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碧の点睛 (あおのてんせい)  作者: モト香
それぞれの色
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第六十五服 厄介

 隠し扉の奥には三畳ほどの茶室と、先程とは別の、さらに小さな坪庭が見えた。


「仙賀くん。茶と茶碗、僕が選んでいいかな。

 僕が茶を点てたいんだけど」


「うわぁ〜!そらぁもちろん。

 久しぶりの透露兄はんのお点前、うれしいですわぁ」

 仙賀さんは半ばスキップのような足取りで透を水屋に案内した。


 床の間には、釉薬のない褐色の花入に、薄桃色の花が一輪。

 掛け軸には、たった今、二尾の鰻がぬるりと泥を抜けてきたかのような画(え)があった。


 あ、しまった。流れで最初に茶室に入ってしまった。

「あの、真紘露さん、すみません。ご正客…とか、俺、まだわかんなくて」

「あ〜えぇよ碧くん。今日はそんなん気にせんで」

「は、はい…」


 光瑠や先輩なら、この花入がどこの窯とか、花の種類とか…すぐにわかるんだろうな。

 きれいな日本画だな…。文字以外の軸も掛けるんだ。


「ええねぇ、せんちゃん。

 花入は、備前焼。伊勢崎先生のものかな?

 徳利の細さが花水木をよう映しとる。

 お軸は、林(はやし)十江(じっこう)の鰻図。この店にぴったりやねぇ」


(すごい…やっぱり全部わかるんだ)

 膝の上で握った掌が少し痛い。


「はは、さすが真紘露。

 十江のは模写やけどな」

「当たり前や。ホンモノは東京国立博物館が所蔵しとるもん」

「所蔵までよう知っとるな」

「僕を誰やと思うとるん」

「いやぁ『露真』さんがくる度に隅々チェックされたらかなわんわぁ」

「学生ん時からそうやって僕の茶名をちょいちょい小馬鹿にしはるよな。

 せんちゃんやって、ちゃぁんと『露悠』って名前もろてるやんか」


(茶名…って血筋じゃなくてももらえるのか…?)


「いや、それはうちのお袋が藤家の出やから、もらうんのが当たり前みたいな空気やったやん」


(なるほど…やっぱり血縁て重要なんだな)


 真紘露は仙賀さんが道具を運び入れる度に、茶々を入れている。


 程なくして、仙賀さんが道具を運び終えたのと同時に、ゆっくりと空気が変わっていくのがわかった。

 真紘露の視線はいつの間にか遠くを見ている。背筋はスッと伸び、呼吸の音が聞こえない。


 風炉から細い湯気が立ち上る。

 点前座についたその人は、髪の毛を結び直したようだった。


 肩にしなだれかかり、無造作に留められていた長い髪は首元で結われ、そこから下に真っ直ぐに落ちる髪の束は、その人の所作の度に細い光を反射する。


(あぁ。また…だ)


 この人の『舞』のような、お点前の所作。

 いつ見ても、何度見ても、どうしてこんなに…。


 透の手で触れるもの全てが軽々とその意思を失って透に引き寄せられている。

 無重力の中で起こる引力のようだった。

 帛紗(ふくさ)、柄杓、湯と湯気。

 それらは透の細い指で意のままに操られ、いや、むしろ自らの意思でそう動いているのか。


 おそらくまた、呼吸を忘れていたのだろう。

 苦しくて脳に酸素が足りていない。

 早くあの茶を飲みたい。

 その渇望が喜びに変わる瞬間が待てない。

 時間が止まっているように長い。

 でも目の前の『舞』は確実に、その茶碗に歓喜の緑色を満たしている。


 あぁ自分は変態か。

 いったいなんでこんな言葉を頭の中でぐるぐると浮かべているのだろう。


 仙賀さんが碧の元へ茶を運んだ。


「本日の濃茶はひと椀ずつお出しいたします」


 …。


「お先に…。

 お点前頂戴いたします…」


 うわ……。


 深緑、翡翠、若葉、萌黄、老竹、鶯、常盤…十種類以上の濃厚な緑色が渦を巻いて、茶室の景色を様々に染め上げていく。

 そう思った途端、意識は一瞬にしてどこか遠くへ没入していく。

 いや、何か別のものが自分に浸潤しているのかもしれない。


 ざざざざ… 遠くで聞こえる風の音と灰色の雲。

 ぬるい水滴が頭上から流れ落ちて足元を濡らし、十本の足の指は深く深く地へ根ざす。

 止観(しかん)をしている時のような感覚だ。

 上にも下にも自分の意識がたちまち伸びていき、やがて音もなくなる。


 ようやく呼吸ができた頃には、一体どれだけの時間がたっていただろう。果てしないほどの時が流れた気がしたが、真紘露にはまだ茶が出されていなかった。


 茶碗を回して、膝下へ戻す。


 ドクン、ドクンと心臓の音がうるさい。



 しばし惚けたように、真紘露の飲む姿を見つめていた。

 美しい姿勢、長いまつ毛。よく見るとあの人と同じ眼をしている。

 土色と、淡い紫色の花弁が開いたような、あの眼。

 その人が茶碗を口に運ぶ姿も花のようだ。

 いや、花が蝶やミツバチを自分の口元へ誘い込んでいるようだ。

 茶人は毎回こんな妖術を使うのか。


 そんなことを虚ろな頭で考えていると、もう一度碧の元に茶が運ばれてきた。


 (二服目…?)


「お手前頂戴いたします」


 …。


 …?

 同じような風の音と灰色の雲から流れ落ちるぬるい雨。

 上下に伸びる自分の思考…

 あっという間にまたあの世界に連れて行かれた…

 でも…

 色が違う。

 さっきは緑色ばかりだった。

 それなのに今回は淡い緑色が多いだけでなく、褐色や黄色も混ざっている。

 今自分が置かれている景色も、もっと広く、もっと軽く、根を張るよりも宙に浮いたような感覚だ。


 なんだこれ。

 違う茶なのか…。


「どう?碧」


 透の声でようやく呼び戻された。


「あ…あの、いつも通り。おいしかったです。

 でも、一服目と違う茶ですか?」

 ゆっくりと畳の上に茶碗を置いた。


「ふふ。僕の思った通りだ」


「え?」


「やっぱり。碧の共感覚は、結構厄介だね」


「え…」


「茶碗が違うんだよ。形も、素材もね」


 そう言われて、自分の膝下に残された茶碗に視線を落とす。


 薄い素焼きの、口が大きく広がった白い茶碗。

 たしか光瑠が言っていた。暖かくなると涼を感じさせるために、こういった薄づくりの広口のものを使うと。


「一服目の茶碗、覚えている?」


「あ…」

 そうだ、確かに、一服目のは少し厚みがあって口が狭目に作ってあり、深さもそれなりにあった。

 ごつごつとした黒っぽい茶碗。


「一服目はね、楽焼といって、轆轤を使わないで手で成形する、利休も好んだ茶碗の作りなんだ。

 さっきはそれを使った」


「それって…」


「うん、茶碗の形によって同じように点てても、味や香りの広がりが変わってくる。

 ほんの些細な違いだけどね」


「え、じゃぁ」


「そう。碧の共感覚は、器が変わると見える感覚にかなり影響があるみたい」


「そういえば…福井北陸の第七服…。それまではずっと同じような深さのある茶碗だったはずなのに、急に広口の浅いものになった気がします」

  (学校の茶室で飲んだ時も、一回目と二回目は違う茶碗だった)


「うん、僕も覚えているよ」


「その差を理解して味の変化を色濃く出せるような人は、世界に何人もいないと思うけれど…。

 それを季節や様々な要素によって、使い分けるのも茶の湯の中の楽しみだ。

 僕なんかはそれができるけどね。」


(最後の一言余計じゃない?)


「ただ、普通の人は、『香りが高くなったな』とか『まろやかになったわ』とかその程度で、茶が全く違うように感じることはないと思うんだけど…」


(そうか。だから…『厄介』なのか)


「それじゃぁ…俺…どうしたら」


「え〜そんなん決まっとるやん!」


 真紘露がすっと腕をあげて碧に人差し指を向けた。


「共感覚で味の違いを感じ分けるんは、諸刃の剣やいうことやろ。

 ほんなら、感覚やなく茶の味を覚えるしかない」


 その指で碧の鼻をツンと弾いた。


「茶の世界の人らは、みぃんな、そうしとる。

 そないな特殊な能力は、茶の本質やない。

 ニセモンや」


 !…。


 ドクンッ…。



「こら、真紘露!まだ酔ってるの?」


 ドクンッ…ドクンッ…


「だってえ、兄貴、正論やろ」


 ドクンッ…ドクンッ…


 さっきの心音とは違う、暗くて重たい大きな波が、碧の全身で脈打った。


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