第六十二服 仙賀さん
わらび餅屋さんはちょっと歩いたところにあると言っていたのにも関わらず、もう十五分くらい歩いている。
このまま歩いていくとかなり自分の家の近くまで来てしまうので、なんだか変にソワソワしていた。
目の前を歩く美しい藍染の単に紬の帯を合わせた、背筋のスッと伸びた青年は鼻歌混じりでご機嫌の様子だ。
立英館大学・衣笠キャンパスから東に二十分ほど歩くと現れる北野天満宮。
碧の家はその敷地の西側に流れる川を一つ挟んだ住宅街の一角にある。
入り組んだ路地を奥まで進み、川辺に突き当たったすぐ脇にある古民家がそこだ。
境内の敷地を境にして天神川から紙屋川と名を変えるその流れの向こう側には、青紅葉が生い茂り、この時期になるとホタルが淡い光を放つ。
そういえば、ホタルはもう飛んでいる頃だろうな。
三週間くらい前も同じようなことを考えていた気がする。
…って本当にもう家の近くまで来てるんだけど、ひょっとしてこの人、俺の家知ってるのかな…。
「気が変わったんだけどさ」
「え?」
(俺の家に行くとか言い出すんじゃないよな…)
「鰻、食べに行かない? もう少し先に美味しいお店あるんだ」
「あ、はい!」
(やった!鰻なら大歓迎だ!)
最後の晩餐は何か聞かれたら『鰻だ』と答えるほど目がない碧だったので、安易に返事をしてしまったが、同時に「自分の家に来るのかも」と連想した自分を恥ずかしく思った。
(もう…今日の変なやりとりが続いたせいだ…)
軽く肩を落としながら歩くと、自分の家からおそらく一、二分とかからないだろう場所で透は足を止めた。
土壁の奥に繊細な格子戸があり、清潔な白い麻の暖簾が掛けられていた。
その奥には淡い光で『せん賀』という文字が浮かんでいた。
(こんな早い時間なのにもうやってるんだ)
「ちなみにわらび餅屋さんは斜め向かいにあるよ。また今度行ってみてね。すごく美味しいから」
透の指差した方向を見ると確かに『煉屋』と書かれた看板が見えたが、暖簾は掛かっていないようだった。
(気が変わったというか、わらび餅屋がもう閉まっているのを思い出しただけなんじゃ…)
いずれにしても大好物の鰻が食べられるのは儲け物である。
ガラガラという音を立てて格子戸が開けられると、大きく美しいカウンターが目の前に姿を見せた。
入った瞬間に檜の良い香りがした。
継ぎ目のない一枚板。
昔、親父から聞いたことがある。『国産檜の一枚板は目ん玉飛び出るくらい高価なんだ』って。
(すごく高級そうな店だな…席も六席しかない)
「ああ、どうも透露兄はん。
なんやご無沙汰やなおもたら、今日はお早いですね」
中から出てきたのはまだ二十代と思しき端正な顔立ちの男性だったが、調理服と調理帽をきちっと着こなしたその姿には、ここの料理長らしい風格があった。
(兄はん…てことは先生より年下なんだな)
「突然来ちゃってごめんね、お席空いている?」
「はい、あの席は透露兄はんのためにいつも空けておりますんで」
「またまた、冗談言って」
(お、大人なやりとりだ…ていうか、そもそもこの人いくつなんだろ)
そう考えると、そういえば聞きたいことがたくさんあるんだということを思い出した。
「お連れ様は、生徒さんですか?」
「うん、面白い子なんだぁ。今日春戦だったの。その帰り。」
この『面白い』というのは毎回どういうニュアンスなのか…
「あの、多比良といいます。よろしくお願いします」
「おお、春戦!懐かしいなぁ」
「碧、こちら仙賀くん。僕の後輩で、碧の先輩だよ。
仙賀くんも茶道部だったんだよ」
「えっ…てことは先生も京絹の卒業生なんですか?」
「なんや多比良くん。知らんかったん?
首席で入学して首席で卒業したいうレジェンドやよ。
犬も歩けば棒に当たる状態のモテモテで、猫も杓子も透露はん透露はんて、毎日ラブレターやら贈り物が絶えんかったんやから」
(そ、想像できるような、できないような…)
「大袈裟だよ仙賀くん。
首席で入学と卒業とモテたのは本当だけど、毎日ラブレターは真紘露のほうでしょ。
それに、犬も歩けばの諺は、本来そういう意味で使わないよ」
(謙遜しているはずなのに、若干鼻につくのはなんでだ)
「はは、相変わらず鋭いなぁ透露兄はんは」
「仙賀さんは…真紘露さんもご存じなんですね」
「うん仙賀くんと真紘露は同級生だからね。
あ、真紘露も呼んだら来るかもね。メッセージしてみるね」
「ええ?あぁ…はい…」
「おお、真紘露も久しぶりですわぁ」
(いったい俺はこのメンツで何話せばいいんだろ)
「まあとりあえず、座ってください。いつもの、そのカウンターの角でええですよね?」
「うん、碧はこっちに座りなよ。仙賀くんが毎日整えている坪庭がよく見えるよ」
「はい…」
店の奥に向かってL字型に設えられたカウンターの角を挟んで座る。
透の肩越しに、二畳ほどの坪庭が見える。
大きなガラス張りの壁の向こう側にあるその場所には、自分と同じくらいの高さの小ぶりな枝垂れ桜が深い緑色のカーテンを作っていた。
その足元に据えられた大きな水盤は丁寧に磨かれており、透の言った通り毎日手入れされているのが伝わる。
それが水鏡を作って、坪庭全体を深い緑に染めていた。
時折やってくる鳥や蝶が作る波紋によってゆらめく光が心地良い。
「そういや、ちょうど今日の花入には『露葵』を入れとりますよ」
正面を見ると、壁掛けの花入には、白い大きな花が一輪生けられていた。
その下には何種類もの包丁が包丁掛けに置かれていた。
「ろきっていう花の名前なんですか?」
「うん、ツユアオイの別称だよ」
透は特に見ることもなくそう答えた。
「そや、多比良くん、うち鰻懐石なんやけど、普通に出してええんかな?苦手なもんとか、アレルギーとかある?」
「鰻懐石…?初めて…聞きました。
あっ、ていうか懐石料理自体ちゃんと食べたことないですけど…。
でも鰻大好きです!嫌いな食べ物もアレルギーもありません!」
「そんな大層なもんやなくて、懐石料理の素材に鰻を取り入れただけやから。
まあ懐石のお勉強と思って食べてってな」
「ありがとうございます!」
「はい、じゃあ少し待っとってね。
透露兄はんもいつもの感じでええやんね?」
「うん。お願い」
仙賀さんは軽く親指を立てると、奥に据えられた焼台に炭を足し、包丁掛けから背中の分厚い無骨な包丁を取って研ぎ始めた。
『お客さんの目の前で、全部やるんや』
銀次郎の言葉が、ふと鼓膜の奥でこだまする。
(えっと、なんか先生に聞きたいことが山ほどあった気がするんだけど…なんだっけ…)
大きなカウンターから漂う檜の香り、炭焼台のパチパチという音、包丁を研ぐ仙賀さんの呼吸、ガラス越しの坪庭から漏れる水紋の光…周りから沸き立ついくつもの五感の分子が、質問したい言葉を薄めていく。
「あ、真紘露来れるって返信きた。
仙賀くん、もう一つお願いしていい?」
「もちろんです。というか絶対来る思うとったんで、もう用意しとります」
当たり前のように、カカカと笑ってから裏にいるお弟子さんに「さっき言った通りな〜」と指示を出した。
「返信早いっすね…」
「真紘露は透露兄はん大好きやからなぁ」
「ここだけの話、透露兄はん宛のラブレターは全部真紘露が回収して焼却炉で燃やしてたらしいんやて。兄貴は僕だけのもんやからって」
仙賀さんはカウンターから少し身を乗り出して、碧にこっそりと囁いた。
(やっぱりブラコンだったか…。あ…)
「そういえば、銀次郎先輩と真紘露さんも仲がいいんですね」
「うん、京都で昔からある家はさ、大体繋がってるんだよ。
うちの家は松葉屋の初代からずっとお世話になってて、銀次郎が小さい頃から知ってるんだ。
千歳もそうだよ」
「それ、気になっていたんですけど…千歳先輩と…」
『真紘露さんって…何かあったんですか?』そう質問する前に、店の格子戸が勢いよく開いた。




