第六服 恋煩い?
あれから、数日が過ぎた。
碧の毎日は何ひとつ変わっていなかった。
「なぁ碧〜隣のクラスの遠藤さん見た?めっちゃ気になってんだよ〜どう思う?俺思い切って告っちゃおっかな〜」
昼休み、陽気な声で話しかけてきたのは中等部から一緒に上がってきた寺崎だった。
寺崎は母子家庭で、母親が小さな小料理屋をやっているから手伝いで部活には入れないという理由で帰宅部だったこともあり、よく一緒につるんでいた。たまに家に遊びに行ってゲームをしたり、店が休みの日にみんなでカラオケに行ったりする仲だった。寺崎の話は大抵は”恋バナ”か”ゲーム”だった。
高一男子は大体恋バナに集まってくる。あっという間に碧と寺崎の周りにいつも通りの輪ができあがった。
「え〜遠藤航なら知ってるけど。引退するのマジ悲しいよな」
「サッカー日本代表の遠藤じゃねーって!」
お調子者の寺崎のこの空気感が、碧には”ちょうどよかった”
教室の真ん中にいることを特に望んでいるわけではない碧だったが、寺崎がいるおかげで真ん中から俯瞰しているような、絶妙な距離で軽やかに空を泳いでいる気持ちになれたのだ。
「ってお前本当女子に興味ねぇよな」
「俺はテラ一筋だからね」
話題を転がすには、こういったしょうもない返しが一番効くのだと碧は理解していた。
「おいおい、全女子を敵に回しちゃったんじゃないのテラ〜」
笑い声。チャイム。廊下で誰かが床を蹴って抜けていく足音。誰かのスマートフォンから漏れる音楽。教室はいつだって音であふれている。碧はこのいつもの賑やかな音が嫌いな訳ではなかった。むしろここ三日はもっと賑やかであってくれと願っていた。
よけいなことを考えなくて済むからだ。それなのにこの騒がしさに比例して、遠くにあの音が、色が、余計に頭の奥でふとした瞬間に蘇る気がしてならなかった。
* * *
午後の数学の授業はどうしてこんなにも眠たくなるものか…。黒板の白いチョークの文字は催眠術ではないかと思う。
目を擦りながら窓の外を見ると、どこかのクラスが体育の授業で野球をやっているらしかった。掛け声とバットが振られてのカンッという音が響くのが、なんとも高校の校舎の中らしいBGMだった。グラウンドの土の匂いが風に乗って二階の教室まで届く。
校門のほうの桜はもうすっかり葉桜になりかけていて散り残った花びらがときおり風に乗って窓をかすめていく。
ふいに、あの感覚が舌の奥に舞い戻ってくるのを感じた。苦くて、奥に甘い。世界がぐっと色を増した、あの一瞬。心臓が、どくん、と鳴った、あの音。
碧の手が、止まる。
(…なんだったんだろう、あれ)
「碧、聞いてる?」
寺崎に肩を叩かれて、我に返る。気づけば数学の催眠授業は終わっていて自分の机の周りに寺崎を含む5人が囲んでいた。そしてシャープペンの先でノートの隅にぐるぐると渦を描いている自分がいたのだ。
「ん、ああ。わりい、なんだっけ」
「んだよ〜、恋煩いかよ〜。グルグル描いちゃって〜。あ、遠藤さんはダメだぞ!俺が最初に見つけたんだからな〜!」
「ちげーよ。誰だよ遠藤。ちょっと考え事。で、何?」
「今日オレんちの店休みだからさ、カラオケ行こうぜ。このいつものメンバーで」
「ああ……今日は、ちょっと用事あるわ。ごめん」
言ってから自分でも少し驚いた。用事なんてないのに口が勝手にそう答えていた。
「えー、そうなのかよ。つーか碧、なんかちょっと前から、変じゃね?」
「やっぱり誰かに、恋しちゃってる感じ? 俺、嫉妬しちゃーう!」
「だから、ちげーって。次は行くから」
カラオケもゲームもいつもなら二つ返事だったのに。なんだか今日は誰かと遊びに行く気になれなかった。あの一瞬の鮮やかさはこの騒がしい毎日のどこにも似たものがなかった。
「恋煩いかぁ…」
「え?なんか言ったか?」
「いや」
自分の呟きに"気色わる"って思ったのはこの気持ちに素直になれない自分へのもどかしさだったかもしれない。




