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第五服 ちょっと、考えとくわ

 目の前に置かれた茶碗を、ひとまず両手で抱え、口元にはこぶ。

苦い。

けれど奥のほうにほのかな甘みがある。深くまろやかな味が舌の上でゆっくりほどけていく。


 ――と。その瞬間だった。

 茶室の景色が、ふいにぐっと鮮やかになって目に飛び込んできたのだ。

椿の赤。障子越しの黄色味を帯びた白い光。その人の着物の藤色。色という色が急に濃くなったみたいに、ひとつひとつがたった今生まれたばかりみたいにみずみずしく目に刺さってくる。


 その感覚とコンマ数秒遅れずに、それは音にまでその手を広げているようだった。光瑠の息づかい、自分の衣擦れ、ふだん聞こえているのに聞いていなかった音が、一斉に立ち上がって自分に迫っているのだ。


世界の解像度が一気に上がって碧の目に浸潤し、音は碧の足元から跳ねて今にも天井から覆い被さってくる間感覚に陥った。心臓がどくんと跳ねた。


 (……なんだ、今の!?)

 思わず茶碗から口を離す。鼓動はまだ速い。しかし二、三度瞬きした後には、世界はもう元どおりに戻っていた。

気のせいか? ただ慣れない苦さに驚いただけ?

「やば、なにこれ」

 思わず声が漏れた自分に驚き、咄嗟に手で口を塞いだ。

 横では光瑠も一服もらって

「苦っ!でもなんかクセになるな」

 とのんきに笑っている。

 碧はまだ少し速い鼓動を持て余しながら、空になった茶碗にもう一度だけ目をやった。

(なんだったんだ今の…)


 *  *  *


 その人は、碧の様子を静かに見ていた。

「――どう?」

「あ、えっと……苦い、です。あ、いや、美味しかったです。でも、なんか……一瞬だけ、いろんな色が濃く見えたような変な感じがして。すいません、うまく言えないんですけど」

「……ふうん」

「美味しかったなら、よかった」

ふんわりと笑った顔はどこか飄飄としていて、茶をたてていた人と同一人物とは思えないような気がした。

(やっぱ俺、変なこと言ったよな)

「あの」

「今の、お茶…なんていうんですか」

この気持ち悪さを誤魔化そうと出た言葉はイマイチだった。

「ただの薄茶うすちゃだよ」

その人は相変わらず涼しい笑顔だった。


 *  *  *


 茶室を出て旧校舎を歩いて戻っていると、先ほどまでの出来事は夢だったのだよ。と諭されているかのような普段と変わらない校舎の風景がそこにあった。運動部の掛け声に加えてカラスの鳴き声も現実に引き戻してくれているようだった。

なのに、まだ胸のあたりがそわそわして居心地が悪かった。

「碧、どうした?」

 光瑠が覗き込む。

「いや、なんでもない」

 そう答えながら、碧は思っていた。

 (……もう一回飲んだら、あれ、なんだったのかわかるのかな)


「で、碧。やっぱ茶道部、入るだろ?」

 隣で光瑠がにやにやしている。

「いや、やっぱってなんだよ。入るとかひとことも言ってねえって。そもそも、茶道部のこと何も聞かず出てきちゃったじゃねぇかよ」

「あ、やべ!すっかり忘れてたわ。なんかあの雰囲気に圧倒されちゃってさぁ」

悪びれもしない光瑠の笑顔に、はぁとため息がこぼれる。確かに圧倒される気持ちはよくわかる。が光瑠からはそんな様子は微塵も感じられなかったのがなんだか小憎たらしい。


 しかし、あんな狭い空間でひたすら茶をたてるのが茶道だとしたら、自分には全く縁がないと改めて思った。でも、さっきの、あの一瞬の…あれはなんだったんだろうか。


「まぁ…。ちょっと、考えとくわ」

「お、めずらしい。碧が“考えとく”って言うときは、ほんとに考えるパターンのやつだ」

 光瑠がからかうように笑った。


 そう言われて、碧は自分でも気づいた。なんで、考えとくわ。なんて言葉が出たんだ?

そして、声が思っていたより弾んでいるのを自覚した。知りたい。その思いが喉の奥で反芻しているのがわかる。


四月の夕暮れの空が茜色に染まりはじめている。

その茜までも、ほんの少しだけいつもより鮮やかに見えた気がした。


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