第五十八服 束の間の休息
「さ、みんな腹一杯食ってなぁ!
朝イチで厨房のみんなも手伝ってくれて作った三段重!ほんまうめぇから」
会場である体育館の外に出ると、大きな楠の下にちょうど良い木陰のスペースを見つけたので、そこでお昼にしようということになった。
銀次郎が大きな風呂敷を広げると、いくつものお重に色とりどりのおかずと、おこわの握り飯が詰められていた。
「今日の目玉はな、琵琶湖の若鮎塩焼きと山椒味噌、鱧の湯引き京湯葉包み梅肉添えや。
おかずは賀茂茄子の鴫焼、走りの万願寺の炊いたんと、若竹煮、じゅんさいの土佐酢、空豆の翡翠煮、出汁巻き。京都の初夏、全部詰めてきたで。
おこわは三種類!うすいえんどうと、山菜、今シーズン名残りの桜えび。
喧嘩せんと食えよ」
今日の昼は俺に任せておけと言っていたので、期待はしていたが、まさかここまで豪華な弁当が出てくるとは思わなかった。
「わーなんかピクニックみたいで楽しいね〜」
いつの間にか戻ってきた顧問は、碧の後方からぬっと手を伸ばし、いつもの調子で山菜のおこわを摘んでヒョイっと口に放り込んだ。
「先生!なんでそういうお行儀悪いことしはるんです!」
いつものように千歳がキッと睨んだ。
「えー?ちゃんと手洗ったよ?」
「そういうことやありまへんて!」
部室と同じような景色に、ここにある空気が少し和んだ気がした。
「せんせ〜さっきはほんまにありがとうございました。
おかげでうち、肩の力抜けました」
茉莉が珍しく深々と頭を下げる。
「会えて良かったね〜。晴哉さんはもう帰っちゃったの?」
「はい。でも忙しい中、ほんまちょっとだけでも顔出してくれたん、嬉しかったです」
茉莉の嬉しそうな表情は、父親への尊敬とその存在の大きさを物語っていた。
その横で、光瑠は寂しそうに見えた。
(まだ落ち込んでいるのかな、いや、前もこんな表情を見たような…)
「先生…俺…なんか、全然味わかんなくて…なんかコツとか…」
これ以上ないほど大粒の涙を目の中にいっぱいに溜めながら、銀次郎のおかずを口いっぱいにしてモゴモゴと喋る光瑠は、かろうじてその涙が流れるのを堪えているようだった。
「ん〜まぁ、いいんじゃない?最初だしさ〜先輩たちがなんとかしてくれるよ〜」
光瑠のくせ毛をクリクリと回してヘラヘラと笑う。
「え〜そんな〜先生〜」
(そうだ、俺もお礼言わないと)
「あの、先生。俺も、あ…ありがとうございました」
「お、なんや碧もセンセになんかええことしてもろたんか?」
銀次郎が興味深そうに碧を見る。
「いや、いいこと、というか…」
「碧、僕のくち。ちゃんと読んでくれたんだね〜」
あの時と同じように人差し指を唇に運んだ。
するともう片方の手で碧の顎をクイっと自分に向け、自分の唇から人差し指を離して碧の口に移し、ちょんと触れた。
(うおぉ!何してんのこの人!)
「え、なんや碧、センセとそういう関係なん?」
「え!?いや、いや!…んなわけないじゃないすか!」
「はは、焦りすぎや碧、冗談やって…!」
銀次郎も面白がって碧の顎をクイっと自分に向ける。
「ちょっと先輩!ふざけないでくださいよ〜!」
「あはは。碧って相変わらずそうやっていじられるんだな。
なんか小学校の時も友達の姉貴とか兄貴にそうやって可愛がられてたよな」
光瑠の笑った顔を見たのは、なんだかすごく久しぶりだ。
中間テストから闘茶の特訓まで、光瑠はずっと顔を強張らせていた。
(あ、そういや…)
「そうだ、光瑠! 来週どこか空いてんなら、光瑠んち行こうよ。
五月中行こうって言ってたのに、中間テストとかこの大会の練習詰め込んで行けてなかったじゃん」
「あ、そういやそうだったな!
帰る時決めようぜ!」
光瑠の顔に少し緩みが戻った。
「じゃ、そろそろ時間や。リラックスして行こな、光瑠。
光瑠はなんも背負わんくてええんや。うちらがおる」
絶対勝ちたいはずの千歳から出た言葉には、プレッシャーも何も乗っていなかった。
「そうやで、光瑠。闘茶だけが全てやないねんから!
つうか、もう初戦突破してベストフォーになったんやし、あとは気楽に行こ」
いつものように銀次郎が八重歯を見せて光瑠の頭を撫でる。
頼もしい先輩たち。
いい場所だな…と改めて思う。
* * *
その頃、五本先の楠の脇から忍ぶ影が一つ…。
ちょ、ちょ、ちょっと…!!なんなのぉ!あいつぅ!!
私の王子様にあんなに馴れ馴れしくしてぇ!!
あれって、藤千家の兄の方?だよね?
私の王子様にあんなに近づいて、顎までクイっとしちゃってさぁ…!
それは私が王子様にやってもらうやつでしょうがぁ…!!
は…!!
まさか、そういう関係!?
嘘でしょ?!?
ここでBL展開?
顧問の職権濫用じゃん!!
いやぁ〜!!恋のライバルが男なんてぇ!
ふ…落ち着くのよ芽衣。
次の対戦で私が圧倒的に勝つ姿を見たら、きっとわたしの一番かわいいところに気づいちゃうし!
盗み聞きした会話で王子様の名前が「あお」って分かったし。
あお様、私が目を覚ましてあげる!!
『わたしの一番かわいいところに気づいてるぅ〜♪?』
『そんなきみが一番すごい すごいよ すごすぎる〜♪』
「なに鼻歌歌いながら〜ご機嫌じゃん?芽衣」
「王子会えた?」
「ちょっと衝撃的な事実もあったけどぉ、私が一番可愛いってこと、気づかせてあげるから大丈夫ぅ!」
「え〜なにそれ芽衣〜」
「いつもながらウケんだけど」
「さ〜次の闘茶、マジ気合い入れていくよぉ〜!」
「はいはい」
* * *
「さ、そろそろ戻ろ。銀、お弁当ありがとう」
「銀ちゃん先輩!めっちゃ美味かったですぅ!やる気満々!」
「先輩!ごちそうさまでした!この後も頑張ります」
「俺も、できる限り…がんばります!!」
「ほんとほんと、ちょっとした茶懐石だったね〜銀ちゃ〜ん。
この後のお茶美味しそう〜。みんないいな〜」
(この人は、相変わらず他人事だな…。
でも、そうか茶懐石って。
本当の茶会は懐石食べた後に濃茶なんだよな。俺も一度ちゃんとした茶会出てみたいな)
束の間の休息。
たった一戦しかしていないのにも関わらず、さっきまでの息の詰まる思いだった。
なのに、この穏やかな木陰の下で過ごした少しの時間は、その空気の重力をゆっくりと無くしていった。
次の対戦で勝てば決勝に進めるが、京絹茶道部はそれよりも、茶を楽しもうとする表情で満たされていた。




