第四十五服 やりたいこと
親父が、今日からまたしばらく居なくなる。
もうずっと前から、居ないことなんて当たり前のことだったのに。
親父が帰っていた二週間ちょっとの間も、ろくに会話なんてなかったのに。
昨日親父と過ごした一日で、空白だった時間がすっかり埋まってしまった。
また、親父と旅に出たい。
親父がその目で、そのレンズでみている世界を、もう一度俺も見たい。
そんな想いが芽生えていた。
洗面台で顔を洗いながら、頭の中で押し問答している。
「俺も連れていってほしい」そう言いたい自分と、今まで避けてきたことに向き合い始めたのに「そうやって言い訳つけて、逃げようとしてんの?」と痛いところを突いてくる自分。
明日になったら、また茶道部に行かなくてはいけない。そしたらあの冷たい目が待っているのだろうか。
教室では、寺崎とどんな顔で会えばいいのだろう。
親父と一緒にいたいという思いは本当だった。
でも…。
冷たい水を顔に当てても、眠い目をちゃんと開けられずにそのまま歯ブラシを口に突っ込む。すると台所の方からいい匂いがしてきた。
匂いの元を辿るとすでに朝ごはんができていた。
「あれ、親父…朝ごはん、作ってくれたの?」
「昨日、琵琶湖の店で女将さんから、山菜と茸たくさんもらったろ? お前最後の方眠そうにしてたから覚えてないか」
「最後にお前と、うまい山菜汁のもうと思ってね」
親父って、こんな感じだったっけな。
仕事一筋で、俺のことは大して興味なくて、唯一俺に興味を持つのはレンズを通して見ている時だと思っていた。
碧は、『多比良湊』というフォトグラファーを尊敬していたし、その人が作る作品が大好きだった。それが自分の父親だということを誇りに思っていたのは確かだった。
しかし昨日と今日で見た『父親らしい顔』に、碧は言葉にできない感情にモヤモヤとした。
「あ、ありがと…。 親父、今日何時に出発すんの?」
「んー、特に決めてねぇけど、向こうに手土産の菓子でも買ってかないといけないから、午後に家でて、買い物してから…まぁ十五時くらいには京都駅かな」
「そうなんだ…。 あ…! 親父、もう、手土産買う店決めてんの?」
「いや、まだだけど」
「あ、そしたら、行きたい店あんだよ。そこで買っていけばいいと思うんだけど」
「いいね。じゃ、そこ行こうか」
親父は、朝食を食べ終えると、次の仕事先へ向かうための最後の身支度を始めた。
大きな荷物はもう先に向こうに送ってしまったらしい。
* * *
雪乃の家がやっている店『白扇堂』は烏丸御池の近くにあると言っていた。
Goodle mapでルートを辿りながら店に着いた。
真っ白な塗り壁。エントランスのフレームには古木が使われている。藍色のグラデーションで染められた麻の暖簾が、脇に植えられた小さな柳の枝と一緒に揺れている。
老舗の京菓子店に生まれ、パリで学んだという雪乃の父親の感性をその外観が謳っていた。
引き戸を開けると、上品そうな女性が店頭にいた。
「ようこそ、おこしやす」
そう言った女性は、目元や鼻の形など、どことなく雪乃に似ている気がした。
(雪先輩のお母さんかな)
古木のフレームで作られたガラスケースには、煉切を中心に色とりどりの京菓子や水菓子、羊羹が並べられていた。
「お〜いいね、今風な感じで」
「あ、親父…このお店学校の先輩のお店で」
「あら、雪乃の後輩の方やったんですか? 雪乃なんも言うてへんかったから。今、呼んできますね」
「あ、いや、俺も特に今日来るって言ってなくて…先輩忙しいと思うんでいいですよ」
「遠慮せんと〜ちょっと待っとってくださいね」
(やべ、俺そういえば茶道部入ったって親父に言ってなかった)
「あ!碧くん! ようこそ〜!後輩の子が来てる言うから、食いしん坊の光瑠くんやと思たら…って…!」
雪乃は突然碧の腕をつかんで引き寄せ、耳元に口を近づけてきた
「そ、そ、そのお隣のむっちゃ素敵な殿方はどちらはんですか…??」
「へ…!? お…俺の親父っす…」
「えぇぇぇ!!! おとーさま!!! なんっっっちゅうイケメンな…」
「どうも、碧くんの先輩させてもろてます〜…雪乃いいます…!」
顔を真っ赤にする雪乃を見て、自分の父親の顔面レベルが相当高いことを改めて認識した。
「どうも〜愚息が世話になってます。 あの、生菓子ぜんぶで三十個くらいほしいんだけど、何日持つかな?」
「あ、はい!生菓子はすべて明日の夕方までに召し上がってください。
そちらでよろしければ皐月の五種を六つずつ、それぞれお包みするのではいかがでしょうか」
「うん、じゃあそれでお任せするよ、雪乃ちゃん」
「は、はははい!!いますぐに!」
雪乃は赤い顔面を両手で押さえて、壊れたおもちゃのような悲鳴をあげて裏に駆け足で戻っていき、走るなと叱られていた。
「親父って…女の子弄ぶタイプ…?」
「なーにいってんだ。俺はお前の母さん以外愛したことないぞ」
(俺の周りにいるイケメンと言う生き物はなんでこう、胡散臭さたっぷりに笑うんだろ…)
碧はもう一人の違うタイプのイケメンが放つ胡乱な笑顔を思い浮かべた。
「それでは白扇堂の皐月の五つです。
薄水色の羊羹。銘を薫風
藤色の煉切。銘を藤娘
新緑の楓の煉切。銘を若楓
薄紫の外郎。銘をからころも
いちじくと小豆の浮島。銘を岩根つつじ
ご確認ください」
「おお、きれいだな〜ありがとう」
会計を済ませるときも雪乃の目には絶えずハートマークが浮かんでいた。
帰り際。碧は雪乃から「絶対またお父様連れてきてね!」と三度念押しされた。
「じゃ、ちょっと早いけど、買い物終わったし、俺そろそろ行くな」
「…。 あのさ、親父、俺、茶道部入ったんだよ」
「ん?ああ、知ってるよ?」
「え?は!?なんで?!」
「だって、居間に岡倉天心の本置いてあったろ。なんか抹茶が入った小包も。で、茶道部の先輩なんだろ?この店」
「あ……」
「やりたいこと見つけたんなら、いいことじゃねぇか。しっかりやれよ。」
碧は少し言い淀んだ。
「…あ、あのさ…!」
「おれ、また親父と、いろんなとこ、行きてぇ…とか…思ってんだけど」
親父は驚いたような、嬉しそうな、たぶん、そんな表情をしていた。
「おお、いいじゃん」
親父は、俺の頭にポンと大きな手を乗せた。
「八月、帰ってくるから。夏休み、どっかいこーぜ」
「…!」
「じゃぁまたな、碧。こんど、俺にも茶点ててくれよな」
「お、おう…」
* * *
ひとりになった家に戻ると、昨日より気温が下がったように感じた。
一人の家には慣れているのに。
親父の仕事部屋も、寝室も、親父が居る時は入ろうとも思わなかったのに、今はそこにいない人影が、やけに気になる。
親父なりに、俺のことを気にしてくれていたのだ。
「やりたいこと…」
居間の書棚に置いた『茶の本』をもう一度取り出した。
『不完全なものを崇める試み』の一行をなぞる。
まだ、自分が『やりたいこと』は、よくわからない。
でも、茶をやってみたいと思ったんだ。
わからないことも、知りたいことも、たくさんある。
だから…
碧は、縁側に座って、大きく深呼吸をした。結跏趺坐を組み、法界定印を結んだ。
少しずつ、庭の松の根元に視線を落とす。
そのまま、深い呼吸の中に、意識を溶かしていった。




