第六十九服 でっけぇ壁
【碧、今日どうした?なんかあった?】
光瑠からそのメッセージが入っていたのに気づいたのは、次の日になってからだった。
なんと返信したらいいのかわからない。
大会の後の出来事も、自分の感情の在処も…。
家業の窯を継ぐという明確な目標があって、それが茶をやる理由の光瑠には、到底理解できないと思った。
茶道部に誘ってもらった日の光瑠の言葉を思い出す。
『面白いって感じる心とか、好きって気持ちに全力で向き合うことに、家も理屈も必要ねぇよ。
自分の心がどうしようもなくワクワクしている。
動機はそれで十分だろ』
その一文字一文字が棘のついたボールみたいになって、頭と体の中で跳ね回るのがチクチクと痛い。
その通りだと思った。
なんで俺は家柄も血筋もないことを、こんなに引け目に感じるのだろうか。
なんであの人が藤家の人間だって聞いただけで、ザワザワするんだろ。
よくわからない。
今まで感じたことのない、巨大な壁に思えた。
『やりたい』
その気持ちだけでは簡単に飛び越えられないような壁が…。
結局、光瑠に返信することができないまま、水曜日を迎えた。
茶道部の活動日だ。
朝のホームルームが始まるギリギリに滑り込んだ。
教室の中はいつもより色が霞んで見える。
今日は先輩たちになんて言って休もう。
いや、もう何も言わずにフェードアウトしようか…。
「碧〜D組のコウサキってやつが来とるで〜?」
昼休みを告げるチャイムのけたたましい音から数秒とたたずに、教室の入り口にいつものくしゃくしゃのくせ毛が見えた。
なんだかその顔には随分と長い間会っていなかったような気分になった。
(…このタイミングで会いたくなかったな…)
「碧、なんで返信よこさねぇんだよ」
「あ〜わりぃ。忘れてたわ」
「今日は部活来んだろ?」
「…。」
「行かねぇの?
なんかあったんなら言ってくれねぇとさ。
みんな心配してんだぞ?」
正直言って、まだ自分の気持ちがどこにあるかわからないこの状態でそんなこと言われても、煩わしいだけだった。
「碧、なんか言えよ」
(ウザい…)
「碧…!」
(お前には、わかんないよ)
「俺…茶道部、もう行かねぇわ」
「は?!何言ってんだよ!」
「やめる。茶道」
「おい、なんだよ急に!
フジ先生とかと、あの後なんかあったのかよ!?」
「なんもねぇよ、やる気なくなったんだよ」
「意味わかんねぇよ!
大会で俺がヘマしまくったこと怒ってんなら、ちゃんと俺特訓するからさぁ!」
光瑠はいつもみたいに腕にへばりついて体重をかけてずるずると引きずられる。
「ちげぇよ!そんなことで怒ってるわけじゃねぇよ!
ガキじゃあるまいし」
「じゃぁなんだよ!」
光瑠のまっすぐな目…今はこの目に見られたくない。
「ウザい。光瑠。
俺みんなとメシ行ってくるから、消えて」
腕にしがみついたままの光瑠の手から、さらに力が入ったのが伝わってくる。
肩を少し震わせてから、その瞳を余計に丸くさせて、眦を釣り上げた。
(くそ…こんなこと、言いたかったわけじゃないのに…)
「ふ、ふざけんなよ!
お前の目を見たらわかんだよ!
本当は茶を続けたいって、でもそれができないなんかがあんだろ!?」
続けたい?俺の目がそう言ってる?
ふざけんな?
それはこっちのセリフだ…!
「だから、前にも言っただろ!
俺は、そういう家柄じゃねぇし、血縁でもない。何も持ってねぇ。茶に向き合う理由なんてないんだよ!
わかったような口きいてんなよな!」
ガシャンっ!
どうにか光瑠を引き剥がそうと強く腕を払った途端、光瑠の力が少し緩んだタイミングと重なってしまったのか、そばにあった机に向けて派手に振り飛ばしてしまった。
「光瑠、ごめん…大丈夫か?
こんなことするつもりじゃ…」
「…。
そうか、碧はそうやって、また逃げるんだろ…」
「は?」
「血縁がどうとか言ってさ…勝手にラベル貼りやがって、お前プライド高すぎなんだよ!
今までそういうこと関係なく何でもこなしてきたから、出来ないことが怖いんだろ」
「……!」
「バカでっけぇ壁に必死に食らいついたり、否定されても自分が好きなことに無我夢中で挑んだことねぇから…。
何にも本気でぶつかったことねぇから、形振り構わず突き進む、格好悪い自分が許せねえんだろ!
自分で壁作りやがって!
だからそうやって出来ねぇ理由見つけて、逃げようとしてるだけだろ!」
「この…ヤロぉ…!!!」
鈍い音がした。
気づいた時には自分の拳が光瑠の頬を貫いていた。
自分でも驚くほど大きな声が出た。
教室中に響き渡ったその衝撃音を聞きつけて他のクラスからもどやどやと人が集まってくる。
「碧!落ち着けよ!らしくないやんか」
寺崎が慌てて肩を掴んできた。
「へ…本当のこと言われて頭に血が昇ったかよ…」
「光瑠!お前ぇ!」
思わず胸ぐらを掴んだ。
自分はこんな怒り方をするのか。
とんだヒステリーだ。
図星だったんだ。
あの時と一緒だ。
プライド…そうだ…そうなんだ。
これまで本気になってこなかった自分に、今ビビってんだ…。
格好悪く踠く自分を認めたくなかったんだ。
──自分のルーツが名家の出じゃないって知った時、ほっとした。
そういうラベルで他のみんなを見ている自分への嫌悪感か、そんな下らないことをコンプレックスに思っている自分の情けない姿を認めたくないのか。
今はそれが自分で勝手に立ち上げたでっけぇ壁になってる。
そして、そこに本気で立ち向かえない自分…。
あの人のお点前を見て、あんなふうになれるんじゃないかって、ちょっとでも思った自分の心がそんなことで打ち砕かれて、そこから逃げようとしているダサい自分…。
『本家のヤツらよりできちゃったら、カッケェだろ!』っていつもみたいに言い切れない自分から、目を背けたかったんだ。
光瑠の言葉は、あの時からずっと正しかった。
「碧、やめぇや!」
寺崎に羽交締めにされて、自分の頬に何かが伝ってこぼれ落ちるのに気づいた。
「お前、コウサキ?っつたけ?
碧にケンカ売るために来たんやったら帰れや」
「…。」
「碧の気持ち、ほんまにわかってるんやったら…。
そんな言い方せんくてもええやろ…」
「その通り…です。
碧、ごめん。悪かった…」
自分より一回り体格の良い寺崎に対して光瑠は少し萎縮したように見えた。
いや、後悔したんだろう。
光瑠は本来あんなこと言うヤツじゃない。
「とりあえず、お前、保健室いけや。
めっちゃ鼻血出とる」
「あ…」
「おーい誰だ〜騒いでるやつ〜!」
「やべ、先生きたやん。
チッ…誰やねんチクったやつ」
「すんませ〜ん。ちょっとふざけてたらバランス崩してもうて
俺らコウサキくん付き添いで保健室行ってきます〜」
寺崎は先生が次に言う言葉を払うように二人の腕をぐいっと引っ張り上げて足早に歩き出した。
「ほら、鼻血拭けよ」
光瑠は寺崎に差し出されたハンカチを意外そうに受け取って鼻水と一緒に鼻血を拭った。
「お前いいやつだな…俺、あんな酷いこと碧に言ったのに」
光瑠は自分が放った言葉が、いまだに信じられないと言ったふうに丸い瞳から繰り出される大粒の玉を必死で堪えている。
「おう。俺んちのババァから『乙女の涙を拭うハンカチを持たんやつは一丁前の男になれへん』て言われとるからな!
お前男やけど。ほんまは遠藤さんが失恋した時に格好よく差し出すために持っとったのにな!」
「ごめん…遠藤さん…誰か知らないけど」
光瑠は相変わらずダラダラと流れる鼻水を拭った。
「コウサキお前、学年一の美女知らへんの!」
寺崎はこんな時でも、空気をカラッと軽やかにしてくれる。
「なぁ碧さぁ…これはこいつの肩持つわけやないけどさ…。
嫌やったら聞き逃してくれてええから、俺の気持ちだけ言わせてもろてええ?」
寺崎の声が、いつもと違うトーンになったと気づいたのは、もう少し後だった。
「お前との付き合いはさ、中坊のころから二年もたってねぇけど…
ここ最近のお前、かっけぇなって思ってたんだよ」
ふぅ…とひとつ、息をついた。
「俺ら帰宅部でつるんでる奴らはさ、家の用事とか、いろんな事情で部活入らないって決めて、こうしてたまに遊んだりしとるけど、お前は入ろうと思えばどこでも部活入れたやん」
「俺は別に理由を聞こうとは思わんかったけど、いつも明るく振る舞ってる人気者のお前はさ、たまに目が、なんや…灰色みたいな色になるんよな」
(…?!)
「お前の目ぇはさ、いつも光集めてキラキラーって感じやのにさ。
その目がさ、急に静かになる時あるなって思っててん」
光瑠も寺崎の言葉に、ゆっくりと耳を傾けている。
「なんつうか、お前、周りとめっちゃ一定の距離置いとるやん?
これ以上踏み込ませへんって感じの。
みんながどう思うとるかは知らんけど。
──そういう時の目。」
(バレてたのか…恥ず…)
「つるんでる奴らも大概灰色の目しとるの、気づいとった?
俺ら特進クラスや言うても、中途半端に勉強できるだけで、進路も別に決まってるわけでもあらへんし、部活もないからやりたいことあるわけでもない。
だから大体みんな暇つぶしで俺んちで屯したりしてさ。
ほんでみんな、おんなじような灰色の目して。
そのくせ、部活とかやりたいことに目を輝かせてるまっすぐな奴らを羨ましがってんだよ。
やから、この前あのババァにやりたいことないやろ言われて、ちょっと腹たったわ!」
一昨日のことを思い出したからか、寺崎は恥ずかしそうに笑った。
「でもさ、碧の目はさ、俺らと違って、一色やないんやよ。
灰色の中にたくさんの色の粒みたいのが見えとったんや。
俺らとはちゃう。
碧はいくらでもいろんな色になれんのになって、ずっと思っててん」
寺崎はコツンと碧の頭に自分の拳を当てた。
「で、話戻るけど最近の碧はさ、めっちゃ目ぇキラキラさせてんの」
「ほんま、茶道っちゅうもんに出会えて、よかったんやなぁって。ちょっと嫉妬したけどな」
また恥ずかしそうに笑った。
「なんだよ、目がキラキラとか、灰色とか…そんな恥ずかしいことよく言えるな」
(あぁ、クソ、また…そんなこと言いたいわけじゃないのに)
「何言うてん、碧。お前がいつもそういうクソ恥ずいこと言うとんやないか。
いろんな色が見えるって。 もっとその先が見たいんやって」
「え?マジ?俺そんなこと言ってる?」
「あぁ。言うとる」
「うん。言ってる」
違うイントネーションで目の前の二人の声が重なった。
「やろ?ほら」
「やからな、俺も決めてん!」
寺崎は力の入った声で、目をキラキラさせてこう言った。
「え?」
「おれ、家庭科部に入るわ!」
「へ?!」




