第四服 どうぞ、座って
潜らないと入れないような、その窓のような引き戸の向こうにあったのは四畳半ほどの、こぢんまりとした和室。
先ほど歩いてきた嫌に仰々しく感じられたこの建物までの道のりに似つかわしくない、簡素とした空間だった。
しかしなんだろう、先ほどの風景との対比がまるで、外の世界と切り離された別の時間を作り出しているようにも取れた。
引き戸の手前にあった円相の窓からやわらかい光がふわりと畳に落ちている。その光の中で、床の間の細い花入に赤い椿が一輪。
掛軸には全く読み取れないが、いかにも有難そうな雰囲気の六つの達筆な文字が構成されていた。
そして床の間の向かいの壁側にはひとりの影が座っていた。
女…?いや、男だよな。
女性とも見紛う線の細い手首が伸びた藤色の着物に、無造作に束ねた長い髪。長い睫毛。
その人は柄杓で水を汲むと、茶碗の中に流し入れた。
水の流れる音はしたか?したようにも感じたし、ただ自分の心臓の音しか聞こえないような気もした。
細い竹の道具を静かに手に取り、回し始めた。しゃ、しゃ、しゃ、と澄んだ音がする。
竹の道具――あとで茶筅と知る――が、茶碗の中で細かく前後する。
そのリズムは速いのに、その人の表情は驚くほど静かだった。
茶を…、たてているんだよな?
一連の動きはすべてが淀みなく、何かの舞いのようにも見えた。碧は息をするのも忘れて見入っていた。
一通りスポーツと呼べるものはやってきたので、何かの運動を捉えることは碧にとっては難しくないはずだった。それなのに見たことがない動きに見えたのは、そこに規則性も不規則性もなかったからなのかもしれない。矛盾しているが、本当にどちらでもないのだ。
柄杓で水を汲んで流し入れ、茶をたてる。ただそれだけの動作が、動作ではなく感じるのだろうか。
「うわ…」
碧の口から、思わず声が漏れた。きれいだ、と素直に思った。
その人はふと顔を上げた。
「こんにちは」
涼やかな声だった。 ニコッと笑った顔はますます中性的で、瞬きをする度に男であることを確認する作業を何度か要した。
当たり前だが、俺らが戸をあけたことに気づいていただろう。
しかしその人は一連の動作が終わってから俺らに声をかけたんだ。
歳はいくつだろう。若くも見えるし、長い年月を重ねてきた柳の木のような穏やかな雰囲気を纏っていた。不思議な人だ、と碧はその人を異常なほど長い時間眺めているような感覚に陥った。
淡い藤の色の着物は、窓から差す光を受けて、ほのかに藤の花がゆらめいたように見えた。
「君たち、新入生かな。茶道部に興味が?」
「あ、はい!俺ら見学したくて。門開いてたんで入ってきちゃいました!」
と、俺がこれまで記してきた訳700文字の感情を彼方へ放り投げるような光瑠の素っ頓狂な返事に、強く突っ込みたくなる衝動を抑えるのに必死だった。光瑠の何事にも動じないその鈍さが、碧は羨ましくなった。
「君は」
その人が碧に言った。「ずいぶんにぎやかな顔をしているのに――目だけが、なんだか静かだね」
どきりとした。 明るくて誰とでも仲良くなれるやつ。それが世界の見ている碧のはずだった。
なのにこの人は…その奥を覗かれた気がした。
その人は碧の顔からじっと目を離さなかった。何かめずらしいものを見つけたみたいな表情のように感じた。でも不思議と嫌な気配はしなかった気がした。むしろ、なんだかくすぐったいように思えた。
「まあ、どうぞ、座って。一服点てよう」
やけに美しい笑顔を向け、何を考えているのか掴みどころのない声色でそう言った。
抗う理由もなくて、碧と光瑠は畳に膝をついた。
その人は新しい茶碗を取り、緑の粉を入れ、柄杓をとって湯を注いだ。
茶碗と、この部屋が一面みどり色で満たされた気がした。その人の手首がほんの少し角度を変えるたびふわっと良い香りが鼻を掠めた。
何かを作っているのにまるで力んでいないその不思議な手を見ているだけでなぜか呼吸が深くなっていくのを感じていた。
茶碗の中の緑がしだいに深い艶を帯びていく。しゅっ、しゅっ、と最後に手首を返して茶筅をすっと引き上げた。
そしてその人は点て終えた茶碗を碧の前に置いた。
「どうぞ」
深い緑の茶がとろりと揺れ、ほんのりと温かみを抱いているのがわかった。
碧はゆっくりとそれを両手で持ち上げた。




