第四十四服 多比良 湊(2) (キャラクターイラストあり)
* * *
外に出ると、まだ時間は九時を過ぎたところだった。
相変わらずスロースタートな京都の街は、まだ朝靄がかかっているように見えた。
「おやじ、これからどこいくの?」
「うーん、街をぶらぶらしようと思ったけど、やっぱり、別んとこ行こうか」
「え、決めてねぇの?」
「まぁいいじゃねぇか、ちょっと電話してくる」
「…」
(自由で、縛られない)
親父の、無計画でその場の感覚で何でも決めちゃう性格。忘れてたけど、そうだったよなぁ。
(なんか最近、自分と違うちょっとしたことが気になってしまう。 俺ってこんな繊細ちゃんだったっけな…)
しばらくすると父親が戻ってきた。
「よし、OKだった!今から滋賀、行くぞ!」
「は?」
「大丈夫。滋賀っつってもすぐそこだから」
そう言って、親父は四条通りまでスタスタと歩くと、タクシーを拾った。
親父はタクシーに乗り込むやいなや「比叡山行って。延暦寺まで」と運転手に伝えた。
「え?!今から?」
「大丈夫だよ、こっから一時間かかんねえから」
そういってそのままタクシーを走らせた。
市街を出てあっという間に山道に入った。
市街を出る途中に、八坂神社、平安神宮、銀閣寺の近くを通り過ぎたので、観光客がそこに向かっていくのが見える。
(中学校の校外学習でしか、この辺りって回ったことないな…)
四条からは本当に四十五分足らずで延暦寺に到着した。
中学校の時の林間学校で比叡山に行った時はものすごく遠くに感じた。
先日、宇治に行った時もそうだったが、俺はこの一年半、無駄に京都に居たんだなと改めて反省する。
タクシーを降りると、山の上の独特なひんやりとした空気に加えて、霊感などそういった類のものは一切持ち合わせていない碧でも感じる、畏敬にも似た厳かな力が大地から湧いている。
(空気が…全然…違う)
この時間だからか、まだ観光客はまばらだった。
「うあー!気持ちいなー」
タクシーからジャリっと音を立てて足を地面に着けた親父は、右手を左腕に絡ませて、伸びをした。
碧はその時にハッと気づいた。
違和感の正体…え、なんで…!?
「おい、親父…!」
堪らずその違和感を問おうと声を上げたその時、
「あ!どうもー! 光逸さん。ご無沙汰してます」
本堂の前に、一人の住職らしき人物が立っており、親父がその人に向かって呼びかけた。
「ああ、どうもお久しぶりです、多比良さん。ようこそ、お越しくださいました。」
親父はぺこりと一礼すると、手をその住職に向けて言った。
「碧、こちら、延暦寺の大僧正・藤原光逸さん。ご挨拶しな」
延暦寺。それは平安の朝廷とともに栄え、平家一門の栄枯盛衰にも深く関わった、千二百年にもわたる歴史の証人でもある。
織田信長に焼かれたが、羽柴秀吉により再建され、その威厳たる風態を湛えた天台宗の最高峰。
大僧正とは、ここ延暦寺で一番偉いお坊さんのことだ。
そんな人と、なんでうちの親父が…!
「多比良…碧です。よろしくお願いします」
「藤原光逸 と申します。 どうぞ、こちらに」
光逸大僧正は本堂を通り過ぎてその奥へと案内した。
「おい、親父!延暦寺の大僧正となんで知り合いなんだよ!」
父親の袖をついっと引いてひそひそ声で質問した。
「あ?そら、俺が光逸さんと延暦寺一帯の写真撮ったからだろ。お前知らねぇの?」
「し、知らねぇよ!」
「えー話さなかったっけ。まーそういうこと」
「いや、写真撮ったからって、こんなカジュアルに呼び出し出来ねぇだろ普通」
「ん?そうか? まぁ、今日はたまたまOKだったからいいだろ。気にすんなよ」
「…」
「こちらが、国宝・根本中堂です」
重厚な回廊を抜けると美しい中庭を挟んで大きな本堂が姿を現した。
「千日回峰行を終えた荒行の行者がここで満願の報告を終え、大阿闍梨として名を授かります」
千日回峰行。七年間で合計約千日、地球一周分に相当する約4万キロ以上を走破する修行である。
千日のうち特に過酷とされるのが、七百日を満了した後の九日間。お堂に籠もり『断食・断水・不眠・不臥』を貫き、ひたすら不動明王のご真言を唱え続ける『堂入り』といわれる命懸けの荒行である。
「さて、では今からこの中庭で、四十五分間の止観 を行いましょう」
「し、しかん?」
「坐禅のこと」
湊が気持ちよさそうに息を吸いながらそう言った。
(えー座禅やるなんて聞いてねぇ…!)
父親の方をちらっと見ると、シャツを一枚脱いで、やる気満々の様子だ。
いつも重たい機材を抱えながら、ときには山脈を長時間登ったり、足場の悪い土地を延々と歩いたり、自然の猛威にさらされるような環境で撮影をすることもある父親の体は大層鍛え上げられており、息子の自分から見ても美しかった。半袖シャツ一枚を纏ったその肉体は、今から止観ではなく、体術でもやるのではないかと思うほどだ。
「よろしく…お願いします」
碧は断ることもできずに、その場に腰を下ろした。
「普段はね、ここでは止観を行わへんのですが、多比良さんはね、特別や。お友達には内緒にしとってな」
光逸大僧正は、千二百年の歴史を持つ天台宗の総本山・比叡山延暦寺のトップオブトップだ。
千日回峰行まではなくても、数々の荒行を乗り越えてきたはずだ。
それなのに、出会った時から全く畏怖も、荒々しい気迫も、重々しい空気も感じない。
「さあ、まずは座って。止観の姿勢を作りましょう」
「足は、結跏趺坐いうて、足裏を上に向けて組む胡座にします。
手は法界定印を作るんや。
右手のひらを下、左手のひらを上にして重ねて、親指をつけ綺麗な楕円の輪を作る。両腕・両脇を少し開け、おへその下あたりにその印を楽にしておいてください」
「目は、閉じひん。 ゆっくり視線を落とすだけや」
「呼吸は、腹式呼吸。静かに鼻から吸って、ゆっくりと口から吐き出す。それを時間をかけてくりかえしてください」
「ゆっくり頭を空っぽにしていきなさい。
雑念が過ぎるようでも、無理に払おうとせんでいい。
もしどうしてもの時は、胸の前で手を合わせ、私に合図してください。
あなたの雑念がなくなるよう、私も念じましょう」
「まずは、この空気と一体になり、自己と周りを感じることです」
そう言い終わると、光逸大僧正は今しがたの雰囲気とガラリと変わった。
目の前に、猛々しい岩肌、稜線を携えた気高い大きな山があるようだ。それでいて薬師如来のような慈悲の温もりがあるようにも思えた。
碧は、大僧正が言った通りに、ゆっくりと静かな呼吸を繰り返しながら、視線を落とした。
しばらくするとあたりにまったく音を感じなくなった。
音がなくなったわけではない。
根本中堂の周りにいる観光客のざわめき、それすらも無音の一部だった。
時折うっすらと視界に入ってくる何かが、日の光なのか、雀の戯れなのか、黒蟻の抗争かわからない。
意識は深く深く鳩尾のあたりから下に埋もれ、上は旋毛のあたりから高く高く伸びていく。
気づくと、あっという間に時間が経っていた。
頭の中と胸の中にぐちゃぐちゃとあったあらゆる音も色も透明となり、元から存在などしていなかったかのように息を潜めて静かになっていた。
「もっといろいろお話をしたいところなのですが、時間が限られておりましてね」
そう言うと、大僧正は言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「最後に少しだけ、天台宗の開祖・最澄の話をさせてください」
「天台宗には、『己を忘れて他を利する』忘己利他という教えがあります。
自分の損得や我欲は忘れ、まず他者の幸せのために尽くすことこそが、最も尊い慈悲の行いであり、真の喜びであるという精神のことです」
「心がざわついた時は止観で穏やかになり、そして忘己利他の精神を持って自分の役割の道標としてください」
…親父は、何か俺に伝えたいことがあったのだろうか。
「また、いつでもきてくださいね」
そう言って大僧正は、他の和尚に連れられて、根本中堂を後にした。
「ありがとうございます」
四十五分はあっさりと終わってしまった。
隣を見ると、精悍な顔立ちの男性が清々しい顔をしていた。
「親父…は、こっちはよくきて、坐禅してんの?」
「ああ、家でもよくやってるぞ」
「え、そうなの?それも…知らなかった…」
「アタマ空っぽになって気持ちいいぞ。場所選ばなくていいしな」
「ああ…。そうだね。
俺も…これからやってみる」
「さ、じゃー鼈食って帰ろっか!」
「え、すっぽん?!」
「おう、日本で一番うめーから!」
今日はずっとこの調子で親父の気まぐれで行動するのか…。
(あ、そういえば…あの違和感…)
「そうだ、親父…!!」
「ん?」
「今日…なんでカメラ持ってないんだよ!」
「は?なんでって」
「だって、親父は仕事もプライベートも関係なく、いつもあのでっかいカメラ、絶対持ち歩いてるだろ。
いつ、どんな景色が目の前に現れるかわからないからって。その瞬間を逃したくないからって。
カメラ持たないフォトグラファーなんてのは、命捨ててんのと一緒だって」
「んぁ〜そんなこと言ったか?
まぁ、仮にそうだとしても、お前と久しぶりに出かけてんだ。それより大事なもんなんてないだろ」
「…!?」
「なーんて、実はさっき、お前の止観の姿撮ったんだぜ」
湊はニヤッと笑って、ポケットに入るサイズのLeicaをちらっと見せた。
それは、碧が小学生の時に、こっそり持ち出して写真を撮り続けたカメラだった。
「いい顔してたぜ。今度見せてやるよ」
「い…い…いいよ!恥ずいだろ!」
「てか、なんだよ、カッコつけて結局カメラ持ってきてんじゃねぇか」
「ははっ」
そのあとは、さらに琵琶湖の北までタクシーを走らせ、山野辺料理と書かれた店に入った。
(タクシーを入り口で待たせていたのには驚いた…!)
この店も親父と何らか関係があるらしかったが、それよりもその日は、俺が親父と旅をしなくなってからの話、旅をしていた時の話をたっぷりした。
そうしたい気分だった。




