第四十三服 多比良 湊
下手な玩具のような鳥の鳴き声で目が覚めた。
洗面台にいって蛇口をひねると、水の流れるちょろちょろという音と、水指から柄杓で水を汲んで釜に入れる音とは全然違うと感じる自分がいる。
あれから、あの点前のことばかり考えている。
木漏れ日の揺らぎ。
漣のように掠れる枝葉。
風に遊ばれる洗濯物。
朝露。
まな板を叩く包丁。
これらのふとした音や景色の中に見える、茶事と重なるなんらかの事象。
羅列するとキリがない。
そしてその全ての事象は、あの人に酷評された、あの言葉に帰着する。
はぁと深く嘆息し、顔を洗って歯を磨く。
まだ寝ぼけた様子の髪の毛は、いろんな方向へ向いて落ち着かない様子だ。 ヘアミストを散らかった毛先に吹きかけ起きろと呼びかけると、もう一つ、嫌なことを思い出した。
「わかったわ。もう誘わん」
寺崎の一言は、碧が15年間生きてきた中で、初めて友達から拒絶された言葉だった。
胸のあたりがキリキリと痛む。
自分が離れる前に、何かが離れて行ったのはそれが初めてだった。
さよならがあるから本気にならない。だからいつもさよならをいう時は、「また会おうな」という表面的な言葉と笑顔で簡単に別れてきたはずだった。
本気になることを選んだら、別の別れが突然やってきた。
(くそ…なんだよ。みんなして)
居間にいくと、親父がもう出かける支度をしていた。
「あれ、親父、もう出るの?」
「おう、朝メシ、外で食おうぜ。早く着替えてこいよ」
「え、朝から出るなんて聞いてねぇよ! ちょっと待ってて…」
急いで部屋に戻り、大急ぎでその辺にあったシャツとパンツを着る。
(ほんと、みんな勝手だよな…)
くしゃくしゃな感情に手を当てることもできずに、ばたばたと音をたてて玄関にいくと
親父が母親の写真の前で手を合わせていたので、少しの間それに倣った。
* * *
母親の記憶は全くない。碧が五ヶ月くらいのときに交通事故で亡くなってしまったと聞かされていた。
親父は仕事で海外にいて、すぐに戻って来れなかったことを今でも申し訳なさそうに話しているとじいちゃんから聞いたことがある。
親父に連れられて向かった先は、四条駅近くにあった。
高辻通をまっすぐ行って油小路通を入ると途端に人集りができていた。
こんなひっそりとした住宅街に、しかもこんな朝早くから異様な光景が現れて戸惑う碧を意に介すことなく、親父は躊躇なく入り口の暖簾をあげてずんずんと進む。
店に入ると、すぐに大きなカウンターがあった。詰めて座ってもおそらく十人と座れない。
カウンターの中では三人の体格の良い料理人が、忙しなく注文を捌いている。
ご飯の炊ける甘い香りと、炭火のパチパチという音、香ばしい焼き魚の香が煙と共に舞い上がり、店中に充満していた。
カウンターは満席のように見えた。
「ご予約取られていますか?」
入り口に立っていた店員の少しぶっきらぼうな問いかけに親父は当たり前のように答えた。
「はい、多比良です。多比良湊」
「あ、湊はん!お待ちしておりました!」
店内に響きわたる威勢の良い声が、カウンターの奥から聞こえてきた。
「大将、これ、俺の息子。イケメンだろ、俺に似て」
親父は碧の背中をポンと叩いて前に一歩寄せ、カウンターから出てきた恰幅の良い男にそう言った。
「えー息子はん!ほんまイケメンやわ。最近のアイドル顔負けですやん! 口元なんて湊はんそっくりやわぁ!あ、でも目元はお母さん似なんかな?」
「はは、じゃ、奥座るよ」
「はいよ。今日、ええ鱧が入ったんですわ。それでええですよね?」
「うん、任せる」
カウンターの奥に隠れるように扉があった。そこを入ると、中庭が見える小さな座敷の個室があった。
「親父、ここよく来るの?」
座敷に腰を下ろしながら、当たり障りない質問をしてみた。
初めて見る親父の交友関係に気恥ずかしく思う自分を表に出さないようにと無意識に思っていたかもしれない。
「いや…初めて来た」
「え?」
「この店に魚を卸している超一級の漁師の撮影したことあってさ。そんとき、あの大将も撮影に何日か同行してたんだよ。ずっとここに来い来い言われてたけど行けてなかったからさ」
「へぇ…」
「その漁師は神経締めの達人でな、あの大将はその漁師の獲った魚を熟成させてもっと旨みひきだす達人。 二人が作る魚の旨さは、撮影中にいやってほど知ってるから、ここの旨さは俺が保証する」
「いや、べつに何も疑ってないけど…」
…どれくらいぶりだろう。
親父とこんなふうに話すの。
さっきまでヒリヒリしていた心が嘘みたいだ。なぜだかわからないが、何だか急に胸の中に黒く棲みついていたものが奥に引っ込んだ。
親父が話す一言一言が、旅に夢中になっていたあの時みたいな感情に戻してくれているようだった。
「はい、お待ちどうさま、まずは吸い物からどうぞ。順番に持って来るさかい」
赤い漆塗りの椀。
透き通って水鏡のように光を留めた液体には、白い牡丹様の鱧。
青柚子、梅肉がそえられた京都に初夏を告げるひと椀。
出汁の香りと、そこからのぼる細やかな湯気が、ゆっくりと碧の心に溶けていく。
親父をちらっと見やると、家ではいつも特に食べ方なんて気にしないように感じていたが、背筋はすっと伸びており、箸の持ち方も、肘の張り方も、すごく綺麗だ。
その様子を見て、碧は気付かれないようにこっそりと背筋を伸ばした。
小さな座敷でふと碧はなにかの違和感を持った。
(なんだろう…この、いつもと違う感じ)
「はい、お待たせさんでした!
焼き鱧と、あおと(青唐辛子)。
付け合わせは、ホタルイカと菜の花。五月のホタルイカはな、産卵期で身も栄養もいっちゃんプリプリや!うまいでー!
漬物は生姜の奈良漬 東大寺前にある老舗の森奈良漬店さんとこから取り寄せてもろてます。
お米は、今日は京都の北でちっさい田んぼやってる田中さんとこのお米です」
「おーいいね。器も眼福だ」
「さすが湊はん。これ、あれです。あの九谷です」
「ああ、やっぱりね。また石川行くとき、寄るわって伝えといて」
(そういや、こんな感じの皿が家にあったような…)
親父と一緒に石川に行ったときのことをまた思い出してみる。
旅をやめてから、いろんな風景を無意識のうちに心の奥に閉じ込めてきたけれど、思い出そうとすると、ありありとそれは昨日のことのように瞼の裏に蘇った。
鱧、ホタルイカ、菜の花、お米…。
口に含む度に、そのひと口一欠片が全身に巡った。
その食材たちが息吹を放った瞬間、見たことがないのに、その場に居なかったのに、なぜだか自分もそこに存在していた気になった。
鱧の太い身を抱え込む漁師の逞しい腕、満天の星の如くのホタルイカの詰まった網、紋白蝶の舞う菜の花畑、金色の稲穂。
咀嚼をしながらしばしの追体験を楽しんだ。
なんだかそれは、お茶を飲んでいる時と少し似た感覚だった。
この店は京料理をもう少しカジュアルに食べてもらいたいと、大将が老舗の料亭から独立して立ち上げたもので、朝と夜の一回転だけ営業しているのだとか。
あっという間に人気店になり、今となっては予約は三ヶ月待ちらしい。
ふと思った。
(親父、いつの間にこの店予約したんだろ…?)




