第五十服 茶寮・松葉屋
銀次郎の実家が経営する老舗料亭は下鴨神社の近くにあった。
茶寮・松葉屋。
安政三年(1856年)に創業した由緒ある料亭の目の前に着くと、表には大きな暖簾がかかっており、そこには『茶懐石』『京料理』と書かれていた。
本来ならば銀次郎と一緒に学校を出てそこへ向かうはずだったのだが、昨日思わぬ形でリマインドされた来週から始まる四日間の中間テストについて、タイムリーに時間割が発表されたため、成績順で特進クラスとされてしまったA組と碧のいるB組は、ホームルームが長引いた。
『終わり次第すぐ向かうんで、センパイ先に帰ってください!』とメッセージを打ち、やきもきしながらホームルームが終わるのを待ったが、結局、B組の担任の長話は予定よりも25分も終了を遅らせた。
『着いたら店入ってええから、その辺にいる店のもんに俺の後輩やって言うて〜案内してくれるよう言うとくわ』
銀次郎からの返信は少し碧を緊張させた。
茶寮・松葉屋のホームページをホームルームの間に軽くスワイプして見てみたが、そこには大層高級そうな日本料理の画像だけでなく、映画やドラマで大物政治家や財界の偉い人が悪巧みをしたり、もしくはそこで悪人が斬られたりする場面で使われるような個室のビジュが画面を埋めていたからだ。
三条駅で鴨東線に乗り換え、出町柳駅を降りてから急いで向かったときには、すでに17:00からの予約客を乗せた送迎用の高級車がずらりと駐車場を埋めていた。
黒いカチッとしたスーツを着て白いグローブをはめた、おそらく高級車の運転手であろう人々が、それらの高級車の外に出て待機している。
その風景は太田さんの茶会の時よりも遥かに場違いなところに来てしまったようで、暖簾に書かれた文字からは、自分のような者がこの暖簾を潜って敷居を跨いではいけないと諭す声が聞こえる。
運転手がちらっとこちらを見てくるので、余計に「ここはガキの来るところじゃねえよ」と言われている気がした。
大きな暖簾がはらりと動くと、中居さんが打ち水をしようと檜の桶と柄杓を持って出てきた。
運転手に「皆様に、間も無く順番にご案内いたしますのでね」と言って一礼したので、大急ぎで駆け寄り、慌てて声が裏返ったりしないよう、慎重に銀次郎の後輩であることを伝える。
「あらまあ!坊ちゃんから聞いとります」その人は和かな顔で碧を入り口に促してくれた。
(ぼっちゃん…!)
京絹学院は中等部から財界のお金持ちや権力者の子女が多く通う学校ではあるが、実際に坊ちゃんと呼ばれる人を初めて見た。
というか、いままでそういうタイプの人間とつるんでこなかっただけなのか。
完ペキ『類友』ってやつだよな…。
自分の見ている景色や周りの世界に存在する人が、ここ二週間で急激に変わったことに、改めて夢なのでは…と思う。
それでいて、まだ二週間しか経っていないことも変な感じだ。
「少々お待ちくださいね」そう言ってその中居はなるべく足音を立てないように気遣いながらも急足で奥に消えていった。
銀次郎を呼びにいってくれたのかと思いきや、連れて戻ってきたのは立派なスーツを着た背の高い男性だった。
「こちらが副支配人です」と言ってその人に自分を託し、さっさといなくなってしまった。
おしゃれな口髭をたくわえたそのスーツの人から「野口と申します」と言われて名刺を差し出されたが、一体それをどうしたらいいのかわからない。
出来るだけ深く、なるべく丁寧にお辞儀をしながら両手で名刺を受け取る。
「あの、多比良と…いいます。銀次郎先輩から、茶道具をお借りしに来たのですが…」
「はい、聞いております。お待ちしておりました。
ただ、申し訳ないのですが銀次郎は只今板場に入っておりまして、少しだけこちらでお待ちいただけますでしょうか」
そう言うと、副支配人の野口さんは美しく整えられた中庭が見える廊下を進み、繊細な細工の入った障子戸を開けた。
障子の向こうに、その部屋はあった。
映画やドラマで見たまんまのセットのような個室。
ホームページで見るよりも、リアルにそこは『その部屋』だった。
白い巨塔で財前教授が賄賂を渡したり、御上先生が悪徳学園理事長を成敗するようなことが、本当に行われているだろうと嫌でも想像してしまう。
落ち着かない心地で待っていると、先ほどとは別の中居さんがおしぼりとお茶を持ってきてくれたのでとりあえず無言でお茶を啜る。
念の為頬や耳を摘んでみる。
ま、現実だよな…。異世界でもないし。
こんな部屋でスマートフォンをいじったり、ましてやYouTuboを観たりするのは「無礼者」と言われそうで、仕方なく中間テストの勉強でもしようかと教科書とノートを開く。
どこか少し離れた部屋からだろう、男性たちのちょっと悪そうな低い笑い声が聞こえてくる。
(どうしよう、いきなり『国宝』みたいな組同士の抗争が勃発したら…)
くだらないことを考えながら中間テスト初日に実施される英語の単語と文法、化学記号を頭の引き出しに仕舞い込む。
(まだ先輩来ないな…なんか腹減ってきた…)
先ほどから何種類かの出汁の良い香りがしてくるのだ。
(昆布と、鰹かなぁ、椎茸の香りもする。はぁ…うまそうだなぁ…)
空腹で集中力が途切れてきたのでスマートフォンをチラッと見ると、18:33と表示されていた。
そこから三十秒とたたずに突然障子が勢いよく開いた。
「すまん!碧!めっちゃ待たせた!」
板前の着る白衣と白い帽子をつけて、銀次郎が現れた。
着物とはまた違う、職人のたくましい姿に、初めて会った時から銀次郎の兄貴分な甲斐性も含めてその凛々しい姿に憧憬のあった碧は、改めて惚れ直す思いだった。
「うおぉ!か、かっこいいっすね、先輩。そのかっこ」
「いやぁほんま待たせてすまんかったわ。帰ったら厨房が二人病欠しとって、穴埋めせぇ言われてもうて大急ぎで板場に入ってん」
「ぜんっぜん、大丈夫です。忙しいのにすみません」
「つーか碧、勉強しとんのか、偉いな」
俺は中間テスト諦めたわと笑って座敷の対面に座り、黒く漆が塗られた箱を座卓の上に置いた。
「これな、うちで使うてへん茶箱やから、このままフルセットで持ってったらええよ」
その箱を開けると、中には茶碗、茶筅、棗、茶杓、建水などお点前ができる道具が一式揃っていた。
「いいんですか、こんな高そうな…」
「ああ、ええやろ。おふくろがええよ言うとったし」
銀次郎は立ち上がると障子を開けて、おーいと誰かを呼んだ。
「碧、腹減ってるやろ。いま持ってきてもらうから、ここで一緒にメシ食おうや」
障子がすっと開いて、中居さんがお膳を運び入れていった。
「厨房に戻らんとあかんから、あと40分くらいしか時間ないねんけど」
そう言う銀次郎の言葉と表情からは、父親が長期間不在にしている自分を気遣ってくれたのだということが、手に取るように伝わってきた。
お料理が何もかもが美味しかった感動以上に、銀次郎のその心配りが、碧には嬉しかった。
銀次郎は、この店の歴史や茶懐石という料理について、そして将来は大学へは行かずに高校卒業後はこの店を継ぐために修行を重ねること、そのために茶道を学んでいる──というような内容をいつものテンポの良い口調で話してくれた。銀次郎の言葉ははんなりとした京言葉というよりも、パキッとした大阪弁に近いように思う。しかしそのキャラに似合っていたし、たまに滲ませる柔らかな言葉は、育ちの良さを感じさせた。
銀次郎の人間性は碧が想像する『お坊ちゃん』では全くなかった。
その眼や言葉は茶会で見た光瑠や雪乃と同じように眩しかった。
碧は茶箱を抱えて帰路につく。
(店のことで忙しかったのに…悪いことしてしまった)
瞼の裏の銀次郎は、疲れた顔も一切なく、ただ目の前にいる自分を喜ばせてあげたいという一人の料理人であり、一人の先輩だった。
茶という世界に出会ってから何度も聞いた、「もてなしの心」という言葉を反芻する。
今日の空はよく晴れて雲ひとつない。
月も星も、透き通った光が美しかった。
銀次郎の眼を思い出す。
茶を通じて出会ういくつもの光は眩しいけれど、目を塞ぎたくない。
顔を背けたくない。
いつもより軽く感じる脚で、いつまでもこの夜空の光の下を歩き続けたいような気持ちになった。




