらに顔を真っ赤にさせ、今すぐ湯が沸かせそうだ。
「すんません、さっき俺、こいつと喧嘩して…殴っちゃったんす…」
光瑠は気を遣ってくれたが、自分がしたことを隠すべきではないと感じた。
「えぇ、なんやそれぇ!うちも男子の殴り合いのケンカ見たかったぁ!
つうか、あおっちも怒ることとかあるんやなぁ」
茉莉は漫画のワンシーンでも想像しているのか、シュッシュッと効果音を発しながらシャドウジャブを繰り出している。相変わらず能天気で緊張が緩む。
「殴り合いっつか、俺は一方的にやられちゃったんだけど…あ、でももう仲直りしたんで!
碧も復活っす!」
「へぇ、なんやお前ら青春しとんなぁ、えぇやん。
光瑠と喧嘩しとったから月曜部活来んかったん?」
「あ、いや月曜休んだのは光瑠が原因じゃなくて…。
…その…大会の後、フジ先生と真紘露さんと、メシ食いに行くことになったんすけど…」
「え、まさか碧、そのまま3P …ウグゥッ」
「銀、もう喋んな」
銀次郎は鳩尾に千歳の手刀を食らって悶絶している。
「えっと…おれ、その…クソダサいんすけど…。
実は、ここにいる全員の実家がすげぇ家業なの、めちゃくちゃ劣等感あったみたいで。
何しても、どんなに頑張っても、『そういうの』に敵わない気がして、なんかすげぇモヤモヤしちゃって。
大会の後、先生と真紘露さんに『先生たちは本物だから俺の気持ちはわかんねぇ』って言って出てきちゃって…それで気まずくて…」
「碧…」
「碧くん…」
「そのクソ格好悪い、逃げる理由でガチガチになった頭、こいつらが冷やしてくれたんです。
部活サボってすみませんでした。もっといろいろ教えて欲しいです」
頭を下げながら思った。
ここにいる全員、本当に素敵な人たちなのに、逃げようとしたなんて。
「碧…」
銀次郎がいつものように頭に手を置いて髪をくしゃっとする。
「で、その後ろの、誰?」
「…?…あ…」
「どーもー!お邪魔します!
1年B組、寺崎いうもんです。
碧が茶を点ててくれる言うんで、飲みにきました!」
* * *
「へぇ〜テラくん、中学の頃から碧一緒のクラスなんやなぁ」
「そ〜こいつめっちゃスマブラ下手なんすよ」
「テラだって同じようなもんだろ!」
銀次郎と寺崎は早速意気投合したように見えた。
寺崎の気質はなんとなく銀次郎と似た感じがあったし、料理に興味のある寺崎は、今度銀次郎に料理の手解きをしてもらいたいと、目を輝かせていた。
「今度おばさんの店、碧と一緒に俺も連れてってや」
「あ、先輩!テラのお母さん『美代子さん』て呼ばないと殺されますよ」
「そうなんや、ウケるな」
(あ…)
「千歳先輩!」
水屋に入った千歳の後を追いかけた。
「すみません…部活サボった挙句、友達に茶を飲ませたいなんてわがまま言って」
「何言うとるん碧。大歓迎や。
茶はお稽古も大切やけど、もてなしの精神を学ぶんが本命なんやから。
そや、せっかくやしお道具も碧が選ぶとええわ。わからんことあったら聞いてな」
ニコッと笑って碧の肩をポンと軽く叩いた。
「おかえり、碧」
(くっ…俺は、こんな人たちに囲まれて、ほんとうに幸せなやつだ)
「ありがとうございます…」
(とはいえ、まだ俺お道具ちゃんとわかんないな…)
水屋からちらっと茶室をのぞくと、みんなが寺崎に茶の基本を教えていた。
(いや、わからないなりに、俺が思う茶を点てるんだ…)
(水指、茶筅、茶碗…。テラのはこれで、千歳先輩のは…)
(あと、棗、茶杓、建水、蓋置、柄杓…)
一つ一つ口に出しながら、確かめて選び取っていく。
「抹茶は…先生にもらった銘柄の中で、これが一番軽くて旨みが強かった気がする…これにしよう」
「よし」と運ぼうとした瞬間、後ろから背中を叩かれた。
「碧。半東、俺がやっていいか?」
振り返ると光瑠が立っていた。
「いいのか?」
「当たり前だろ、俺も勉強になるし!」
「ありがとう…。それじゃ、よろしくな、相棒」
まだ少し腫れている光瑠の頬に軽く触れる。
「おっす!」
光瑠はその手を取ってぎゅっと握り返した。
光瑠が道具を運び終えた。
光瑠の呼吸の音が聞こえる。
帛紗を腰に仕込む。
新しい空気を体いっぱいに送り込む。
ふう…。
その間、数秒か…もっと少なかったか、止観の時のように頭の中には何もなくなっていった。
自分の心臓の音も、呼吸の音も、全部上に消えていく。
そこにあるのは、道具たちの呼吸と、みんなの呼吸だけ。
一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、六歩…。
歩みを進めるたびに、そこにあるみんなの呼吸の音が、深く、ゆっくり、鼓膜の中に落ちていく。
今はただ、この場にいるみんなに喜んでもらえる茶を点てたい…。
点前座について、視線を落とし頭を下げると、寺崎の緊張が伝わってきた。
「足、辛かったら崩していいから」
自然とそう言葉に出ていた。
(おいしいと思ってもらえたら…いいな)
家で練習した時よりも、部室で初めてお点前をやった時よりも、遥かに道具たちが手に馴染んだ気がした。
というより、道具たちが自分を応援してくれている気がした。
光瑠が寺崎の元へ茶碗を運ぶ。
そして、千歳、銀次郎、雪乃、茉莉の茶を点てる。
それぞれをイメージした茶碗、気に入ってくれただろうか…。
「これにて、終わりといたします…」
みんなの呼吸が、細く緩くなったのが聞こえた気がした。
「テラ…どうだった?」
「碧…」
「お前すげぇな!すげぇ格好良かった!」
寺崎はスマブラで裏技を決めた時のような表情で、少し身を乗り出してそう言った。
「茶もほんまうまかった!なんか抹茶ってもっと苦いもんやと思っとったけど、こんなに柔らかくて甘いんやな!
スタバの抹茶ラテみたいやん!砂糖入れてへんよな?」
「ウケるな、それ。入れてるわけないよ」
「碧、今日のお点前、なんやめっちゃええ感じやったな?!」
銀次郎も寺崎と同じように前のめりに誉めてくれた。
「ほんまほんま!あおっち、なんや部活サボったくせに腕あげたんちゃう」
「おもった〜サボってコソ練した?」
「ちょっと二人とも、いじめないでよ…!」
「うん、碧、今のお点前、とっても良かったよ」
(…!?)
「あれ、先生!?」




