第六十七服 弱さとか強さとか
考えたくもないことは、さらに暴力的な巨大化を以て頭の中を回遊する。
見たくないものも、余計にその輪郭を濃く強くして視界の中を埋めていく。
街へ出ても、鴨川沿いを歩いても、何もないところなんてあるわけがない。
何を見ても、何を聞いても、脳内と鼓膜に浮かび上がるのは、濁った色と一緒に踊るノイズ。
今日は止観もうまくいかなかった。
脳内を廻り続ける思考と、視界を占拠する事象を排除するには、別のことでそれらを外界へ押し出す方法しか思いつかなかった。
ゲーセンで脳細胞を持て余すくらいなら、じいちゃんの所にでも行ってくりゃよかったかな。
せっかくの晴れた日曜日を、無駄に過ごした。
太陽が西に傾いてきた。特に何もしていないのに時間がくれば腹は減る。
料理は比較的好きな碧だったが、面倒な時はたいていコンビニで済ませる。
しかし案の定、行く気にならない。
仕方がないので、帰り道にいつも行く八百屋に寄ることにした。
ヘッドフォンの音を最大まで上げて市バスに乗り込む。
(仙賀さんの料理、うまかったな…)
こんなことなら『変わるほう』を選ばなければよかった。
またそんな言葉が喉の奥に黒く滲む。
家の近くにあるバス停の二つ手前で降りて一分ほど歩くと、いつものおやじさんが腰を曲げて店の入り口に座っている。
「ああ、あおくん。今日はな、初夏の野菜がたくさん入っとるよ」
中坊の頃から制服のまま一人で買いにくるので、あっという間に名前を覚えられ、店に行くたびに話しかけてくれる。
「これとかどうや?花ズッキーニ。カラッと揚げるとうまいで」
料理はこのおやじさんに習ったようなもんだ。
「初夏の野菜って、いろんなのあるんですね」
いつもならおやじさんの勧めるままに野菜を買って、教えてもらった調理方法で適当に作って食べていた。
でも今はこの季節にどんな野菜があるものなのか、気になってしまう自分が煩わしい。
「そや。
なかでもこの辺は『走り』いうてね、ちょっと早い時期に出回る早摘み、早採りの野菜なんや。
旨みが凝縮する前の爽やかな味が特徴や。
賀茂茄子と万願寺とうがらし、味噌炒めとかおすすめやよ」
無関心とまでは言わないが、普段なら質問しない碧が興味を持ったことが嬉しかったのか、次々とその場に並んだ艶やかな野菜を説明してくれる。
『走り』
茉莉からも聞いた言葉だ。銀次郎先輩も言っていた気がする。
「あおくん?なんやぁ元気ないなぁ?どうかしたん?友達とケンカでもした?」
「え?あぁ、いや…そんなもんす」
「余計なお節介かもしれんけどな、すぐ仲直りしたほうがええよ」
「…」
「ケンカできる友達がいるんは、ええことやで、あおくん。
自分の弱さと、相手の強さを認めて、ぶつかり合えるんは、若いうちだけやで。
大人になったらな、そんなんしよ思うても、でけへんことがほとんどや」
「怖いんはな、自分の弱さを認めずに逃げてしまうことや。
そして、立ち向かうべき相手の強さからも逃げて、強くなれる機会もその人も失ってしまうことや。」
「……」
「年寄りの戯言は、たまには聞いといたほうがええよ」
「はい」
「そや、お野菜やったね。どれもってく?
欲しいもん詰めといたるから、元気だしぃ」
家で一人なのを知っていて、いつも食べきれない野菜を袋にパンパンに詰めてくれる。
今日も何が入ってるかわからないくらい袋が重たい。
「早く仲直りするんやよ。
一度壊れてしもうたら、やり直すんはもっと大変や」
おやじさんはバスがくるまで、店の前でずっとこちらを見ていてくれた。
逃げてる…のかな。
光瑠、なんて言うかなぁ。
【おれ、もう茶道部やめるわ】
そう文字を打ったところで、家の近くのバス停に到着したので慌ててポケットにスマートフォンを押し込んでバスを降りる。
先輩たちにも、なんて言おう。
結局送信ボタンを押すことができずに、その日は賀茂茄子と万願寺とうがらしを味噌で炒めて、親父が送ってくれた魚を焼いて、土鍋で炊いた白米と一緒に食べた。
自分の弱さと相手の強さを認めることが、自分が強くなれる機会だなんて。
そんなの詭弁だろ。
俺は『本物』になれない。
それは事実で、弱さとか強さとかで片付けられることじゃないんだ。
そんな誤謬を正論のように振りかざすから、傷つく人が増えるんだ。
あぁ…くそ…だめだ。
これも逃げるための言い訳か。
今日こそ…眠りたい。
* * *
「碧〜?あ〜おっ!次、体育やで〜?体育館に移動せな」
「…? テラ?うわ、やべ、もう二限終わった?」
丸めた教科書で頭を叩かれてようやく目の中に光が入った。
ピアスがキラキラ揺れている。
特進クラスでピアスの穴を五個も開けているのは寺崎くらいだった。
「珍しいな、二限の間いっぺんも起きひんかったやん」
「いやなんか、一昨日から全然眠れなくてさ」
「え〜また恋煩いなん? そや碧。今日も部活行くん?」
「え?」
「今日俺んち休みやねん。やからみんなでマリカーしよ言うてて。
中間テストも終わったし」
「あ〜…」
(今日部活行かなかったら、そのままずっと行かねぇんだろうな、俺)
「やっぱ行かなあかん?意外と厳しいなぁ茶道部」
「…いや、そっちいくわ。
部活サボる」
「おっしゃ〜!やっぱ碧はそう来な!」
(もう、これで…)
「次、体育なにやんだっけ〜」
「あれちゃう?ハイキュー!」
「お、おれ影山推し」
「いやそこは絶対クールで熱い男、月島やろ〜」
「テラ、お前のキャラに月島似合わないって」
「碧やって、キャラいうたらどう考えても日向やろ」
「俺はあんな語彙力弱め天然キャラじゃねぇし!ま、直向きな天才ってのは認めてやるけど」
「調子のんなや〜」
【すみません。今日部活休みます】
放課後、部活が始まる直前にメッセージを打った。
というか、もう始まった頃だと狙った時間に送信をした。
メッセージに気づくのを、なるべく遅らせたかったからだ。
返信を見るのが怖かったからだ。




